二話
額に滲んだ汗を袖で拭って、あたしは近くにあった朽木に腰を下ろした。季節は冬だけど、真っ青に晴れた空の下、険しい坂道を登ってくれば肌寒くても汗は出てくるものだ。
「一気に登りすぎたか……少し休憩しよう」
同じ道を登ってきたっていうのに、全然疲れを見せてないティルは、座り込んだあたしを見て足を止めた。
「はあ……運動不足が祟ったか……」
運動なんて標的を探すために歩くくらいしかしてないから、まあ、それだけじゃ体力は付きにくいだろうな。
「おい、こっちに湧き水がある」
「え、水?」
あたしはすぐに立ち上がってティルのほうへ向かった。するとそこには岩の隙間からちょろちょろと流れる水があって、地面に小さな池を作ってた。先にその水をすくって飲んだティルは、軽く頷くとあたしに言った。
「大丈夫そうだ。美味い水だ」
それを聞いてあたしも水を両手ですくって口に運ぶ。冷たい水が熱くなった体内に流れ込んで喉の渇きを潤す。ふう、生き返る心地だ。渇きが治まるまで水を飲んで、あたしはようやく一息ついた。
「確かに近道のようだが、こんなに坂道が多いんじゃ通る者は少なそうだな」
地面に座り、木に寄りかかったティルは、歩いてきた道を眺めながら言った。
「だから今の街道が通ったってわけ。こんなきつい道じゃ歩ける人が限られるからね。でも南へ早く行きたいならこの道が一番早いのは間違いないよ」
「そうなんだろうが、休み休み歩いては街道を通るのと変わらない気もするな」
「そんなことないよ。休んだとしてもこっちの道のが断然早いはず」
「そうか。それならそうなんだろう」
ふっと笑みをこぼしてティルは目を伏せた。歩き疲れてはいなさそうなのに、この男にはやっぱり疲労感が漂ってる気がする。覇気がないっていうわけじゃないけど、何か重いものでも抱えてるような、何ていうか、鈍さなのか、弱々しさなのか……違うな。上手く表現できる言葉が見つからないけど、ふとした時の顔に、あたしは違和感を覚えてしまう。それとも、生まれ付きそういう顔なだけなのか?
まあ、そんなことはどうでもいい。ここまで来たのは標的を観察するためじゃない。その腰にぶら下がる重そうな財布を確実に手に入れるためだ。二度もへまはしない。時間はたっぷりあるんだ。慎重に、かつ大胆に、その懐からかっさらってやる。
「いい天気だけど、さすがに暑いな……」
手で顔をあおぎながら、あたしは何気なくティルの横に座った。
「あんたも暑くないの? そのマント取れば?」
「そっちほど汗はかいていないよ」
うつむいた姿勢でティルは微動だにしない。財布を狙うのに邪魔なのが全身を覆うこのマントなんだけど、取る気はないらしい。あたしを警戒してのことかもしれない。だとすると困ったな。近くに座って、いくら隙を作ったとしても、この状況じゃマントをめくって盗るしかない。もちろんマントをめくるなんてばればれの動きは一発でばれるだろう。もう少し先へ行ってからにしようか? でも人目がなく、二人きりで時間に余裕のある状況はそう巡ってこない。やっぱり今を逃したくないな……。
「……そろそろ行くか?」
ティルが横目を向けて聞いてきた。
「もうちょっとだけ、休ませて……」
その視線を避けて、あたしはもう一度湧き水の池に向かい、水をすくった。それを飲みながら策を考える。黙って盗るのは難しい。だから会話で隙を作るわけだけど、その前にマントという邪魔な壁が立ちはだかる。それを見つからないようにめくるのも難しいことだ。自然に手を伸ばせる、そしてめくることが不自然じゃないと思わせなきゃいけない――となると思い付く方法は一つ。気は進まないし、苦手だけど、目の前の金のためだ。やれるだけやってみるか。
「……ねえ、あんた一人で何しに行くの?」
ティルに近付いて聞いてみた。
「大事な用があるんだ」
こっちを見ずに答えが返ってきた。
「ずっと一人で歩いてるんでしょ? 寂しくない?」
「そんなこと、考えもしなかったな」
「生まれはどこ?」
「……ロイディアだ」
「え、都生まれなの? じゃあ何でこんな北の田舎にいるのさ」
「いろいろ事情があってね……」
「事情って?」
ティルはあたしをちらと見上げた。
「お前には関係のないことだ」
突き放すような目を向けられて、あたしは少し間を置いた。嫌がることを聞いて機嫌を損ねたくない。前置きの会話はこの辺にして――
「もしかして、港へ行くのも、都に帰るため?」
「そんな感じだ」
「愛する恋人が待ってたりして?」
「………」
これにティルは無反応だった。
「恋人、いないの?」
「……昔はいた」
「あたしも昔はいたんだけどさ、付き合ってみると、ダメ男ばっかりで……あんたはどんな女が好みなの?」
「……芯の強い女性、だろうか」
「そうなの? じゃああたしも候補になりそうだね。自分で言うのも何だけど、あたし、ちょっとやそっとでくじけたりしないから。……どう?」
これにティルは、ふっと軽く笑った。
「どうと言われてもな……数時間前に会ったばかりで、何も知らない相手と付き会えるわけがない」
「それはそうかもね。でもさ、知らないなら――」
あたしはティルの正面に立って、その両肩に手を置いた。
「これから知ってけばいいんじゃない?」
ティルの青い目がこっちを見上げた瞬間に、あたしはつかんだ両肩を地面に押し倒した――財布を盗るには色仕掛けするしかない。これなら邪魔なマントもすぐにめくれるはずだ。正直、このやり方は好きじゃないけど、女に生まれた以上、女の武器も使いこなさないと。
あたしはティルの肩を押さえ付けて、その腹にまたがる。怒り出すかと心配もあったけど、意外にもティルは抵抗せずに仰向けのまま大人しくしてた。これは、あたしを受け入れるつもりか? 好きでもない女でも、こう迫られれば、男はやっぱり抗えないものなんだろうか。まあ、こっちは財布が手に入れば何だっていいんだけど。
「あたしを、あんたの恋人にしてよ……」
見上げるティルをあたしはじっと見つめた。よく見れば、結構男前な顔かもしれない。きりっとした眉、つんっと高い鼻、ほどよい厚さの唇……これくらい整ってれば、キス程度はしてやってもいいか。それで意識をそらした隙に、そっと財布を盗れば――
「好きになっても、いいでしょ?」
あたしは少しずつ顔を近付ける。その一方で片手を財布に伸ばす。ふふっ、罠にかかった男なんてちょろいもんよ。
その時、ティルの左手があたしの腰に強く添えられた。ちょ、ちょっと、そんなにやる気出さないでよ。
「焦らないで。すぐに――」
言い終える前に、あたしの腰に力がかかったと思うと、そのまま横へ押し出された。地面に転がされて、あたしは一瞬何が起こったかわからず、ティルに目をやった。
「な、何すんのよ!」
驚いて怒鳴ったあたしを、ティルは立ち上がりながら見てくる。
「それはこっちのセリフだけどな……俺がお前の誘惑にかかったと思ったか?」
言われてあたしは言葉が出なかった。……この男、わざと抵抗せずに――
「たとえお前が俺の好みだったとしても、スリをたくらむ女はごめんだ」
マントを払って土を落とすと、ティルは呆れた眼差しでこっちを見下ろす――二度目も失敗するなんて。色仕掛けなんて方法に頼った自分が馬鹿みたいだ。スリの腕はあると思ってたのに、今回は相手が悪すぎたのか? それともあたしの目が曇ってたのか……スリでこんなに悔しい気持ちになったのは初めてだ。
地べたに座り込むあたしに、ティルは手を差し伸べてきた。でもあたしはその手を払い退けて一人で立ち上がる。上から目線の優しさなんかいらない!
「なぜこんなことをするんだ。真っ当に生きようとは思わないのか」
「……余計なお世話だ」
「犯罪なんか長続きしない。いずれ捕まれば人生を台無しに――」
「うるさい! あたしにはこの才能しかないんだよ! 鍛えたこの腕でずっと生きてきたんだ!」
「それでも、犯罪から足を洗うことはできる。お前はまだ若いし、働く場所ならいくらでもあるはず――」
「そうできるならやってるよ! でもできないからここにいるんでしょ!」
「……どうしてできないんだ?」
問いかけるティルの目を、あたしは強く見つめた。
「あたしには怖い生き物がいるんだ。女っていう生き物がね……」
「女が、怖い……?」
不思議そうにティルは呟く。
「ふっ、笑えるでしょ? 自分も女のくせに、同じ女が怖いなんてさ」
「冗談じゃなく、本当なのか?」
「あんたに説教されながら冗談なんて言う気分じゃないよ。あたしは、女恐怖症なんだ」
嘘みたいだけど本当のことだ。十代の頃、あたしは気付いたら女が怖い存在になってた。道ですれ違うのも、隣に座られるのも、あたしにとっては恐怖でしかなく、息が詰まってしまう。
「だが、そうだとしても、女性を避けて働くことも――」
「それは都生まれで、都でしか暮らしたことがない人間の考え方だね。あたしがいたのは、こことはまた別の田舎でさ、本当、誰も彼も閉鎖的で保守的、女は女、男は男って分けられてる感じで、昔からそうだったから今もそうしてるっていう、考えることをやめた人間しかいないとこだったんだ。都みたいに新しい物、価値観を取り入れる隙なんてまったく持ち合わせてなかった。……都って、そういう感じでしょ?」
「保守的な者がいないわけじゃないが、まあ、そうだな」
「仕事だって、性別に関係なく自由に選べるんでしょ?」
「雇い主次第だが、基本は自由だ」
「やっぱり進んでるとこは自由があっていいよね。でも離れた田舎にそんな自由はないの。男は外で力仕事、女は屋内で家事か内職、そんな見えない決まりに縛られてる。個人の都合とか向き不向きなんて関係ない。ここの人間ならそれに従えっていう、ある種呪いみたいなものにかかってるんだ。大昔から」
「呪いか……面白い表現だ」
「女の仕事場には女しかいないのが当たり前。それでも最初は我慢してた。でもやっぱり無理だった。日に日に動悸が強くなって、呼吸が上手くできなくなって、限界の直前で村を飛び出した。その瞬間の解放感は本当気持ちよかったけど、生活のために次の仕事を見つけても、結局同じことの繰り返しだった。女が怖いままじゃ、あたしはまともに働けないんだ。田舎だとそれが避けられない。だから……」
「盗みに走った、と?」
ティルの険しい視線が突き刺さる。
「そうするしかなかったんだ。あたしだって生きたいんだ。生きるためには金が要る。普通に働けないんなら誰かに貰うしかないでしょ?」
「都へ行こうとは思わなかったのか」
「はんっ、そんな金、あたしが持ってると思うの? 毎日食べるだけで必死だってのに。まともな仕事じゃ稼げなかったけど、スリなら一定程度は稼げた。上手く行けば毎日、金を手にできるんだ。カモはそこら中にいるし、女を避けることもできる。こんなに都合のいい仕事はないでしょ?」
「スリは仕事じゃない。犯罪だ」
「あたしにとっては立派な仕事だよ。この仕事で生き永らえてきたんだから。軽蔑したければすればいい。それであたしの生活が変わるわけじゃないしね」
険しい視線が、徐々に憐れみを滲ませてく。この男には、あたしが溺れてる羽虫くらいにしか見えてないんだろうな。
「……駄目だ。お前は生活を変えないといけない」
「これがあたしの一番の仕事なんだ。変える気なんてない」
「その苦労は理解するが、スリはいただけない。後悔先に立たずと言うだろう」
「後悔? あたしがいつ後悔したって言った? 今はこれで十分満足だし」
「犯罪ほど後悔することがあるか? お前はまだ立ち直れるはずだ」
するとティルは、あたしが盗るはずだった財布に手を伸ばし、その口を開けた。
「……何してんのさ」
ごそごそと探ってた左手は、そこから銀貨をわしづかみで取り出した。
「受け取れ」
差し出された金を見つめながら、あたしは聞いた。
「何のつもり?」
「さすがに全部はやれないが、これくらいあればスリなどせずに、しばらく暮らしていけるはずだ。その間に新たな生活を見つけろ」
あたしは驚いてティルを凝視してしまった。まさか、自分を狙ったスリに同情してくれるやつがいるなんて……。
「……施しなんか、いらないよ」
「これを有効に使え。手遅れになる前に」
つかんだ金を手に押し付けられて、あたしはそれを渋々受け取った。
「道案内はここまででいい。もうスリなんかするな。これからは自分を大事にするんだ」
自分を、大事に――こんなこと言われたのは初めてだ。他人に心配されることも。だってそんなことして一体何の得になる? だからあたしを心配するやつなんかいなかったし、あたしも誰かを心配なんてしなかった。でも何でこんな気持ちになるんだろう。握った手の中には、ずっしりと重くて冷たい、求めてたはずの感触があるのに、何にも興奮しないし、嬉しくもない。金こそあたしの一番好きな物じゃなかったの? 向こうから金をくれて、楽に手に入ったっていうのに、なぜか心がもやもやする。これも失敗した悔しさ? でも何か違う気がする。財布は盗りたかったけど、この男から直に金は貰いたくない。それはあたしの気持ちが許さない。スリとしての意地、なんだろうか。
「じゃあな」
踵を返して離れようとするティルに、あたしは咄嗟に声をかけた。
「待ってよ」
振り向いたティルに歩み寄って、その左手をつかんで、あたしはそこに貰った銀貨すべてを渡した。
「これはお前の物だ。遠慮は――」
「悪いけどあたし、借りは作りたくないの。施しの金なんて必要ないから」
「スリをさせないために俺は渡した。これをきっかけにしてほしいんだ」
「どうするかなんて、あたしの勝手でしょ。いらないものはいらない」
「まったく……よくわからない女だ」
ティルは困った顔で溜息を吐いた。正直、あたしも自分がよくわかんない。これまでのあたしなら、金を貰った時点で満足して去っただろう。でもそんな気持ちになれないんだ。それともう一つ――
「あと道案内だけどさ、引き受けたからには最後まで責任持って案内するから」
「この近道は一本道だろう? もう案内されなくても一人で――」
「近道はここの他にもあるんだよ。先の町まで街道を通ってたら、間違いなく日が暮れて野宿するはめになるよ」
「そうなのか……?」
「そうなの。だからもうしばらく一緒に行くから、よろしくね」
あたしは笑って見せた。この道案内はもともと予定してたことだ。港町アルビスカまで付いて行くつもりで、その間に財布を盗んで、そのまま別の町へ移動するつもりでいた。でも二度も失敗しちゃ、この男から盗るのはもう無理だろう。距離と時間を置かない限り、あたしへの警戒心は消せない。だから道案内もあたしにとっては無意味なことだ。そうわかってるんだけど、あたしはティルにちょっとだけ興味が湧いてた。だってスリのあたしを心配して、金をあげる男だよ? そんなやつ見たことも聞いたこともない。こんな面白い男と別れるのは何だか惜しい気がした。くたびれた雰囲気と相まって、ティルには不思議な魅力がある。普段他人に興味なんて持ったことないけど、ティルはなぜかあたしの気を引き付ける。よくわからないのはあたしだけじゃなく、この男もだ。
「……まあ、案内してくれるならありがたい。だが俺の財布が狙いなら断らせてもらう」
警戒心を見せたティルに、あたしは両手を上げて笑った。
「そんなことしないって。狙ったところであんたの財布はもう盗れそうにないからね。案内する間だけ、スリはお休みしてあげるよ」
「案内の最中だけじゃなく、これからずっと休んだほうがいい」
「それはあたしの勝手って言ったでしょ。あんたの指図は受けない。……じゃあ、行くよ」
あたし達は再び坂道を登ってく。下り坂になれば、次の町ダワースが遠くに見下ろせるだろう。
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