五話

 あたしは死んだんだって思った。でもうっすら目を開けると、まだ光を感じられた。それと潮の匂い――まさかここは地獄じゃないよね。こんな静かで苦しみがない場所が地獄のはずないし。かと言って天国なわけもない。散々盗みを働いたあたしが行けるのは地獄だけだ。あたしは今、どうなってんの……?


 だんだん意識がはっきりし始めると、光に包まれた視界も鮮明になり始めた。仰向けに横たわるあたしの正面には、すすで汚れた梁と天井が見える。眩しい光はすぐ横にある窓から差し込む陽光だ。……ここは家の中らしい。でも待って。あたしは海に落とされて溺れてたのに、どうやってここまで……。


 寝てても何もわからない。ゆっくり身体を起こしたあたしはベッドから足を下ろした。そこでふと気付く。裸足だ。誰かが脱がしたのだろうかと足下の床を見るけど、あたしの靴は見当たらず、代わりに見知らぬ地味な靴が置かれてた。履けるものは他になさそうで、裸足で歩き回るのも嫌だったから、あたしはその靴を借りることにした。履いてみると意外にもぴったりだった。そうしてベッドから立ち上がった時、また気付いた。


「……これ、誰の服さ……」


 着てる服装が変わってた。元はブラウスにロングスカートだったけど、今は膝まである寝巻みたいな服を着せられてた。ぶかぶかじゃないから、多分女物ではあるんだろうけど……あたしの服はどこいったんだ?


 部屋の中を見回してみる。……何もない小さな部屋だ。あたしが寝てたベッドの他には、窓際に机と椅子、その反対側には火の付いた石の暖炉、その側にはロープや銛といった漁具が雑然と置かれてるだけで、あんまり生活感が感じられない部屋だ。見れば床のそこいら中に砂が散らばってる。漁具が置かれてることも考えれば、ここは漁師の家なのかもしれない。それを確かめるために、あたしは入り口の扉を開けた。


「う……さむっ」


 途端、暖かな日の光と一緒に冷たい風が吹き込んできて、思わず身体が縮こまった。この服装じゃさすがに寒すぎる。でも予想は当たったみたいだ。一歩家を出ると、足下はもう砂浜で、そこにはいくつもの小舟が置かれてる。その先には青い海が見渡せて、何艘かの船が漁をしてる様子があった。ここは漁村か。ということは、あたしはここの人に助けられたってこと……?


「おやまあ、起きて大丈夫かい?」


 遠くからの声に振り向くと、砂浜の奥から恰幅のいい女がこっちに歩いてくる姿があった。その手には何か持ってる。……女、か。どうしよう。


「体調はどう? あんたが運ばれてきた時はびっくりしたよ。こんな冬の海で溺れてたっていうんだからさ」


 中年の女は丸い顔でにこにこしながら話しかけてくる。……優しそうな女だろうと、やっぱり緊張する。


「食欲はあるかい? 食べないと体力が戻らないと思ってね。これ、作ってきたんだけど食べな」


 そう言って女は持ってた鍋をあたしに見せた。ちらとのぞくと、赤色のスープに貝や海老とか、多分この海で獲れたであろう魚介がどっさりと入ってる。漂う匂いからも実に美味しそうだ。今まで感じなかった空腹が刺激されそう……。


「……ん? 黙ってどうしたの? やっぱり食欲はないかい?」


 緊張でなかなか話せないあたしを女は心配そうに見てくる。食欲はあるし、むしろがっつり食べたいけど、他にもいろいろ聞かなきゃいけないことがある。まずは、そうだな。この寒すぎる服をどうにかしたい――


「あ……この、服……」


「ああ、その服ね、私の娘のなんだよ。もう着なくなってずっとしまってあったやつなんだけど、あんたにぴったりみたいでよかった。あ、その靴も同じで娘のなんだ。あんた海で靴なくしたみたいだから、裸足じゃ可哀想だと思って。娘はもう履かない靴だから、あんたにあげるよ」


 そうか。あたし、溺れてる間に靴なくしてたのか。


「あたしの、服は……?」


「あんたの服? それなら、ほら、洗濯してあそこに干しておいたよ。もう乾いてるかもしれないね」


 そう言って示した先、あたしがいた家のすぐ横には、洗濯紐に吊るされたあたしのブラウスにロングスカート、それと下着――し、下着? はっ、そう言えばあたし、上も下も下着、着けてない!


 急に恥ずかしくなったあたしは、干された服へ一直線に駆けて、かっさらうように全部取った。


「腹ごしらえの前に着替えるのかい? じゃあその間に私は皿とスプーンでも取ってこようかね」


 女は一旦家の中に入って鍋を置くと、砂浜を戻ってった。それを確認してからあたしは家に入り、手早く自分の服に着替えた。靴だけは変わっちゃったけど、別に特別気に入ってたわけでもないし、まあいっか。


 しばらくして女は皿とスプーンを手にして戻ってきた。食事はしたいけど、女と二人きりの空間は嫌だな……。


「さあ、あったかいうちに食べな。食べられる分だけでいいから」


 スープを皿によそると、笑顔の女はベッドに座るあたしにスプーンと一緒に渡した。魚介が溢れんばかりに盛られてる。最近食べた料理の中だと、これが一番のごちそうと言えるかもしれない。空腹と緊張を感じつつ、あたしは一口目を食べる。


「……味はどうだい?」


 あたしが黙って頷くと、女は満面の笑みを浮かべた。


「よかった。もっと食べたきゃ言うんだよ。全部食べたっていいから。そうしたらまた作ってきてあげるから」


 いくらお腹が空いてても、鍋全部はさすがに食べ切れないだろう。それにしても美味しいスープだ。二杯目くらいはいけるかも。


「ところであんた、何で海なんかで溺れてたんだい? うちの人も不思議がってたよ」


「うちの人……?」


「私の亭主。あんたを助けた張本人だよ」


「あ……」


 この人の夫があたしを海から引き上げてくれて……。


「いつも通り漁してたら、ぷかぷか浮いてるもん見つけて、近付いてみたら人間だったって。最初は死体かと思ったって言ってたよ。でも一人はまだ意識があったから、慌てて自分の船に乗せて帰ってきたって――」


「一人は……? あの、それって……」


「あんたの連れのことだよ。金髪の若い男。あんたの連れなんだろ?」


 思わず息を呑んだ。それって、ティルのこと? でも何でティルまで海に落ちて……まさかあいつら、ティルまで同じように――


「意識がないあんたを必死に抱えて浮かんでたって聞いたよ。浜に戻った時も、あんたを心配して、びしょ濡れのまま長いこと側にいたんだよ。知らないだろ」


 知るわけがない。意識が戻ったのはついさっきなんだから。そんな……ティルが、あたしなんかのために……。じゃあ、ティルはどっかにいるの? 船の上じゃなくて、この漁村のどっかに――


「お連れさんは一足早く元気になったから、そのうちあんたの顔を見に来るんじゃないかい?」


「ティルは! ……元気、なの?」


「ああ、もちろん。雑用なんか手伝ってくれたりして、こっちも助かってるよ。でもあんたが元気になったら、それも終わりだね。ちょっと寂しいけど」


 ティルはここにいて、元気にしてる――それを聞いただけであたしの安堵感は尋常じゃなかった。離れ離れにならなかったこと、そして海に落とされても無事だったこと。よかった。お互い助かって、本当によかった。でもあたしがこうしていられるのはティルのおかげなんだ。ティルは知らない間に、またあたしのことを助けてくれた。自分の命も危ないっていう時に、意識のないあたしを海面まで引き上げて、諦めず、寒さに耐え続けてくれたんだ。こんなの、ありがとうだけじゃ足りなさすぎるよ。この感謝の気持ちは何倍にもして絶対に返さなきゃ。


 その時、コンコンと扉を叩く音がしてあたしは振り向く。


「おや、噂をすればだね……はいよ!」


 おばさんは足早に行って扉を開けた。そこにいたのは――


「こんにちは。彼女の様子はどうだろうか」


 ティル――その見た目も様子も、何も変わってない。いつものマント姿で、どこか疲れた雰囲気をまとってて……あたしが溺れる前に見たティルのままだ。本当に、無事でよかった。


「ついさっき目を覚ましたみたいでね。食欲もあって今食べてるよ。ほら、入って」


 促されたティルは一歩入ると、すぐにあたしを見て言った。


「美味そうなものを食べているな」


 微笑む顔に、あたしは込み上げる感動を抑えて笑みを返した。感動なんてちょっと大げさかな。でもあたしは本当に死ぬと思ったんだ。それがまた会えるなんて、あたしの中じゃ奇跡みたいに感じてる。


「クレマジーさんも一緒に食べるかい?」


「いや、俺は朝食を食べたから」


「そうかい。でも食べたくなったら彼女に分けてもらいなよ。鍋にまだあるから。それじゃあ私は家の仕事があるから一度戻るよ。何かあったら遠慮なく言いなね」


「助かる。ありがとう」


 ティルとあたしに笑顔を残して、あばさんは家をそっと出てった。……ふう、側に女がいないだけで、大分気分が楽になる。


「体調はどうだ」


 ティルは窓際の椅子に座ると聞いてきた。


「もう平気。この家の人と、ティル、あんたのおかげでね」


「海でのこと、憶えているのか?」


 あたしは首を横に振る。


「さっきおばさんに聞いたんだ。……ティルも、あいつらに船から落とされたんでしょ? それなのに――」


「俺は落とされていないよ」


 これに思わず見返した。


「え? じゃあ何で……」


「何でって、エドナを助けるために決まっているだろう。溺れているお前を見捨てるわけにはいかないしな」


 自分の意思で、飛び込んだっていうの?


「死ぬかもしれないって、思わなかったの?」


「助けることに無我夢中だった。でも正直、海に浮かんでいた時は、ここで終わる覚悟もしたけどな」


 ティルは苦笑する。笑うことじゃないでしょ。あたしと同じように、ティルもぎりぎり危ないところだったんだ。考えれば、左腕しかないのに、それであたしを助けに飛び込むなんて、相当危険な行為だ。


「その片腕で、よくあたしを助けられたね」


「泳ぎの経験は多少あったから、どうにかなると思った。でもやっぱり甘かった。エドナを抱えると足だけの力で泳ぐしかなく、それだと波にあらがえず前に進めなかった。だから結局、顔が沈まないように浮かんでいることしかできなかった。ここの漁師が偶然見つけてくれたのは本当に幸運だったよ」


「あいつらに落とされたならともかく、自分から飛び込むなんて、まったく……馬鹿がすることだよ」


「俺が馬鹿だったおかげで、エドナは溺れずに助かったんだ。もっと喜んでくれるものと思ったんだがな……」


「も、もちろん、すごく嬉しいし、すごく感謝してるよ。ティルは、あたしの大事な恩人だ。間違いなく……。でも、他人よりまずは自分の身を考えるべきでしょ。死んだら元も子もないんだ」


「死んだら、か……確かにな」


 目を伏せたティルは寂しげな微笑を浮かべた――やばっ、恋人のことを思い出させちゃったかな。気まずくなる前に話題を変えないと。


「……と、ところでさ、あたしを落としたあいつら、今頃南に着いてるんだろうね。まさか後をつけられてたなんてさ。本当むかつくよ」


「ああ、あの男達なら、おそらく港に着いた直後に役人に引き渡されたと思うぞ」


「え? 何でティルがそんなことわかるのさ」


「俺がエドナが落とされたことを知ったのは、男達の行動を見てた乗船客の叫びを聞いたからだ。女が海に投げ落とされたと聞いて、慌てて駆け寄ったのは俺だけじゃない。多くの船員も来て、男達に詰め寄っていた。その後、俺は飛び込んで見ていないが、上手く言い逃れていなければ、男達は船員に拘束されて役人に突き出されているはずだ」


「じゃあ、もう付きまとわれずに済むかな」


「多分な」


 うざったい心配事が一つ消えて、あたしは胸を撫で下ろした。あいつらが役人にきつく絞られてることを強く願おう。


「……だけどさ、助かったはいいけど、これからどうするの? っていうか、ここってどこ? アルビスカの近くなのかな」


「ここはナスティフという漁村で、アルビスカからはそこそこ離れている。位置で言えば、船で渡るはずだった湾の西辺りの陸地だ」


「湾の西ってことは、船で半分渡ったくらいの距離の場所ってこと?」


「ざっくり言えばそうだな」


 つまり南までは、もうあと半分ってことか。


「それなら、ここの漁師に船乗せてもらえば、すぐに着けそうだね」


「いや、無理だ。ここで使われている小舟じゃ、沖を渡るのは危険だ。大波に遭えば転覆しかねない」


「それじゃあどうするの? あたし泳いでなんて渡れないよ」


「海が無理なら陸を歩くしかない。この辺りは街道は通っていないが、道がないわけじゃない。湾沿いに南へ進めばいずれ町が見えてくるだろう」


「まあ、そうなるよね。地道に歩きか。船で一直線に行ければ……」


 ふとティルを見ると、何か言いたげにこっちを見てた。


「……何?」


「一つ提案があるんだが……」


「提案? 歩き以外でってこと?」


「そうじゃない。……エドナ、ここに残って働いてみるのはどうだ」


 唐突な言葉に、あたしは思わず眉をひそめた。


「……はい?」


「お前の意識がない間、俺はここの住民の世話になりながら、様々な手伝いもさせてもらっていたんだ。田舎の漁村ということもあって、人手が足りない仕事も多い。ここの住民ならエドナをきっと喜んで迎え入れてくれるはずだ」


 ティルは、あたしに何を言いたいの……?


「実はいくつか、エドナができそうな仕事を見つけているんだ。お前が気に入った仕事ならすぐに頼んで――」


「待ってよ。あたし、そんなこと頼んだ覚えないけど」


「わかっている。でもエドナには真っ当な仕事が必要なはずだ」


「そうだけど、それは今じゃない」


「選べる環境にいるうちに見つけたほうがいい。じゃないと機会を――」


 あたしはスープの皿をベッドに置いて聞いた。


「今じゃないんだってば! あたしはティルの手伝いがしたいの! その後だっていいでしょ!」


「しかし……」


「ティルだって、あたしが手伝うことを嬉しいって言ってたじゃないか! まだ何にもしてないのに、どうしてこんなこと言うのさ……」


 抑えたいのに、不安が胸の中で膨らんでく。


「言いたいならはっきり言ってよ。あたしのこと、やっぱり邪魔なの? あんな野蛮なやつらにつけられたりして、厄介なやつだって思って、だから――」


「違うよ。俺はそんなふうには思っていない。手伝ってくれることもありがたいと思っているけど、俺のことより、自分を優先してほしいだけだ」


「ティルを手伝うことが、自分を優先してないって思うの?」


「手伝いを終えたところで、大した礼も、見返りも用意していないんだ」


「あたしは見返りを期待して手伝ってんじゃない」


「それなら、なぜエドナはそこまで俺の手伝いをしようとしてくれるんだ」


「なぜって……」


 ティルの真っすぐな目があたしを見てる――あんたに惚れたって正直に言えれば楽なんだろうけど……そんな怖いこと、言えるわけないよ。


「……これは、乗りかかった船だからさ、やっぱりやめるなんて、無責任なことはしたくないんだ。前にも言ったでしょ? 最後まで付き合うって。スリやってたあたしにだって、約束した意地ってもんがあるんだからね」


「そうか……俺はお前を見誤っていたみたいだな。そこまで真面目な心根を持っていたとは思っていなかった」


「盗人の端くれにだって、まともな心を持つやつはいるんだよ……じゃあ、この話はもうおしまい。いい? 今後あたしにお節介なこと言わないでよ。何を言われようと、手伝いが終わるまで一緒にいるんだから」


「……わかった。気を付けるよ」


 やれやれと言いたそうなティルをいちべつして、あたしはスープの残りを手に取って食べる。……自分でも何となくわかってる。強引だって。でもティルのために何かしたい気持ちは止められない。ずっと一緒にいたいけど、それは難しそうだってわかってる。だからそれまでは別れを言わないでほしい。こっちの心の準備が整うまでは。

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