七話

 ドニアセットという初めて来た町を、あたしは一人物色しながら歩き進む。田舎では見ないレンガ造りの建物が多くあったり、行き交う人の数もこれまでより多くなってたり、あたしの中じゃ都会っぽく感じたんだけど、ティルに言わせれば、ここもまだまだ田舎の範囲なんだそうだ。あたしの想像力じゃ、この程度の都会しか思い描けないみたいだ。


「ここは、夜でも結構出歩いてるやつが多いんだね……」


 通りの人の流れを観察してると、もう夕食時は過ぎたのに、それでも出歩いてる人がそれなりにいる。田舎町じゃ暗くなれば、夕食を食べに帰ってあとは寝るだけだ。酒場があれば行くやつもいるけど、所詮田舎の酒だ。美味しいもんじゃない。閉店まで飲み続けるやつは少ない。でもこの町には人を帰らせない美味しい酒があるみたいだ。


「……ふーん、ここかな」


 灯りが煌々と漏れる窓をのぞくと、中には酒を飲んではしゃいで、談笑する多くの客の姿があった。繁盛してる酒場は絶好の場所だ。あたしは客のふりをして入り口の扉を押し開けた。


 何で一人でこんなことをしてるかと言えば、もちろん金のためだ。この町に着く間、あたしはどうすればティルの力になれるか考えてた。いろいろ考えたけど、結局あたしにできることはスリで稼ぐことくらいなんだ。ここに到着して、あたしはこの町に知り合いがいるから、金を借りられると嘘をついた。それを信じたティルは今頃宿を探して、それを終えれば待ち合わせ場所の大通りに向かうだろう。スリをやめさせようとするティルに、こんな嘘をつくのは正直後ろめたさがある。だけど金欠になったのはあたしのせいなんだ。なら責任を持って稼ぐべきだし、これならあたしは確実に力になれるんだ。お荷物にはならない。


 熱気がこもった店内に入って、あたしは早速標的になりそうな客を探した。ほとんど男の客で、若いのもいれば年寄りもいる。皆赤ら顔だけど、あたしの理想ほど酔ったやつは見当たらないな……。


「……お? あれはいいかも」


 ぐるりと見回した時、店の隅の机で突っ伏してる男を見つけた。両腕を枕代わりに、顔を伏せて眠ってるようだった。近付いて、ちょっと様子を見てみようかな。


「……ねえ、隣いい?」


 あたしは声をかけて男の酔いの深さを確かめた。すると伏せた顔がおもむろに動いて、ゆっくりあたしを見上げてきた。


「んん……? ああ……」


 口ひげを生やした男は五十前後くらい。しこたま酒を飲んだのか、あたしを見る目の焦点が合ってない。なかなかいい酔っ払い具合だ。


「一人で飲んでてもつまんないからさ、話でもしない?」


 あたしは隣の席に座りながら男の顔をのぞいた。


「話? ああ、いいぞ……」


 男は身体を起こして椅子の背もたれに寄りかかる。怪しいろれつもいい感じだ。身なりも上下茶色のスーツで小奇麗な服装をしてる。少なくとも農民や肉体労働者ではないだろう。探ればもしかするかもしれない……よし、こいつにしてみるか。


「あたし最近いいことなくて。あんたはいいこと、あった?」


「そうだな……仕入れた生地が大量に売れてな……」


 こいつ、生地問屋なのか? 商売人なら歓迎だ!


「へえ、すごいね。じゃあ金持ちなんだ」


「今回は、ついてただけだ……そうだ、あんた、一つ相談したいことがある……」


「何? 何でも言って」


 男の眠そうな目がこっちを見る。


「今回の儲けた金で、あいつに、何か贈ろうと思ってるんだが……」


「あいつって誰? 家族の誰か?」


 これに男は苦い顔を浮かべた。


「違う。女房になんかやるもんか……秘密の、恋人だ」


「……愛人ってこと?」


「はっきり言うな。秘密なんだから……」


 はあ……防御が甘そうなやつで安心した。


「その人に、何か贈りたいっていうわけ?」


「これまで、花やら宝石やらを贈ってきたが、毎回同じ物じゃ飽きられるだろ? 次はどんなものがいいか、悩んでてな……何がいいと思う?」


 まったくどうでもいい相談だな。


「あんた、生地問屋なんでしょ? だったら最高級な生地でドレスでも作ってあげれば?」


 そう提案すると、男の顔がぱっと明るくなった。


「おお! そりゃいいな。生地ならすぐ手に入るし、あいつはおしゃれ好きだからな……ふむ、そうしよう」


 すると男はあたしの手を握って、据わった目で見つめてきた。


「これで悩みは解決だ。ありがとう」


「どういたしまして……」


 あたしは男の手をやんわりとどけて笑った。酔っ払ってはいるんだろうけど、まだちゃんと話せる状態ではあるみたいだな……まともな思考ができないくらいまで酔ってもらわないと。


「じゃあ、解決したお祝いに、これ飲んで」


 机にあった男の飲みかけのコップを渡して、とにかく強引に飲ませた。男も勧められるまま飲んでくれる。あたしはカウンターへ行っておかわりを貰い、さらに男に飲ませた。


「うーん、いい飲みっぷりだね」


「やっぱり、飲み過ぎたな……」


 そういうと男は立ち上がる。が、身体はふらふらしてすぐに机に手を付く。


「おっと、一人で歩くのは危ないよ」


 あたしはすぐさま男に肩を貸した。


「家に……帰らないと……」


「それならあたしが送るよ。……ねえ、この人の代金、付けといて」


 離れた店員にそう言ってから、あたしは男を支えて酒場から出た。


「うう……外は寒いな」


 男が呟く。熱気のあった店内から出ると余計に寒さを感じる。


「さて、あんたの家はどこなの? 道教えてよ」


「……向こうを、真っすぐ……だ」


「はいはい、向こうね……」


 男が指差した方向へとりあえず歩き出すふりをして、あたしは人気が少ない暗がりへちょっとずつ進路を変えた。……たくさん金を持ってればいいんだけど。


「ここは、どこだ……?」


「あんたに言われた通りの道だから、大丈夫。ほら、ふらふらしないで」


 この辺りなら誰にも見られないかな――男を抱え直す仕草で、あたしは上着の内側やズボンのポケットを探ってみた。そうして手に入れたのは、たった一枚の銀貨と、五枚の銅貨だけだった。……見た目と職業に反して、これはしょぼすぎる。田舎の酒場の客と大差ない額だ。もっと持ってると思ったのに……いや、もっと持ってるはずなんだ。何せ本人が儲けたって言ったんだから。愛人に貢ぐほど余裕があるなら、ここでは持ってなくても、家まで行けばきっと――


「……ごめん。やっぱ道間違えたちゃったみたいだよ。ちょっと戻るね」


 あたしは元の道へ引き返した――予定変更だ。こいつから盗ったら道端に置いてくつもりだったけど、こんなしょぼい結果じゃ終わらせられないよ。こいつが持ってるのは確実。それならきっちりいただかせてもらわなきゃ。


 今にも眠りそうな男の頬を叩きながら、どうにか道を聞き出して、あたしはやっと男の家にたどり着いた。二階建ての、まあまあ大きな家ではある。でもどこの窓にも灯りは見えない。こいつの家族構成は知らないけど、一緒に住んでるなら家族はすでに眠ってるみたいだ。家に上がり込むなら好都合の状況――


「ありがとう、ありがとう……ここまでで……」


 男はあたしから離れて、よろめきながら玄関へ向かおうとする。


「まだ危ないって。部屋まで付いてってあげるよ」


 すぐに後ろから支えて、あたしは男の持ってた鍵で扉を開けてやった。


「おお、悪いな……」


「で? あんたの部屋は?」


「二階に……」


 真っ暗な玄関から、正面の階段を静かに上がって、指示された左側の部屋に入った。


「さあ、ベッドに着いたよ」


 広い部屋の奥のベッドまで運んで、そこに男を寝かせてからあたしは灯りを探した。とりあえず二つの燭台を見つけて火を付けてみた。まだ薄暗いけど、部屋に何があるかは何となく見える。明るくしすぎても男の目を覚ましちゃうし、まあこの程度で我慢するか。


「寝苦しい……上着を……」


 横たわる男がぶつぶつと注文してくる。面倒だけど仕方ない。あたしはベッドの男の上着を脱がせて、ついでにシャツのボタンも外してやる。


「ベルトが、きつい……」


 はいはい、緩めてあげますよ――望み通りにしてやると、男は満足したのか静かになった。眠ったのか? 顔を確認しようと上からのぞき込んだ時だった。


「……愛してるぞ」


 急に伸びてきた両手に、あたしの身体は抱き込められた。……ちょっ、ちょっ、やめろ! あたしはあんたの女房でも愛人でもないんだ! ったく、寝ぼけてるのか?


「わかったから、放して……」


「んん、アデリーン……」


 男はあたしの首をつかんで顔を近付けようとしてくる。……やっぱ寝ぼけてるな。面倒くさいやつめ。


「アデリーンじゃないから、ほら、一人で眠って」


「もっとこっちに……キスをくれ……」


「それはまた今度にしてもらいな」


「アデリーン……キスを……」


「ったく……いい加減にしろってば!」


 あたしは力に任せて身を離そうとしたけど、男の両手は離れず、そのまま引きずられるようにベッドから転げ落ちてしまった。静かな部屋にドスンと重い音が響いて、あたしは少し焦った。やばっ、寝てる誰かが起きてきちゃうかもしれない。貰うもの貰って、早いとこ出てったほうがいいな。


「うう……」


 床に落ちた男は寝ぼけた声でうめいて動かない。その隙にあたしは男の手から逃れて、急いで部屋内を物色した。机にタンスにクローゼット……順番に見てくけど、置かれてる物はほとんど女性物みたいだ。香水とか帽子、下着もそうだ。ここはこいつの部屋じゃないんだろうか。


「……お、これは……」


 窓際の飾り棚に置かれてた金の懐中時計を手に取る。燭台の灯りに照らされて表面の細かな彫刻がきらきら輝いてる――うん、これは高く売れるかも。


 この他に目ぼしいものはなく、長居するのも危ないと思って、それだけを腰に差し込んであたしは足早に部屋を出た。さっきの音もあって、一階へ下りながら誰か起きてないか耳を澄ませながら歩いたけど、幸い人の気配はなく、静まり返った廊下を進んで無事玄関から外へ出ることができた。一安心――と扉を閉めて前を向いた瞬間、あたしは全身が跳びはねそうなくらい驚いてその場に固まった。


「……あなた、どなた?」


 目の前には派手なドレスに毛皮の襟巻を付けた、どことなく威圧的で気が強そうな若い女が立ってた。ちょっと吊り上がった目は明らかにあたしを不審そうに見てくる。だ、誰なの? こんな時間に来るって――


「今、この家から出てきたわよね。どういうこと? ここは私の家よ」


 ……え? じ、じゃあ、あの男の家じゃない? でも鍵を開けて入ったのに――


「何か言ったらどうなの?」


 相手の語気が次第に強くなってく――この状況を整理したいけど、駄目だ。こんな近くに女がいると緊張で頭が上手く回ってくれない……。


「黙っているっていうことは、やましいことがあるようね」


 女が怖い顔で近付いてくる。どうしよう。何か言って逃げないと……。


 すると女は、何か閃いたように目を見開いたかと思うと、次にはこっちを鋭く睨み付けてきた。


「……まさか、あの人なの?」


 あの人……?


「中にあの人がいるんでしょう? 合鍵を持っているから、ここは自由に使えるものね」


 合鍵、自由に使える――何か、状況が見えてきた気がする。


「そうなんでしょう? あなたもあの人の……くっ、許せない。私が夜会へ行っている間に、別の女を連れ込むなんて……!」


 そうか。この家は愛人の家なんだ。そしてこの人こそがその愛人。名前はおそらくアデリーン。あの男が寝ぼけて呼んだのも、愛人の部屋だったから――


「他の女に目移りすることはあったけれど、隠れてこんなことを……しかも私の家を使ってだなんて、最低よ! 奥さんとも別れるって言いながらずっとそのままだし、ひどいわ! ひどすぎるわ!」


 女は怒りをあらわに肩を震わせてる。でもそれは勘違いだ。あたしは愛人じゃないし、その話とはまったくの無関係なんだから。


「……あの、あたし、か、帰るから……」


 横を通ろうとすると、女はすぐさま立ち塞がった。


「何を言っているの? 帰らせるわけがないじゃない」


 威圧的な眼差しに射すくめられそうになる……早くここから逃げたい……。


「あの人とはいつからそういう仲になったのよ」


「……違う……」


「何? 否定する気? いいわ。それじゃあ中でじっくり聞かせてちょうだい。あの人もいるんでしょう? さあ、行きましょう」


 腕をつかもうとする女を、あたしは手を振って拒んだ。


「こ、来ないでよ……」


「うるさい! あなたには私に説明する義務があるの。言いたいことは部屋で――」


「あたしは違うんだってば!」


 女を肩で押し退けて、あたしは通りへ駆け出した――もう怖すぎる! スリのために来たのに、何でこんなことに巻き込まれなきゃいけないのさ!


「まっ、待ちなさい!」


 後ろから女の大声が聞こえたけど、あたしは正面だけを見て走った。薄暗い通りを、人影がまばらな間をすり抜けて、いくつか角を曲がってからあたしは足を緩めた。まったく、勘違いもいいとこだ。愛人なんて、そんなややこしいことに誰が首を突っ込むものか。そっちで勝手にやってろっての。でもとりあえず金になりそうな物はいただけた。あとはどっかで売るだけだ。確かこっちは大通り方面へ行く道につながって――


「いた! 待ちなさい!」


 はっとして大声に目を向ければ、背後の道の奥からドレスの裾をたくしあげて猛然と走ってくる女の姿があった。よく見れば、その足下は裸足になってる。靴を脱いでまで追ってくるなんて、これが女の執念ってものなのか――感じたことのない怖さに直面して、あたしは慌てて走り出した。


「誰か! その女を捕まえてちょうだい!」


 走りながら女がそう叫んだ。すると道の先にいた男がそれに反応してしまった。あたしを見据えて、道の真ん中に仁王立ちする――邪魔だ! どいてよ!


「……くっ、は、放して!」


 素早く避けようとしたけど、男の長い手に捕まり、あたしはあっさり止められた。


「何したか知らないけど、逃げるのはよくない」


「知らないなら捕まえるな! 何の事情も知らないくせに!」


「けど、あの女性は君に対して怒ってるようだけど?」


「単なる勘違いで、濡れ衣だから!」


「そうかい。じゃあそれは話して解いたほうがいい」


 口調が穏やかな中年男は、あたしの両腕をがっちりつかんで女が来るのを待つ――せっかく逃げられたと思ったのに。もう、どうしたらいいの……。


「はあ、はあ……手間をかけさせないで」


 追い付いた女は乱れた髪もそのままに、肩で息をしながらあたしを睨み据えた。


「戻って、話を聞かせてもらうわよ」


「あたしは……違うから……」


「まだそんなことを言い張る気? じゃああなたはなぜ私の家から出てきたのよ。それを言えるの?」


 言えないから自分でも困ってるんでしょうが。


「……ほら見なさい。私の言う通りだから黙るのよ。……この女はね、影でこそこそ私の恋人と遊んでいたのよ」


 女はあたしを捕まえる男に憎々しげに言った。


「な、なるほどな。そういう話だったか……それなら俺は退散したほうがよさそうだ」


 他人の痴話喧嘩に混ざる気はないのか、呆れた表情を見せて中年男はあたしから手を離した。……この町には面倒な馬鹿しかいないのか。


「大人しく来なさいよ。あの人の前で問い詰めてあげるから」


「ひいっ、や、やめてっ……!」


 女に手首をつかまれて、思わず悲鳴じみた声が漏れた。怖くて、動けない……。


「もう逃がさない。それにしても、あの人は何でこんな地味で垢抜けない女を選んだのかしら」


「違う……」


「あなた、それしか言えないの?」


「嫌だ……怖い……」


「嫌なのも怖いのもこっちよ! 怯えたふりして逃げようとしているんでしょう」


 本当に怖くてたまらないんだ。手を放して、近付かないで……。


「いいから、一緒に来るのよ。話を全部聞いてあげる」


 女はあたしの手を強引に引っ張って行こうとする。


「や、やめ……!」


「暴れないで! 大人しく来るのよ!」


 足を踏ん張ってあたしは抵抗するけど、女はぐいぐいと容赦なく、引きずってでも連れて行こうとする。助けを呼ぼうにも、恐怖で大きな声が出ない。相手が女じゃなければ、こんなの蹴っ飛ばして逃げ出せるのに。


 ふと気付けば、周りに少し人だかりができてた。女同士のいさかいを通りかかっただけの暇そうなやつらがぼーっと眺めてる。あたしは見世物じゃない。見てるなら誰か、この女を止めてよ!


「早く来なさい!」


「嫌だってば……」


「エドナ?」


 その時、あたしを呼ぶ声が聞こえて、弾かれたように顔を振り向けた。


「……ティル!」


 人だかりの間からこっちへ近付いてくるマント姿は、まるで希望の光のように輝いて見えた。これで、助かる!


「遅いから捜しに来てみれば……エドナ、一体どうしたんだ」


「あら、あなたこの女の知り合い?」


 女はじろりとティルを見た。


「そうだが、何か揉め事でもあったのか?」


「ええ、大ありよ。私の恋人を取ろうとしたんだから」


「恋人を……?」


 ティルが怪訝な顔を向けたのに対して、あたしは小さく首を横に振って否定した。ティルなら事実じゃないってわかってくれるよね……?


「それは何かの間違いだろう。彼女は他人の恋人まで盗むような者じゃない」


 何か言い方が引っ掛かるけど……でも疑わずにちゃんと言ってくれた。


「この女が私の家から出てくるのを、目の前でしっかり見ているのよ。何を聞いてもだんまりだし、それは身に覚えがあるからでしょう?」


「しかし、家から出てきただけじゃ決め付けられないと思うが」


「だから戻って三人で話をしましょうと言っているの。悪いけれど、あなたは邪魔しないでちょうだい。……さあ、はっきりさせるわよ」


「痛い! 放して――」


 不意に手を引っ張られて、あたしは前のめりによろけた。すると足下でコツンと何かが鳴った。何だろうと目をやれば、そこには表面をきらりと光らせた金の懐中時計が――背中に冷や汗が流れるのがわかった。手を引っ張られた拍子に落ちたのか。これは、誰にも見られちゃ――


「何よ、これ」


 あたしが拾うより一歩早く、女は懐中時計を拾い上げてしまった。まずい、き、気付かれる……!


「……ちょっと、これって、あの人が昨日忘れて置いていった懐中時計じゃない!」


 女の鬼のような目が、あたしを見てにやりと笑った。


「決定的証拠だわ。あの人が大事にしていた物を、あなたが持っていたということは、今日あなたがあの人と会っていた立派な証拠じゃない!」


 あたしはめまいを起こしそうだった。この女は懐中時計が盗まれた物とは露ほども思っていないらしい。頭の中はきっと、あの酔っ払った男のことだけなんだろう。だから懐中時計が証拠だなんて得意げに言ってるんだ。確かに間違ってはないけど、根本が的外れとは指摘するわけにもいかない。そのせいでさらに面倒くさい対応をしなきゃいけないみたいだ。もうあたしだけじゃ無理だよ……。


 助けを求めてティルを見ると、青い目もこっちを見てた。ちょっと眉をひそめて、不満でもありそうな目付き――その見えない言葉を読み解いた時、あたしはわかった。ティルは気付いたんだろう。あたしがどうして懐中時計なんかを持ってたかを。そして知り合いに会いに行ったんじゃないんだってことも。助けは、期待できそうにない……。


「もうだんまりは通用しないわよ。全部白状してもらうから!」


 声も出ず、あたしが固まってると、側にいたティルが急に腕をつかんできた。


「走れ!」


 そう一言いうと、あたしの腕を引いて走り出した。


「あっ……ま、待ちなさい!」


 不意を突かれた女はあたしから手を放してしまい、慌てて追ってくる。その気配を感じながら、あたしは必死にティルに付いて走った。


「他に盗んだ物があるなら、今捨てていけ!」


 走りながらそう言われて、あたしは男から盗った銀貨、銅貨を道に投げ捨てた。


「何のつもり? こんなはした金で謝罪なんて許さないわよ!」


 追いかけてくる女は捨てた金を、また誤解して解釈したらしい。でもそんなことはもうどうでもいい。今は女が追って来れないところまで逃げるだけだ。こんな怖くて面倒なことに巻き込まれるのは、これきりにしたい。

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