ある男との旅
柏木椎菜
一話
通い慣れた酒場に入ると、客達のいつもの喧騒と熱気と酒臭さがあたしを包み込む。
「今日も繁盛してるね……」
時間は昼時。家に帰って昼飯を食べるのが普通だけど、そんな場所も家族もないやつらはこうして昼間から酒を飲んでる。ここは田舎で、娯楽なんかほとんどないから、暇なやつらは酒を飲むくらいしかすることがないんだろう。あたしには助かることだけど。
「一杯ちょうだい」
「ウィスキーでいいか」
頷くと、カウンターの向こうの主人は手早く酒を注いで、そのコップをあたしの前に出した。どうもと言ってそれを手に取り、あたしはポケットから代金を取り出してカウンターに置いた。
「さてと……」
コップに口を付けながら酒場内をゆっくり見回す。談笑してる客、作業着姿で来てる客、眠そうにしてる客……標的はより取り見取りだ。でも成功率を上げるなら慎重に選んだほうがいい。それと盗れそうな金の見極めも。
あたしの職業、っていう言い方が合ってるかはわかんないけど、人様から金品をいただくのが毎日の仕事だ。世間で言うところの泥棒で、スリってやつだ。犯罪だってことはもちろんわかってるけど、人間、生活してくには金が必要なんだ。スリはあたしにとって生活の一部で、もはや仕事だ。生きるための行動をやめる気なんてない。たとえ見知らぬ相手に恨みを買おうとね。
酒場で標的を探すのは、気を緩めたやつが多いからだ。上機嫌なやつ、千鳥足なやつ、眠気に負けたやつ。それら全員は絶好のカモになる。でも経験的に言えば、そういうやつらはそんなに金を持ってない。なぜなら地元の住民だからだ。近くに帰る場所があるからはめを外したり、酔い潰れたりできる。逆に外から来た旅行者や商人は、見知らぬ土地で無防備に酔っ払う危険は冒さない。まあ、たまには例外もあるけど、大半はそうだ。その理由の一つは金だ。やつらは旅行資金を持って移動してるわけで、あたしみたいなスリに持ち金全部盗られれば、旅行も商談もできなくなる。だからそういうやつは酒場の雰囲気を感じながら控え目に飲んでることが多い。つまりあたしの理想を言えば、ひどく酔っ払った外の人間なわけなんだけど、そんなやつを見つけられた日は心のにやにやが止まらない。でもそんなのまれなことだ。そもそもこんな田舎に地元民以外の人間が立ち寄ることも少ない。今日も見た感じ、客はそういう人間ばかりみたいだ。ここには結構長居したし、顔を覚えられる前にまた別の町へ移動するかな。とりあえず、今は適当なカモを見つけて小遣いをいただいて帰るとしよう。
酒を飲み干してぐるりとカウンターに向き直った時、あたしは視界の隅に見落としてた人影を見つけて視線を留めた。酒場の薄暗い最奥、カウンターに寄りかかってうつむき加減に酒を飲んでる男がいた。まるで気配を消してるようで、今まで全然気付かなかった。あたしがここに来た時からずっといたんだろうか。手元のコップはもう空だったけど、それを飲むふりをしながらあたしは横目で男を吟味した。
ちょっと長めの金の髪で表情は見えにくいけど、その横顔は静かに酒を飲み続けてる。歳は二十代半ばくらいか。体格はそれなりにいい。だけどどことなく疲労感というか、くたびれた雰囲気がある。そう感じるのはもしかすると、肩に羽織ったマントのせいかもしれない。薄汚れてて、裾は細かく破れてしまってる。長く使ってるものなんだろう。服装は見えないけど、のぞくブーツも随分汚れてる。この顔は初めて見る顔だし、ブーツの汚れからして、大分歩いてきた可能性もある。この男、外からの旅行者か……?
しばらく見てると、酒を飲み終えた男は左手で懐を探って金を払った。左利きみたいだ。そして踵を返してこっちに体を向けた。一瞬マントがふわりと広がった時、あたしは小さな間違いに気付いた。左利きにしかなり得なかったんだ――その男には、右腕がなかった。マントと同じように薄汚れたシャツの右袖は、その空洞を男の動きに合わせてゆらゆらと揺らしてた。そのままあたしの側を通り過ぎると、男は酒場を出て行った。
「片腕の旅行者か……」
そう呟いたものの、どうも旅行者という感じを受けない。汚れた格好もそうだけど、荷物らしい荷物を持ってない。かと言って地元民として見かけたこともない。何かしらの目的でここに立ち寄ったのは間違いなさそうだけど。あたしにとって一番重要なのは金を持ってるかだ。商人では絶対にないし、旅行者でもないなら、単に個人的な用事を済ませに来ただけなのか……? でもあのくたびれた雰囲気、何か引っ掛かるんだよね……。
迷ったけど、コップをカウンターに置いて、あたしは男の後をつけることにした。小走りに酒場を出て、左右に伸びる道を目で捜す。と、右の道の先にマントの後ろ姿があった。こっちは町の外へ向かう道だ。宿には泊まらずに、このまま町を出るつもりなんだろうか。でもそれならそれでもいい。町の外へ行けば人目がなくなって盗りやすくなる。あいつがいいカモだっていうあたしの勘が的中してればいいけど。
距離を開けてつけてると、やっぱり男は町の外へ出て街道を進み始めた。周りには林が広がるだけで民家も人もいない。この辺りで行くか――あたしは少しずつ足を速めて、男の背後に勢いよく向かって行った。そして――
「きゃっ!」
男の肩に思い切りぶつかって女らしいか弱い声を上げて、あたしは大きくよろめいて見せた。
「おっと……大丈夫か?」
あたしの腕をつかんでよろめきを止めた男は、驚いた青い目でこっちを見る。
「ご、ごめんなさい。急いでたもので、ちゃんと前を見ていなくて……そちらこそ大丈夫でしたか?」
心配する口調で聞くと、男は穏やかな笑みを浮かべた。
「平気だ。気にしないで」
気にしないわけにはいかないんだよね。
「でも、かなり強くぶつかってしまって……痛めたりしてませんか? あっ、ここ、汚れがついちゃってます!」
あたしはマントの汚れを示して男の目を引く。
「痛いところはない。この汚れはもともと付いているもので――」
「そうなんですか? てっきりあたしが汚したものかと。他におかしなところはありませんか?」
そう言いながらあたしは男の体を確認するふりをして、その腰にぶら下がる財布に狙いを定めた。なかなかの量が入っていそう……。
「本当に平気だ。そちらこそ急いでいるんだろう。俺には構わずに」
「そうだった。急がないと。でもさっき、遠くに雨雲が見えたと聞いて……雨、降るんでしょうか」
あたしが林に囲まれた空を見上げると、男も同じように頭上へ目をやった。
「雨雲が? 今は青空が見えるが、夜には降り出すんだろうか」
男の意識が空へ向いた。この隙にそっと伸ばした手でマントの下の財布をつかむ。あとはゆっくりと――
成功かと思ったその瞬間、伸ばした手は上からつかまれて、ぐいと持ち上げられた。突然のことにあたしの息は止まり、驚きと焦りで頭の中は真っ白になった。……な、何でばれたの? 完璧だと思ったのに!
「お前はスリだったのか」
声に顔を上げると、そこにはこっちを見下げる男の視線があった。……やばい。このままじゃ役人に突き出される。何か言ってごまかさないと――
「し、失礼なこと言わないで! あたしは、あんたの体が本当に大丈夫か心配で……」
「心配すると、お前は財布をつかむのか」
「つかんでなんかっ! な、何なのさ! こっちが悪いと思って謝ったのに、人をスリ扱い? あたしのこと、馬鹿にしないでよ!」
こういう時は逆にまくし立てて、相手を怯ませて逃げる……これが緊急時の方法だ。でも結局、追われながら逃げることが多いんだけど。こいつはどうかな――
「まったく、これだから男って嫌なんだよね。表面では優しくしておきながら、何かあると女のせいにするんだ。女は男より劣ってるとでも思ってるんでしょ! こっちの親切なんか感じもしない。その点で劣ってるのはあんたのほうだからね。人をおとしめるような勘違いしないでよ! ……な、何よ。言いたいことあるなら言えば?」
ふと男の顔を見ると、その表情は妙に冷静で、怒りや迷惑といった感情は特になく、あたしの言葉をじっと聞いてるだけのようで、それはかえってあたしを動揺させた。これまでの相手なら対抗して怒鳴ってきたり、酔ってるやつなら肩を小突いてきたりするのに、この男は不快な顔もせず大人しくしてるだけだ。もしかして、あたしをスリだと決め付けたことを反省してるのか? 自分の勘違いだったと思い直して――
すると男は表情を緩めると、こっちを見ながら言った。
「別に女がどうとか、そういうつもりはない。こちらは被害はなかったし、お前がスリじゃないっていうなら、そういうことにしておくよ」
そう言って男は歩き始めた。それをあたしは唖然と見る。……何なの? それってつまり、あたしがスリだって確信しておきながら、見逃してやるってこと? お前みたいな哀れな女には慈悲をかけてやるって、そういう上から目線で言われたの? 助かるには助かるけど、何だろう。なぜか腹が立つ。こんなこと言われるなら、もっと罵倒されたり、役人に突き出してやるって腕つかまれるほうが何倍もすっきりするのに。でも何でこんなに腹が立つんだろう。助かったっていうのに――ああ、そうか。あたしの自尊心だ。スリを失敗した上に、それを止めた相手に見逃されるなんて、スリを仕事にしてるあたしは許せないんだ。だからって捕まえてほしいわけじゃない。向こうがあたしを甘く見てるようで悔しいんだ。こっちはそこいらの下手なスリとは違うんだってわからせたい。二度目はこうはいかないって思い知らせたい。だから、去っていく男の姿から目がそらせないんだ。それに、やつの財布に触れた時、中身はかなり入ってた。ここで諦めるのは惜しいだろう。一度盗り損ねたカモだし、難易度は上がるけど、それでもこの手で金を……あたしの自尊心を取り返してやる!
「ねえ、あんた!」
あたしは大声で呼び止めた。すると男は足を止めて振り向いた。
「どこに向かってるの?」
「……港だ」
ここを南下した先の港町アルビスカか。
「それなら、あたしが道案内してあげるよ」
そう言いながらあたしは男に歩み寄った。
「ありがたいが、遠慮しておく。道は大体わかっている」
男はやんわりと断ってきた。まあ、スリとわかってる相手を警戒するのは当然か。
「本当に? どうやって行くつもりさ」
「この街道に沿って行けば――」
「やっぱりそうか。この辺りの道を知らない人は皆街道を行っちゃうんだよね。でも他に近道があって、地元の人間は大体そっちを使ってる」
「……本当か?」
「信用出来ない気持ちはわかるけど、でも本当だから。嘘じゃないよ」
これは本当の話で、街道よりも早く南へ行ける道は存在する。あたしも最近知った近道だ。
あたしがにこりと笑いかけると、男は不思議そうに見返してきた。
「なぜそんなことを申し出るんだ? 俺はお前をスリ扱いしたのに」
「あたしはスリじゃないってわかってもらいたくて。あんたにひどい勘違いされたけど、こっちもちょっと言い返し過ぎたし、そのお詫びも兼ねてさ」
「でも、お前はどこかへ急いでいる最中じゃ……」
「そ、その行き先は、この先にあって……同じ方向だし、ついでになるから」
「ついでか……」
男は少し考えると、再びこっちを見た。
「礼などはやれないが――」
「そんなのいらないって。くれるって言っても丁重にお断りするよ」
男はまた考えると、小さな息を吐いてからあたしに言った。
「……じゃあ、頼めるか」
やった! まんまと間合いに入り込んだ!
「任せて。しっかり案内させてもらうから。まずはしばらくこの街道を進んで、その先に近道があるから、そこまで行こう」
男を促してあたしは一緒に歩き出した。
「ところで、あんた名前は?」
隣のあたしをいちべつした男は小さな声で言った。
「ティルフォード・クレマジーだ」
「ふーん、ティルフォードさんね」
「ティルで構わない」
「あ、そう。あたしはエドナ。よろしくね」
努めて明るくにこやかに言うと、ティルは薄い笑みを返してきた。……ティルフォード・クレマジー、あんたの金はもうすぐあたしのものになるんだ。覚悟しておけ。
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