第一話 つまらない日常

「最近タイムが落ちてるぞ、水田」


 走り終わったあと運動場の端っこにあるベンチで休んでいると、陸上部の顧問をしている大久保にそう指摘された。

 大久保は中肉中背の顎髭を生やした渋い40代のおっさんだ。

 若い頃は優秀な長距離走の選手だったらしい。顧問としての実績もあり、指導も適度に飴と鞭を使い分け、生徒に厚く信頼されている。社会の教師をしていて、授業もわかりやすいと評判だ。


 そんな先生に対して、僕はなにも言えなかった。

 ずっと黙っていると、大久保は目を優しく細めて、僕の目を真っすぐに見つめた。

「最近どうしたんだ? 入部したばかりのころはもっと一生懸命走っていたのに、覇気が感じられないぞ」


 ちょっと前までは「ペースを緩めるな!」「本気で走れ!」など、怒鳴られてばかりだったが、最近はこんな感じで接してくる。

 とてもいい先生だと思う。

 一瞬、自分の抱えている悩みを洗いざらい打ち明けてしまおうか、と考えてしまう。

 だが、タイムが伸びないのは先生に打ち明けてどうにかなるような問題ではたぶんない。

 これは僕自身の問題だし、他人に話したくなかった。


「なんでもないです、ちょっと体調が悪いだけです」


 だから、僕はそっけない返事をした。

 大久保はそんな僕を怪訝な表情で見つめてきた。


「たしかにここ最近顔色がよくないが、本当にそれだけか?」

「はい、本当にそれだけです」


 大久保は依然として疑念の目で僕のことを見ていたが、やがてはぁっと息をついて、頭をわしゃわしゃと掻いた。


「お前ぐらいの時期はいろいろあると思う。事実おれもお前ぐらいの頃はいろいろあった。だがな、なにか悩みがあったら気軽に相談しろよ」

「はい、ありがとうございます」


 僕が頭を下げると、先生は寂しそうに笑って、去っていった。

 先生が僕を心配してくれるのは、嬉しいけど、迷惑でもあった。だから冷たい対応をしてしまったけど、先生が最後に見せたあの顔を思い出すと、胸がちくりと痛んだ。





 朝練が終わり、ジャージから制服に着替えて、教室へ向かった。

 二年五組の教室の扉を開いた瞬間、教室内の喧騒がどっと押し寄せてきた。


 生徒達が、今流行っているドラマや有名なバンドや人気のアイドルなどの話をしている。

 僕はため息を吐いて、窓際の一番後ろの席に座った。

 ぼーっと教室を概観するように眺めていると、扉がバンっと勢いよく開け放たれた。知っている顔が教室にズカズカと入ってくる。


「よー、おはよう!」


 彼はクラスの人々に愛想良く挨拶しながら歩き、僕の前の席まで来ると、どさっと乱暴に座った。

 そして椅子をくるっと回して僕の正面を向く。


「おはよう、進」

「……おはよう、篤史」


 僕はけだるげに挨拶した。


 彼は島村篤史、僕と違って彼は短距離走の選手だが、同じ陸上部に所属している。

 それなりに仲は良いし、こいつは馴れ馴れしく接してくるが、僕はこいつが苦手だった。


 客観的に見ても、すげぇ良いやつだってことは僕もわかってはいるんだけど……。

 彼は僕の胸の奥を見透かそうとするかのように、じろじろと見てくる。


「最近、元気がないぞ。部活も熱が入ってないようだし、なんかあったか?」

「べつに……なにもないよ」

「そうか? ならいいんだけどさ」


 納得してなさそうな顔だ。

 それにしても、こうやって正面で見ていると改めて感じるが、ほんとに男前だよな、こいつ。

 顔だけじゃなく、敦は性格もよくて、運動もできる。

 当然モテモテだし、男女問わず彼は人気ものだ。


 そんなやつと友達というのは、誇らしくもあるけど、劣等感もあるわけで……やっぱり僕はこいつが苦手だった。


 ガラッと教室の扉がまた開かれた。その瞬間、チャイムが鳴り響く。

 美少女で有名な、澤村佳菜が少し焦った感じで、教室に入ってきた。

 珍しい、普段は一番早く教室に着いているくらいなのに。

 澤村が入った直後に、担任の小沢も入ってきた。


 小沢は細身で黒縁の眼鏡を掛けた、おとなしい男の先生だ。

 そんな彼が澤村のことを責めるような目で見ている。


「今日は珍しく遅いな、澤村」

「その、すみません……」


 澤村はしゅんとした。

 小沢は険しい顔つきを崩し、柔らかく笑った。


「別に遅刻してるわけじゃないから謝らなくてもいいぞ。たまにはそういうこともあるだろう」


 小沢は澤村に対して、席に座るように促した。

 彼女は一礼すると、教室の扉側の最前席に座った。

 僕の席からは余りにも遠く離れている彼女を見つめる。


 相変わらずきれいだ。

 さらさらとしなやかに揺らぐ真っ黒のロングヘアー、白く透き通った肌、人形のように長い睫毛、大きな瞳、小ぶりな唇。

 美人は三日で飽きるというのは本当なのかなと、彼女を見ていると感じる。


「何をそんなにじろじろと見ているんだ?」


 篤史がにやにやとした笑みを顔に張り付けて、話しかけてきた。


「べつに……何も見てないよ」

「嘘つかなくてもいいじゃないか。澤村のこと見てたんだろ?」


 彼はより一層笑みを深くして言った。

 僕が答えないと彼は続けて「知ってるぜ、澤村のこと好きなんだろ?」と言ってきた。


 彼を少し鬱陶しく思いながら、どう返答しようか迷っていると、小沢にホームルーム始めるから私語は慎めと注意され、そこで会話は終わった。

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