九話
「こっちの野菜も切っとけよ」
「はーいっと……」
あたしはまな板の上で大量の人参を切り刻む。ザクザクトントンと響く音が小気味いい。これまで料理をしたことは少ないし、包丁を握るのも随分久しぶりのことで、自分でもまだまだ下手だってわかってるけど、それでも材料を切るだけなら楽しく感じる。これならすぐに慣れそうだ。
「……人参、切り終えたよ。はい」
ボウルに入れた大量の人参を料理長に渡した。
「ご苦労さん。……大きさが揃ってねえな。次は揃えろよ」
注意を貰って、あたしは次の野菜に移った。
ここはペリントって町の大衆食堂で、ご覧の通り、あたしはここで働いてる。ほんの数日前に町に着いたあたし達は、物価の高い都に行く前に少し稼いでおいたほうがいいと、この町でしばらく働くことに決めた。そうして見つけた仕事がこれだ。
「魚のフライと豆スープ、できてるぞ」
「おい、次の注文はなんだ」
「ジャガイモのクレープと牛ソテーだ」
厨房内には男だけの威勢のいい声が行き交ってる。ここを選んだ理由はずばりこれだ。技術がなくてもできる仕事も重要だけど、あたしにとっては男だけの職場っていうことが何よりも重要な条件だ。配膳係は唯一女ではあるけど、厨房に入ってくることは滅多にないから、びくびくする心配はまずない。だから仕事に集中できる環境になってる。三人いる料理人も、あたしがへまをすれば当然厳しく怒鳴ってくるけど、わからないことを聞けば教えてくれるし、出来がよければ褒めてくれて、いい感じに優しい人達だ。
「おい、野菜切ったか」
「……今終わったよ。どうぞ」
あたしはカブとレタスの山を料理長に見せた。
「よし。次は皿洗っとけ。昼過ぎて溜まっちまってる」
流しを見れば、昼食時に押し寄せた客の食器が何十枚と重なって置かれてた。あたしは腕まくりしてから気合いを入れて食器洗いに挑んだ。任されるのはこういう単純作業や雑用だけだけど、それなりにやりがいを感じてた。真面目に働く感覚にちょっと気持ちよさを覚えてるんだろうか。自分でも意外だ。でもこれなら長くやれそうな気がする。
日が暮れて、夕食時を過ぎた夜、食堂は閉店時間になってあたしは帰路につく。この町での家は安宿だ。ただ寝るだけの食事もとれないぼろい宿だけど、金を節約するには最適なとこだ。
「ティル、いる?」
部屋の扉を叩いて声をかけると、中からああ、と返事がして、あたしは静かに押し開けた。
「おつかれ。今日も大丈夫だったか?」
ティルはマントや上着を脱いで、くつろいだ様子でベッドに座ってた。
「うん。問題なし。すごく順調だよ。器用だって褒められちゃったし」
「そうか。それはよかった」
「ティルのほうはどうなの?」
「俺のほうも問題はない」
「長めの仕事なんだから、くれぐれも身体に気を付けてよ?」
「簡単な仕事だ。体調が悪くなりようがないさ」
そう言ってティルは笑った。
ティルが見つけてきた仕事は、商社の持つ倉庫内の在庫確認作業と、同じ倉庫の深夜警備という仕事だ。聞けば、最初こそ片腕だけの姿に相手は難色を示したらしいけど、確認作業の書類記入は左手でもできるし、警備に関しては格闘を実演したらすぐに納得してくれて雇うことが決まったという。まあ当然だ。ティルは元警察隊で、ラッタとトーマスを伸した実力があるんだ。警備させれば倉庫の安全は保証される。仕事時間は深夜一時から朝の十一時までと、やや長い。急に不規則になって、身体に響かなきゃいいんだけど。
「夜、眠くなったりしない?」
「仮眠を取って行けば平気だ。向こうでも休憩は取れるしな」
「時間、もうちょっと短くしてもらってもいいんじゃない?」
「短くすれば、その分の給料が減る。減れば長い日数働かないといけなくなる。それなら変えることはないだろう」
そう言われると反論しにくいけど……。
「二週間くらい働くつもりなんでしょ? それで二人分……足りるの?」
「都の物価を考えれば、どうにか足りるとは思うんだが、実際に行ってみないとわからないな」
「やっぱあたし、別の仕事探そうか? 食堂はいい環境なんだけど、給料安いから」
「気に入っているならそのまま続けたほうがいい。無理に変えて仕事探しにまた苦労するのも嫌だろう」
「それはそうだけどさ……ちょっとでも高い給料のほうがいいでしょ?」
「給料ばかり気にするな。順調に働けているなら、それでいいじゃないか」
「……うん」
本当にそれでいいんだろうか。探せばもっと稼げる仕事は他にもあるはずだけど……。
「エドナには今の仕事が合っているんだろう。頑張るんだぞ」
微笑むティルにあたしも笑みを返した。
「わかった……ティルはこれから仕事だね。そっちも頑張ってね」
軽く手を振ったティルに見送られて、あたしは扉を閉めて自分の部屋へ戻った。まともな仕事をして、まともな金も稼げてるけど、あたしはもっとティルのために役に立ちたい。あたしが女恐怖症じゃなきゃ、いろんな仕事探せて選べるのに。克服、できればな……。
そんなことを考えつつも、食堂での仕事を続けて一週間が経った頃だった。
「ああ、オーナー」
料理人の声に作業中だったあたしは振り向く。と、厨房の入り口に知らない男が立ってた。
「客の入りはよさそうだな」
小太りの男は腕を組んで満足そうに笑ってる。
「ええ。常連客も増えてますよ」
料理長は鍋の中のシチューを皿によそいながら言う。
「心配するようなことはなさそうだな。……それで、君が言っていた娘は、彼女か?」
男の視線が急にあたしに向いた。な、何か用でもあるのか?
「そうです。……エドナ、この人はこの店のオーナーだ」
料理長は手を止めると、こっちに来て男を紹介した。ここの所有者ってことか。しわ一つない上着やズボンに、どことなく余裕のある態度は、金持ちっぽさを感じる。
「初めまして……あたしに用でも?」
「実は、この料理長から君の評判を聞いてな」
「評判?」
目で問うと、料理長は言った。
「料理経験がほとんどないのに、たった一週間でものすごく上達してる器用な娘がいるってオーナーに話したんだよ。そしたら興味持ったようでね」
あたしに興味? ただ野菜切りが上手くなっただけで? 何で?
「オーナーはこの店以外にも、いろんな店を持っててな。今は新しく仕立屋を開いたんだが、人手が少し足りないらしくて、それでエドナのことを話したんだ」
「裁縫に必要なのは、目のよさと器用さだ。特に器用でなければ商売にならない。その面で、君は見込みがありそうだ」
ま、まさか、あたしに裁縫をやれっていうの?
「ちょっと待ってください。あたし、裁縫なんて全然……」
「経験がなくてもいい。教えられる人間はいる。料理の呑み込みが早いのなら、裁縫もすぐに覚えられるだろう」
「料理って言っても、ただ材料切ってただけのことで……」
「何だエドナ、自信がないのか?」
「自信とか、そういうことじゃないんだけど……」
切ることと縫うことって、まったく違うと思うんだけど……器用さにそこまで期待されても困るよ。
「お前も、こんな粗野な男だけの仕事場より、話が合う女の仕事場のほうがいいだろ」
「女……!」
そう言われて気付かされた。世間一般的に、裁縫は女が任される仕事で、仕立屋にも当然、女がいる――
「断らせてもらいます!」
「まだ決めることはないだろ。じっくり考えてみたらどうだ」
「考えるまでもない。仕立屋には行かない」
行けば裁縫どころじゃなくなるよ。
「ふむ、その理由はなんだ?」
オーナーの怪訝な顔がこっちを見る。
「何って……あたしは、だから……ここの仕事が性に合ってるんだ。それを変えたくは――」
「ではこれでどうだろう。裁縫を覚える研修期間を終えたら、今の給料より多く出そうじゃないか」
「え……」
思わずオーナーの顔を見返してしまった。今の安い給料より、多く……?
「……本当に?」
「嘘の約束などしない。もちろん研修期間中も一定額は出すぞ。まあ大分安くはなるが、それを終えて正式に仕事を始めれば、増額した給料をしっかり払おう。……どうだね?」
ごくりと唾を飲み込んだ――貰える金が増えるに越したことはない。裁縫を覚えれば、今以上の給料が貰える。でも仕立屋に行けば、絶対女がいるんだ。そんなところで働けるわけないよ……。
「悪いけど、やっぱりあたし――」
言いかけた時、頭にティルの微笑んだ姿がよぎった。……できるだけ多く金を稼いで、役に立ちたいってずっと思ってたのに、その機会を簡単に捨てていいんだろうか。これはまさに役に立てる時なんじゃないの? だけど問題は女……その恐怖症だけがあたしの気持ちをためらわせる――いや、いつまでも怖がってるわけにはいかない。怖いと思うから余計怖くなるんだ。克服したいって思うなら、我慢して一歩を踏み出さないと、この先何も変わらないんだ。ティルに迷惑は、もうかけたくない……!
「あたし……裁縫、やってみます!」
はっきり言ったあたしに、オーナーは嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「てっきり断られると思ったが、そうか。考え直して来てくれるか」
「やっぱり金の魅力には勝てなかったようだな」
料理長はからかうようにあたしを見て笑った。金のため、ひいてはティルのためだ。
「では早速、明日から来てもらおうか。場所は――」
オーナーから店への道や仕事時間なんかを教えられて、あたしは次の日から仕立屋見習いとして新たに雇われることになった。食堂の仕事の要領がわかってきたとこだったし、急遽離れるのは何か寂しい気もするけど、そんなことを感じてる暇はないんだ。あたしはできることのために進まないと。
「――伝えることはこれで以上だ。では明日からしっかり裁縫を学んでくれ。期待しているぞ」
にこやかな顔を残してオーナーは厨房を後にする。それを見送ってから料理長はあたしに振り向いた。
「短かったが、お前とも今日で最後か。仕事は変わっても頑張れよ。だが今は目の前の仕事に集中してくれ。オーナーと話し込んでた間に注文が入ってるぞ」
料理長が慌ただしく動き出したのを見て、あたしも途中だった作業を再開させた。閉店時間まできっちり働いて、辺りが暗くなった頃、あたしは安宿へ帰った。仕事を変えたことはもちろんティルに報告した。給料がもっとよくなるって言ったら、なぜかティルは残念そうだったけど、すぐに微笑んで、頑張れよと言ってくれた。ティルのためなら恐怖症なんて絶対に克服してやるんだ。怖いけど……きっと大丈夫。裁縫にだけ集中すれば、どうにかなるはずだ。多分……。
そして夜が明けた朝。緊張してあんまり眠れなかった身体で、あたしは教えられた仕立屋へ向かった。そこには看板を掲げたこぢんまりとした二階建ての建物があった。店を出したばかりってことで、まだ新しい外観の扉を静かに押して入った。
「あの、誰か……」
女性物の服や、様々な生地が整然と棚に並べられてる。静まり返った店内に客はまだいないみたいだけど、従業員も見当たらない。奥まで捜しに行きたいけど、足が動きたがらない。克服するって気合い入れたのに……。
もう一度呼びかけようかと思ってたら、店の奥、階段を誰かが降りてくる音がして、あたしは息を呑んで待った。
「……おや、もしかして、オーナーが言っていた新しい従業員かな?」
「は、はい。エドナ・ヒューベル、です……」
「そうかそうか。話は聞いているよ。かなり器用なんだってね。裁縫を覚えて、それを早く活かしてくれ」
あたしは穏やかに話す白髪混じりの男を見つめた――拍子抜けする気持ちだった。昨日から緊張しっぱなしだったのに、いたのは女じゃなく男だ。ひとまず安心しよう……。
「ああ、私はここの店長を任されているハリバートンだ。よろしく」
口調と同じく穏やかに笑う店長とあたしは握手を交わした。
「君は裁縫は初心者で、研修期間を設ける必要があるそうだね」
「教えてもらわないと、何もできないから……」
「それじゃあ、基本の縫い方から教えよう。作業部屋は二階だ。付いてきて」
言われるまま、あたしは店長の後ろに付いて二階へと上がった。作業部屋と案内された部屋には四つの机があって、その上には積み重なった衣服や裁縫道具が無造作に置かれてた。
「ここで注文品を仕立てたり、持ち込まれた服を直したりするんだ。とりあえず、その窓際の席に座って。針に糸を通すことは、さすがに知っているかな」
店長は道具を用意しながら何も知らないあたしに丁寧に教えてくれる。実際に手本を見せながら、早速裁縫の基礎から学んでいった。ただ布を縫うにも、たくさんの縫い方があるんだな。どういう用途で使われるかでそれを使い分けるなんて、今まで知らなかったし、考えたこともなかった。
「――一度に教えても覚え切れないだろうから、今日は基本だけ繰り返し練習して、裁縫の感覚に慣れるといいだろう。じゃあこの針で――」
「あら店長、今日も早いのね」
「おはようございます」
女の声にあたしの全身は緊張した。入り口に目を向けると、二人の女が部屋に入ってくるとこだった。
「おお、来たか。おはよう」
「……ん? 知らない娘ね」
丸々した身体の中年女はあたしに気付くと、じっとこっちを見つめてきた。
「まだ言っていなかったけど、この娘は今日から一緒に働くエドナだ。裁縫は初心者だから、二人とも教えてやってほしい」
「初心者? 何でそんな娘をわざわざ雇ったんです?」
もう一人の細身で切れ長の目の女が、不満もあらわに聞いた。
「オーナー自ら連れてきた娘でね。器用さを見込んでとのことだ。人手が欲しいと言っていただろう?」
「まあ、言ったけどねえ……」
「初心者が来るなんて思わなかったわ」
二人は明らかにがっかりしてる。もう、嫌な予感しかしない……。
「そう言わずに、いろいろ教えてやってくれ。じゃあ頼んだよ」
店長は二人に任せると、さっさと部屋を出てってしまった――い、行っちゃうの? 一人にしないでよ。あたし、どうすればいいのさ!
「仕方ないねえ。教えろっていうなら教えるしかないわね」
「せめて即戦力にしてほしかったのに。教えながらじゃ余計仕事がはかどらないじゃない」
「オーナーが連れてきた娘だ。とりあえず様子は見ましょう。……エドナ、だったわね。私はハンナ、こっちはサラよ。これからよろしく」
「……はい……」
にこやかなハンナと不満を隠さないサラに見られて、あたしの鼓動はうるさく鳴りっぱなしだった。恐怖症は克服したいけど、この緊張と恐怖感はどうやって抑えればいいのか、まったくわからない……。
「無愛想な娘ね……裁縫教えるのは後にさせて。先に仕事を終わらせないといけないから。一人で練習でもしてて」
二人はそれぞれ机に向かい、それぞれ仕事の準備に取り掛かり始める。その様子を眺めつつ、あたしは言われた通り、身を小さくしながら練習を続けた。休憩を挟んだ午後になってから、ハンナが裁縫を教えに来てくれたけど、その半分もあたしの耳には入って来なかった。手取り足取り針の使い方を教えてくれても、至近距離にいられればいられるほど、緊張が聞こえる声をかき消してしまう。そのせいで上手く返事もできなくて、二人の冷めた視線を受けて初日は散々に終わった。予想はしてたことだけど、ここまで何にもできないなんて、我ながら恐怖症の根深さを痛感してしまった。でも明日からは必ずそれに打ち勝って、裁縫を自分のものにしてみせる――って気合いを入れることは簡単だ。だけどそれも、現場で発揮できなきゃ意味なんてないんだ。
拒否したがる身体を起こして、あたしは仕立屋で働き続けた。一人での練習と二人からの教えを受けて、裁縫というものがちょっとずつわかってきたけど、腕が上がってるかというと、それはよくわからなかった。
「……ああ、そこ、また間違ってる」
苛立った声がすかさず指摘してくる。
「だから、半針返して縫うの。聞いてなかった?」
呆れた声と溜息があたしの胸に突き刺さる。
「もう、嫌になっちゃうわね。あなた、本当に器用なの? オーナーに嘘言ってない?」
疑う視線に追い詰められる――自分ではわかってるつもりなのに、二人に教えられると途端に手元が狂い始める。全部緊張のせいだ。女が怖いからだ。女が側にいたら上手くなったものも下手になる。でも本当の実力がどうであれ、評価されるのはあたしが見せたことだけなんだ。
仕立屋で働き始めて一週間後、店長に呼ばれたあたしは結局クビにされた。ハンナとサラに、あたしじゃ役に立たず、成長の見込みもないと判断された結果だった。研修期間も終えられず、恐怖症も克服できず、あたしは無駄な時間を過ごして振り出しに戻された。一応安い給料は貰えたけど、この程度なら食堂で働き続けるべきだった。後悔の重さがのしかかってくる。ティルの言う通りにしておけばよかった。金に目がくらんで仕事を変えるなんて……。
「エドナ、帰っているのか?」
安宿の部屋の扉が叩かれて、外からティルが声をかけてきた。いつもはあたしがティルの部屋を訪ねるけど、今日は行かなかったから気にして来てくれたみたいだ。鈍い身体を動かして、あたしはそっと扉を開けた。
「……具合でも悪いのか?」
心配してのぞく顔に、あたしは首を横に振る。
「違うよ。……どうぞ」
ティルを招き入れて、あたしはベッドに腰かける。ティルはその正面の壁に寄りかかると、腰に手を置いて聞いてきた。
「仕事で失敗でもしたか?」
うん、と頷いて、あたしはクビになったことを話した。
「――ごめん。こんな馬鹿でさ」
「そんなことは言うな。俺のために仕事を変えてくれたんだろう? 謝るのはこっちだ」
「違うよ。どうにかなるって思ったあたしが甘かったんだ。恐怖症も、絶対克服できるって……でも、そんな簡単なことなら、とうの昔に治ってるはずだよね。本当、馬鹿なことしたよ」
またティルの足手まといだ。都へ出発する日が遅れちゃう……。
「エドナはいつから女性が怖くなったんだ?」
「子供の頃から、ずっとだよ」
「何かきっかけが?」
「親だ。小さい頃、両親が離婚して、あたしは父親に引き取られて……その後、父親と結婚した継母のせいだ。とにかく嫌な女だった」
「いじめられたのか?」
「まあね。そいつには連れ子もいて、あたしよりちょっと上の娘で、その親子にねちねちやられたんだ」
継母はとにかく父親の愛を自分達に向けようと必死だった。そのためにあたしは邪魔だったんだろう。表向きは可愛がるふりをして、父親がいないところじゃ無視を決め込んだ。自分の娘にだけあげるおやつを、あたしは黙って眺めてるしかなかった。でもそのくらいなら我慢もできたけど、継母は些細な罪をあたしに着せようとしてきた。食器を割ったとか、洗濯した服を汚されたとか、化粧道具を隠されたとか……もちろんあたしにそんな覚えはなかった。父親も最初こそ信じてくれたけど、何度も聞かされると、次第にあたしへの疑いを抱き始めて、態度も冷たいものに変わってった。まさに継母の思う壺だった。そんな母親を見習った娘も、あたしを部屋に閉じ込めたり、お気に入りの人形を盗んで泥だらけにしたり、陰湿ないじめを繰り返した。学校に通うようになってからは、あたしに勉強や宿題をさせないよう筆記用具を隠して、学校では自分のほうが優秀だと父親に思わせた。それを真に受けた父親は、一体誰に似たんだと、あたしを落ちこぼれのように見てきた。そんなことを十数年受け続けて、もうあたしは我慢の限界だった。
「十七になった年に、精神的に耐えられなくなってさ。思い切って家を飛び出したんだ。継母の望み通りになるのは癪だったけど、娘を信じてくれない父親ならこっちから願い下げだ」
「それから、ずっと一人なのか?」
「そう。村を出て、ちょっと働いてたんだけど、女と一緒にいると変な汗が流れて、怖くなってた。継母は今もあたしのことを苦しめてるんだ。胸くそ悪い女……」
「それで、スリか」
深刻そうな表情を浮かべるティルに、あたしは笑って聞いた。
「あたしのスリの正当性、わかってくれた?」
「スリ行為に正当性などない。どんなに辛い環境だとしても、犯罪は犯罪だ」
「……だよね」
「でも、理由はよくわかったよ。恐怖症になった経緯も」
「これさえなきゃ、あたしの人生、もっとまともになってたかもね」
「今だってまともじゃないか。食堂では普通に働けていたんだ。十分やっていけるさ」
「でも、女のあたしが働ける場所なんて……」
「もうここは固定観念がはびこる田舎じゃない。探せば必ずあるはずだ。あるいは、もう一度食堂に雇ってもらったらどうだ。エドナに合っていた仕事なんだろう?」
「また戻れるなら願ってもないことだけど、あたしの代わりに、もう別の人間を雇っちゃってるかもしれないよ」
「それは聞いてみるまではわからないだろう。明日、行ってみたらどうだ」
まあ、駄目でもともとか……。
「……うん。わかったよ。行ってみる」
「エドナはもうスリじゃない。そこから立ち直ったまともな女性だ。自信を持っていい」
「自信を持つほど、あたしはまだ順調じゃないよ」
「そうだとしても、今のエドナならきっと大丈夫だ。真っすぐに道を切り開いていけるはずだ」
「買い被りすぎじゃない? 何を根拠にそう言うのさ」
「根拠じゃない。俺がそう感じるだけだ」
ティルは肩をすくめて笑った。あたしに発破をかけただけなのかも。だけど、それでもちょっとは嬉しい。
「……じゃあ、その期待に応えられるように、頑張ってみるよ」
「ああ。頑張れ」
恐怖症を嘆いてたって治るわけじゃないんだ。だったらちょっとでも前に進んで、ティルのためになることをしなきゃ。まともな女に戻してくれたお返しとしても、期待を裏切らないためにも。女が怖いとか怯えてる暇があるなら、片っ端から仕事を探すんだ。よし……明日から気持ちを切り替えて、またやってやる!
ティルの励ましの言葉を胸に眠りについて、翌朝、気力十分に目を覚ましたあたしは、身支度を終えて早速仕事探しに出かけようと部屋を出た。
「お、あんた、ちょっと待ちな」
入り口の扉に手をかけようとした時、すぐ側にあるカウンターの向こうから宿の主人が呼び止めてきた。
「何? 宿代はちゃんと払って――」
「そうじゃない。預かってる物があるんだよ。……ほら」
主人は棚から一枚の封筒を取ると、それをあたしに差し出した。
「……手紙? 名前も何にも書いてないけど、誰から?」
「あんたの連れの男だ。少し前にそれを預けてった」
「ティルが……?」
それはおかしい。ティルの仕事は深夜からで、朝に出かけることはないはずだけど……。
「ティルは仕事に行ったの?」
「仕事かは知らんが、二時間ほど前に部屋を引き払って出てった」
「部屋を、引き払って?」
あたしは冷静になろうと努めた。ここで借りてる部屋はあらかじめ数日分の宿代を支払ってるから、長期間借りることができてる。その部屋を引き払うってことは、もうここには泊まらないってことで……それってどういうことなの? ティルは昨日そんなこと一言も言ってなかった。宿を出るなんて素振りも……何で? 何であたしを置いてくような真似をしたの?
「詳しい事情は、その手紙に書いてあるんじゃないのか?」
主人に言われて手元の手紙に目を落とす――ティルはあたしに、何を書き残したんだろうか。わずかな焦燥感が心を乱そうとするのを感じつつ、あたしは踵を返して部屋に戻った。
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