第1話 電子メイドとバレンタインの後日談
大人しく壁際にまっすぐ立つシンプルなメイド服姿の少女型アンドロイドに、電子パッドをかざして異常がないかを確かめる。彼女の顔から順に胸元、腹、足下をスキャンする。文庫本二冊並べた程度の液晶画面にアンドロイドのシルエットが青白く写り、『clear』の文字が次々と表示される。
「どう? エウロパに異常はなさそう?」
左隣りから画面を覗き込み、一ノ瀬ジュリが世間話のトーンで話しかけてきた。アンドロイドの点検は週に一度行っているが、これまで一度も異常があった試しがないので、ジュリ先輩も私の返しに見当をつけた上で言っているのだろう。
「ええ、今回も特に異常なしですよ……ああ、エウロパ、もう動いていいよ」
パッドの画面を落とし、メイド服の少女型アンドロイド――エウロパから静止命令を解いた。
「はい、ありがとうございます」
ころころとした少女らしく明るい声とともに、エウロパは軽いお辞儀をした。その動きからワンテンポ遅れて淡いピンクブラウンの髪が肩の上でふわふわと揺れ、耳の上で結ったハーフツインが犬の耳のように跳ねた。
エウロパはこの下宿の管理人だ。雑居ビルを改装して四つの部屋を確保したこの建物の管理人も、当然当初は人間だった。しかし防犯やスケジュール管理の正確さなどを考慮した結果、五年前から人間の管理人は自ら引退して表舞台から退き、代わりにアンドロイドの管理人を配置することになったのだ。
この試みは概ね成功だった。エウロパは人間と違って睡眠を必要としないおかげで、住人の不規則な帰宅時間に頭を悩ませる人はいなくなり、うっかり忘れることなど本質的に不可能であるため、配達された荷物が三日も管理人の寝室に眠るようなこともなくなった。
まあ、ここの住人はエウロパを除けば二人しかいないわけだけど。
「今日もありがとうね、ユイカ」ここの住人の一人であるジュリ先輩は、優しくもどこか含みのある彼女らしい笑顔を浮かべて言った。「紅茶を淹れるよ、上がって」
おいで、と肩越しに振り返ってヘーゼルの虹彩で誘導する彼女の後ろに続いて階段を上る。一つ折った制服のプリーツスカートがふわりと翻った。ジュリ先輩の少し癖のある亜麻色の短い髪が、踊り場の窓から差し込む昼の日差しに反射して柔らかく光った。
ジュリ先輩の部屋は三階にある。一階を「G階」と表現する人なら二階にある、と言うだろう。どちらにせよ彼女の部屋はフロアを二つ上がったところにあり、その黒いツルツルした扉には金色の文字で「B」の文字がプリントされていた。ジュリ先輩は文字と同じ色でめっきされたノブを回して扉を開いた。
部屋の中は自然光で明るいが、二月らしく空気は乾燥して冷たかった。それでも一週間前よりはわずかにだが暖かかった。春は確実に近づいている。
「座ってて、今お湯沸かすから」
「はい、ありがとうございます」
水道の水を電気ケトルに流し込むジュリ先輩の後ろを通り、八畳ほどの洋室の壁際、ベッドの向かいに置かれたソファに座る。ブラウンの布地に包まれた反発の少し強い三人掛けのソファ。もう何度も座っているはずなのに座り心地がよそよそしくて落ち着かない。
前傾姿勢をとってみたり深く腰掛けてみたりして自分の正しい座標を探っていると、ベルガモットの華やかで甘い香りが湿気に含まれて漂ってきた。
「ミルクは入れる?」壁の向こうからジュリ先輩が声をかけてきた。
「あ、はい、お願いします」
「砂糖は?」
「ひとつで」
形骸化したやりとりを終えてジュリ先輩は二人分の紅茶入りマグカップを運んできた。一つをローテーブルに置き、もう一つは手に持ったまま私の隣に座った。
ジュリ先輩は湯気を吹き飛ばして一口飲み、ふうっと息を吐いたかと思うと「あ、そうだ」マグカップをテーブルに置いた。
「チョコレートは好き?」
「ええまあ、特別好きってわけじゃないですけど、嫌いじゃないです」
「よかったら一緒に食べてくれる? 昨日バレンタインだったからいっぱいもらっちゃって……。嬉しいけど今年は何故か生チョコが多いから早く食べないと」
「ありがとうございます……でも、私も食べていいんですか? 渡した子は先輩に食べてもらいたいんじゃ……」
「そりゃあ私一人で食べれるならそれでいいけど、残して捨てちゃうことになったらそれこそ悪いからさ。それで、どうかな、食べる?」
「そういうことなら……はい、いただきます」
「ん、持ってくるから、待ってて」
さっと立ち上がってジュリ先輩は再びキッチンへ向かった。淡いグリーンのマグカップを手に取り、まだ湯気が微かに昇る紅茶をすすりながら冷蔵庫の開閉音と紙袋のがさがさする音を聞く。ほんのり甘いミルクティーが作業で少し疲れた脳を癒した。
キッチンから出てきたジュリ先輩は、ラッピングされてアレンジされた可愛らしいいくつかの袋をローテーブルに広げた。包装の隙間からブラウンやピンクのチョコレートやトリュフ、ガナッシュやスノーボールがのぞいている。
「わ……すごいですね」
「うん、すごいよね。これみんな……まあ、何個も作ったうちの一つかもしれないけど、私に作ってくれたんだって思うとうれしいよ」
ジュリ先輩は木漏れ日の中で眠る猫を見るような目でチョコレートを眺めた。あまりに柔らかくて優しい横顔に、心臓の奥がじわりと温かくなった。
「……先輩がたくさんの人に好かれている理由が分かったような気がします」
「あはは、本当に好かれてるかなんてわからないけどね」とジュリ先輩は困ったように眉を寄せて笑った。「ユイカは誰かからチョコレートもらった?」
「はい、何人かの友人からと、エウロパから……」
「へえ、エウロパから! 珍しいことだよ、彼女が誰かに何かをあげるなんて!」
「そうなんですか? でもきっとそういうプログラミングがされているんですよ、『一か月の間に四回以上顔を合わせる人には世間のイベントに合わせた物を送る』……とか」
「どうかな。エウロパは心からそうしたいって思ったんじゃないかな」
ミルクチョコレートの目に嘘の色は浮かんでいない。どうやらジュリ先輩は本気で、エウロパは自発的に考えて行動したと考えているようだった。
「ないですね、エウロパに『心から』なんて……いくら人間に近づけたって彼女はあくまで機械ですよ」
「そうかな。私はエウロパにも心とか気分はあると思うけどな」
あまり現実とは言えないジュリ先輩の意見に私は言葉の代わりに曖昧な笑顔を返した。それから話題はブラッドハウンド犬へと移っていった。ジュリ先輩いわく、共通の知人でありもう一人の住人である柊セナが最近興味の標的にしているらしく、口を開けばその話が九割を占めると言うのだ。ジュリ先輩は心底あきれた風に話すのだが、上がる口角までは制御できないようだった。
ジュリ先輩の軽く弾むような声を聴きながら、ありえない、エウロパに心なんて、と頭の中で反芻した。
しかし、もしかしたらと期待する小さく薄い靄が消えてくれることはなかった。
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