十話

 朝日が入り込む明るい部屋に再び戻って、あたしはさっきまで寝てたベッドに腰かける。まだちょっとだけ残る自分の温もりを感じながら、手紙の封を静かに開けた。


「……金?」


 まず目に飛び込んできたのは数枚の銀貨だった。これはきっとティルが稼いだ金だ。都に滞在するために必要なはずなのに、どうしてあたしに……。その銀貨を取り出して、ひとまずベッド脇に置いてから、次に三つ折りにされた便箋を取る。その一枚だけの便箋を開くと、黒いインクで書かれた文章があった。その文字はたどたどしくて、正直上手とは言えない。それは多分、ティルが本来右利きだからなんだろう。苦労しながらも、慣れない左手で書いた言葉……あたしは一文字ずつ追って読んだ。




『エドナへ


 まずは何も言わずに去ったことを許してほしい。これを伝えても、エドナは納得してくれないと思ったんだ。俺のために力になろうとしてくれるのはありがたいが、その気持ちだけでもう十分だ。義理を感じて俺の用事に付き合うことはない。この先は危険もあるかもしれない。エドナがそんなことに巻き込まれる必要はどこにもない。仕事を見つけ、穏やかに暮らすことが一番だ。俺のことは忘れて、自分の生活を築いてほしい。同封した金はそれに活かしてくれ。ここまで読んでも、やはり納得はしていないかもしれないが、真っ当な暮らしに戻ってくれることが俺の願いだ。そうなればここまで共に来た甲斐も見い出せる。これまでの感謝を伝えたい。そして、エドナの幸せを祈っている。


                        ティルフォード・クレマジー』




 読み終えた便箋をベッドに叩き付けた。ごちゃごちゃ言っても、結局ティルはあたしのことが邪魔だったんだ。面倒を起こして、足手まといになるだけの使えない女だって! 自分でもわかってたよ。迷惑かけてることくらい。愛想が尽きるのも仕方ない。その程度の女なんだ、あたしは。こんな手紙じゃなくて、面と向かって言ってくれたほうがこっちは清々するってのに。何が感謝だ! そんな気持ち少しだってないくせに! この嘘つき! 消えたいならどこへでも消えろ――


「……嘘つきは、あたしのほうか……」


 ベッドに仰向けに倒れて両手で顔を覆った。無理矢理作った怒りでごまかそうとしたけど、やっぱり無理だ。寂しさが込み上げて怒り切れない。まだ離れてほしくなかった。俺を忘れてくれなんて言ってほしくなかった。片想いで終わるってわかってるからこそ、ティルを最後まで手伝いたかったのに……側に、いさせてほしかったのに……。


 あたしは手を伸ばして便箋を取り、丁寧に畳んで封筒に戻した。金は財布に入れると、ずしりと重みを増した。もうここにいる意味はない。仕事探しも、金を稼ぐことも――あたしは宿の主人に言って部屋を引き払い、さっさと外へ出た。そこには昨日と何も変わらない、晴れた青空と行き交う人々の喧騒がある。これまで何とも思わなかった光景も、今はただうるさくて目障りでしかない。突然目的がなくなって、あたしは当てもなく町中を歩く。足を動かすたびに懐の財布の金がわずかな音を立てた。ティルの金のせいだ。これはあたしの金じゃない。こんなに渡されたって重いだけで使えやしないよ……。


 通りを歩き続けてると、帽子にファー付きのコート、上下灰色のスーツを着た、いかにも金持ちそうな男とすれ違った。もうティルはいない。頼る人間がいないなら、生きるための金は自分でどうにかしなきゃ。これまでそうしてきたように――方向を変えて、あたしはその男の跡をつけた。


 適度に距離を開けて、近付けそうな機会をうかがう。と、道の途中で男が立ち止まった。奥から来た知り合いらしきやつに声をかけられて楽しそうに話し込み始めた。ここだな――あたしはよそ見のふりをしながら男に近付いて、後ろから肩にぶつかった。


「きゃっ……ご、ごめんなさい!」


 驚いてすぐに振り向いた男に謝る。


「……気を付けてくれよ」


 少しむっとした表情の男に続けて言う。


「あの、お怪我はありませんでしたか?」


「大丈夫だ。もういいから」


「あ、でも、ここに汚れが――」


 あたしはコートの左側のありもしない汚れを払って男の視線を引き付けた。


「何? 汚れだと? これは高いんだぞ」


「本当にごめんなさい。でもすぐに落ちますから……」


 そう言いながらコートの右側にそっと手を伸ばして、上着のポケットに指を差し込む。膨らみがあるから、何かしら盗れる物が入って――


『――今のエドナならきっと大丈夫だ――』


 不意に頭の中にティルの言葉がよみがえった。何で、こんな時に……。


「どうだ? 汚れは落ちたのか?」


 男の苛立った声が聞いてきた。


「あ、はい。もう、綺麗に……」


 あたしは手を戻して男から離れた。


「まったく……しっかり前を見て歩け」


 男のとげのある目付きに追いやられるように、あたしは足早に来た道へ引き返した。


 ふらふらと歩き進んでると、目の前に小さな公園があった。人影はなく、植木に囲まれた中にはぽつんとベンチが置かれてる。あたしは引き寄せられるようにそこへ行って腰を下ろした。それと同時に深い溜息が漏れ出た。


 ティルに置いて行かれたくせに、あたしはまだ彼の期待に応えたがってるみたいだ。盗みはするな、真っ当に生きろ――そんなことを守ろうとしてる。そんな筋合い、もうないのに……いや、言われたからじゃないのかも。多分あたしがそれを望んでるんだ。真っ当に生きたいって。そのきっかけをくれたティルの言葉や気持ちを、あたしは無視できないし、裏切りたくない。側にいなくても、それでも、あたしの側には見えないティルが存在するんだ。


「簡単に、忘れられるわけないよ……」


 忘れろって言うけど、無理だ。こんな中途半端な別れ方じゃ……でも、文句言ったってそうするしかないんだろう。忘れて、今は自分のこの先のことを考えないといけないんだ。一人で真っ当な暮らしをするために。


 となるとやっぱり重要なのは仕事だ。それを見つけられるかであたしの暮らしは大きく変わってくる。この町で引き続き探してもいいけど、ティルと長くいた場所だと変に思い出しちゃいそうで心配だ。それを心機一転させるためにも、別の町に移動したほうがいいだろう。そしてその移動先は一つしかない。都ロイディアだ。


 前にティルが言ってたけど、都なら女だろうと関係なく、自由に仕事が選べるって話だ。ここより数もあるだろうし、すぐに見つかるはずだ。あたしには理想的な場所と言える。だけど一つ気になるのは、都はティルが目指してた場所ってことだ。他の町より何倍も広いだろう都で鉢合わせすることはまずないと思うけど、もし出会っちゃったらどんな顔をすればいいんだろう。心配するほどの可能性はないだろうけど……あれ? ひょっとしてあたし、会えるのを期待してるのか? そんなの、どうせ叶わないことなんだから、すぱっと諦めないと。自分のことを真面目に考えなきゃ。まずは都へ行く方法だ。


 この辺りの地理はまったくわかんないから、道は誰かに聞くしかないけど、ものすごい距離があったら徒歩じゃ難しいだろうな。仮に聞いても、道を間違えてたら大変だ。知ってる人の案内があれば安心なんだけど。


 考えながら腹の前で腕を組むと、腕に財布が当たって金の感触を感じた。……ティルの金は使いたくないけど、手っ取り早く都へ行くには使うしかなさそうだ。あたしはためらいの気持ちを捨てると、早速行動に移った。


「……ねえ、これ都まで行くの?」


 町の入り口の脇に二台の馬車が止まってて、あたしはその一方の馬車の御者にたずねた。


「ああ、そうだよ。乗るか?」


「都まで歩いてくと、どのくらいかかる?」


「徒歩だと一日か……もうちょいかかるかな。でもこの馬車なら日暮れ前には着くよ」


 やっぱり距離があるんだな。乗ったほうが安心か――


「じゃあ乗るよ」


「はいよ。客が集まったら出発するから、先に乗ってくれ。代金は前払いだ」


 あたしは金を払って、初めての乗合馬車に乗り込んだ。それから数分後、馬車の中を隙間なく客が埋めると、御者は手綱を振って馬を走らせた。遠ざかるペリントの町と、風と共に流れる緑の景色を眺めながら、あたしはいろいろな期待を抱いて胸を高鳴らせてた。でもそれからしばらく後、自分に乗り物酔いがあるのをすっかり忘れてたことに気付いて、吐き気を懸命にこらえながら都まで馬車に揺られるはめになった。これもいつかは克服できるといいんだけど……。

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