第3話 犬と事件と逆光

 作業台の前に立ったまま本日3杯目の紅茶とクッキーを体内におさめている間、セナ先輩は香水のことなどすっかり忘れてしまったかのように、ブラッドハウンド犬がいかに有能であるかを滔々と語った。ジュリ先輩からの事前情報通り、かなりその犬にご執心であるようだった。


 楽しそうにブラッドハウンド犬の活躍事例を並べるセナ先輩は、図書館でむくれながら必修課題を片付けているときよりは明らかに魅力的だった。普段からこれくらい楽しそうにしていてくれればいいのだが、わざわざ楽しそうに振る舞うことにメリットを見出せないであろうセナ先輩には到底無理だろう。


 セナ先輩の話し方はジュリ先輩とは正反対だ。情報量が多くて抑揚が少なく、会話というより講義や解説に近い。


 ランダムな連想で話題が移る前に、隙を見つけて質問をねじ込んだ。


「あの……そもそもどうして急に犬について調べようと思ったんです? 今まで特に興味を持っているようには見えませんでしたが」


 セナ先輩はきょとんと少し目を見開いて静止した。話を遮って気を悪くしただろうかと心配していると、セナ先輩は不道徳なうわさ話をするときのように、にやりと笑った。


「先週この近辺で起こった、パティスリーアンドロイド襲撃事件を知っているか?」


 首を横に振った私に、事件の概要を若干の熱を込めて教えてくれたが、ほとんど事件名のままだった。要するに数店のパティスリーで、導入されているアンドロイドが何者かに襲われた、とのことだった。セナ先輩が語るには、それほど複雑ではない事件だが意外にも犯人探しは難航し、その際に活躍したのが2匹のブラッドハウンド犬だというのだ。

 

「これほど科学技術が進歩していても、結局私たちには犬に頼らざるを得ない場面がある。彼らから学べることはまだまだ多いな」と締めくくった。


 それから話題は近年のアンドロイドを利用した犯罪や、なぜかかつて政府の組織が開発した幻覚剤へと、話はセナ先輩にしかわからない法則で変わっていった。


 先輩の話に聞き入っていると、大きく傾いた夕陽が目を眩ませた。まだ聴いていたい気もしたが、話のキリもいいので続きはまた今度、と話を切り上げて部屋を退出した。


 思いのほか長居していたようで、廊下に出たとたん寒さに皮膚が粟立った。心許ない夕陽と温かみのあるオレンジのライトに照らされた階段を早足で下りて、すぐ右手にあるエウロパの部屋のドアをノックした。部屋の中でごそごそと動く音を聞きながらしばらく待っていると、私のコートを片腕に引っ掛けたエウロパが部屋のドアを開けた。


「ユイカさん、お帰りですね?」


「うん」


「ではコートを」


 私がコートを受け取って羽織っている間、エウロパは玄関のドアを開けた。改修したときにカギを撤廃して個人認証システムのついたドアを導入したため、未登録の人間では開けられないようになっているのだ。内側にもそのシステムが導入されているのは正直不便だ。


 開けられたドアから入り込む本格的な冷気に身震いして、コートの前をきつく合わせた。扉を開けて待っているエウロパに「お邪魔しました」と軽く頭を下げながら外に出た。


 「気を付けてお帰りください」と背中に届いた声がやさしく聞こえて振り返ると、エウロパは柔らかく自然に微笑んでいるように見えた。


 逆光が役に立つこともあるのだ。

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