第2話 サ・ク・ラ・コ・コ・ア

 おかわりした紅茶を飲み干し、テーブルのチョコレートを二人がかりで半分ほど消費して、私はジュリ先輩の部屋を後にした。


 さわやかな笑顔に見送られながら廊下に出る。植物パターンの壁紙やワインレッドのマットなどでキレイにしているが、その造りは雑居ビルの名残を多分に残していた。人間がぎりぎり二人すれ違うことができる程度の広さしかなく、右に視線を振ればすぐ近くに階下に続く階段が見える。踊り場の窓から差し込む来た時より少し傾いて赤みの増した陽光を浴びながら階段を下りていくと、バタバタと足音を立てながら勢いよく駆け上がってくる柊セナと目が合った。


「ユイカ!」


 癖のあるチョコレート色のポニーテールを揺らして、普段は眠そうにしている灰色の目を輝かせて私を呼び止めた。日焼けを知らないような白い頬に血色が浮かび、喜びを抑えようともしない口角は上がりきっていた。


「ちょうどいいところで会えた」セナ先輩はスピードを落として階段を上がり、私の左手を強めにぐっと握って引っぱった。「来て、いいのができた」


 上ってきたときよりも激しい勢いで私の腕を引いて階段を下りていく。いくらオーバーサイズであるとはいえ、白く細い太ももの上を揺れるチャコールグレーのトレーナーの丈が危うい。何度見ても見慣れない。同性の私でも目にやり場に困るのでいい加減どうにかしてほしいのだが、外見に無頓着なセナ先輩は何度指摘しても改善しようとしないのだ。


 ワンフロア下りてセナ先輩はカギをかけていない自室のドアを開け、そのまま部屋の中まで引っ張ってようやく私の手を離した。室内の基本的な構造はジュリ先輩の部屋に似ていたが、ソファの代わりに大きな作業台が置かれており、客をもてなすようなローテーブルはなかった。


「で、何ができたんです?」


 少し乱れた呼吸を整えて言った。私に背を向けて無水アルコールやビーカーでごちゃごちゃした作業台に視線を滑らせていたセナ先輩は、目当てのものを手に取って振り向いた。


「これだよ」


 その手にはバターを溶かしたような色の液体が入った小さなビーカーが収まっていた。


 セナ先輩特製の香水である。五感が鋭く手先が器用な彼女はSNSで依頼を募集し、そのイメージに合わせて調香することを趣味の一つにしていた。


 香水はオーダーメイドである。同じ香りを量産する必要はないため、ビーカーも小さいが液体も少なく、せいぜい20ml程度しか入っていないようだった。


「ハンカチを出して」


 言われた通りにブレザーから白いハンカチを取り出して両手の上に広げた。セナ先輩はビーカー内の香水をピペットで吸い取り、ハンカチに2滴落として染み込ませた。ふわりと甘い香りが広がる。ちらとセナ先輩の様子を見ると、獲物を狙う猫のような目で私の反応を凝視している。虹彩の色素が薄いせいで瞳孔が拡大していることがよくわかる。正直ちょっと怖い。


 わずかに緊張しながらハンカチを鼻に付けて香りを直接吸い込んだ。甘酸っぱくてきゅんとする香りと、甘くて胸がざわつく香りが混ざり合っている。頭がふわっとして懐かしくて切ないような、不思議な香りだ。


「感想は?」


「……なんだか不思議な香りですね、嗅いだことないはずなのに既視感を覚えるというか……」


「具体的に何か思い浮かぶものはあるか? 音楽でも情景でもなんでもいい」


「そうですね」目を閉じてもう一度香りを吸い込む。「卒業式の日の教室でしょうか。去年のその日、証書をもらって解散した後、なぜか友人から個包装のマカロンをもらったんです。その時のことを思い出しました」


「なるほど」呟いて、セナ先輩は手に持っていたビーカーとピペットを作業台に置き、再びくるりと向き直った。「春の記憶を呼び起こすことができたのだから、この調香は成功だ」


 セナ先輩は満足げに笑い、窓際の隅で異質な存在感を放っているボールチェアに入っていった。もぞもぞと身体を動かして背中をカーブに沿わせて膝を立てた。それから彼女は思索に耽る時の癖でそのままぼうっと虚空を眺めてしまった。どうしていいやらわからないので、とりあえずハンカチをしまってベッドに腰掛けた。


 手持無沙汰になり指を重ねたり折り曲げたりしてうさぎを作っていると、


「ラブレターだ」


 とセナ先輩がうわごとのように呟いた。


「なんです?」


「この香水のことだ。メッセージに『同じ香りのものを2つ』とあった。1つは自分のために、もう1つは3月に卒業する先輩へ渡すために。卒業までの10日ほどの間、彼女はこの香水をつけて先輩と過ごす。そして卒業式の日に同じ香りの香水を先輩に渡す。『私を忘れないで』と嗅覚を通して記憶に訴えるのだ。ユイカ、あの香水に何を混ぜているかわかるか?」


「さあ、ただ春らしい香りだと……」


 セナ先輩はふっと小さく笑って「そこから3回ほど連想すればたどり着ける結論だ」正面に向き直り両膝を抱えた。


「5種類の精油を混ぜ合わせてあるのだが、メインはサクラとカカオだ。どちらも比較的身近で若々しく、春らしいイメージの香りだ。おそらくこの香水がなくなっても――あるいは使われなくても、春になれば街中にあふれるこれらの香りが先輩の記憶のトリガーとなるだろう」


「なるほど。なんていうか……すごく熱烈ですね」


「かもな。異様なほどの執着心がうかがえる。だがかなり効果的だ。ユイカにも経験があるだろう。例えば……」言いながらセナ先輩はボールチェアを降りてゆっくりと玄関に歩き出した。「クッキーの匂いがする。市販のものより明らかに砂糖の分量が多くて焦げている、手作りの匂いだ。この匂いで口にした時の幸福感を思い出し、実際の胃の具合とは無関係に食べたいと思う。そしてこの下宿と――」ドアノブに手をかけて開いた。


「彼女のことを思い出す」


 ドアの向こうに、クッキーとコーヒーの入ったマグカップを載せたトレイを持ったエウロパが立っていた。


「なぜならこのクッキーはエウロパの手作りであり、ユイカは私の部屋に来るたびにこれを食べているからだ」


 セナ先輩が閉じないよう押さえたドアから、エウロパは機械的な微笑みを浮かべたまま部屋に入ってくる。見慣れた動作で作業台の隙間を見つけてクッキーの載った皿とマグカップを置くエウロパを、私はただ黙って目で追っていた。ふわふわのピンク色の髪とクラシカルなメイド服に、ジュリ先輩の言葉の断片が脳裏に反響する。


 エウロパ……心……。


 確認してみないわけにはいかなかった。


「ねえ、エウロパ」


「はい、なんでしょう?」あどけない少女のような声とともに、黒いスカートを優雅に翻しながら振り返る。


「昨日はどうして私にチョコをくれたの? 質問に大した意味はないんだけど、わざわざ学校の前で待っていてくれたから驚いちゃって……」


「バレンタインデーだったからですよ。親しい人にチョコレートを渡す日ですから」


「それだけ?」


「はい、それだけです」


 言い終わると、エウロパは軽いお辞儀をしてトレイとともに部屋を出ていった。すれ違ったセナ先輩は何かを察したようだったが、結局その正体を突き止めるまでには至らなかった。当然だ。どれだけ彼女が推論していくつもの仮説を立てても、絞り込むための材料は私の頭の中にしかないのだ。


 ベッドを離れ作業台に置かれたマグカップを手に取った。刺さるような視線を感じて見ると、マグカップと2枚のクッキーを手に自分の巣に戻っていたセナ先輩と目が合った。気まずさから笑いかけてはみたものの、こらえきれないため息が漏れた。


 やはりバレンタインはカレンダーのプログラム、彼女はどうあがいても機械――所詮は金属の集合体なのだ。

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