第1話 夕闇の森の中で
西国ハベロンは大陸の西の端に位置する小国だ。
けれど隣国の庇護を受け、戦火を逃れてきたため歴史上ではとても古い。それも大陸の大地の神を崇め、神と語れる神子と呼ばれる血筋を王家に持つためだと言われている。
そんなハベロンの王都は、なだらかな丘陵地帯にある。舗装され整備された道に沿って栄える都はレンガ造りの建物ばかりが並び、自然豊かな周囲とは別の景色を彩っている。
その石畳の上を一台の馬車が急くように走っていた。
早朝とも呼べる時間であるため、通りは朝の活気に満ちている。王都の門は喧噪に包まれていたが、お構いなしにあっという間に馬車は門をくぐる。
王都を出ても街道は整備されているので、それほど揺れることもないはずだが、急いでいるためがたごとと軋む車輪の音が聞こえる。
逸る気持ちを抑えて、ぎゅっと狭い馬車の中で両手を握って小さくなっているのはメレアネだ。
テセンズ伯爵家の娘ではあるものの、金以外には目も向けない父と嫡男であることだけが誇りである兄しか家族がいないため、物静かな少女である。
容姿も長い髪はふわふわとした巻き毛ではあるけれど白に近い白金で、瞳の色も水を薄めたようなアイスブルー。肌も白く体は折れそうに細いため不健康そうに見える。本人は幸が薄いとも思っている。
家族や使用人たちからは幽霊のように扱われているのだが、本人も慣れたものだ。今更、家の者たちに期待する心など持ち合わせてはいなかった。
そんな彼女には唯一、心の拠り所として四つ年上の婚約者であるセメットがいた。
バウガンディ侯爵家の嫡男であり、権威と金が大好きな父がメレアネが幼い時に苦労して結びつけた婚約者だ。父からも何があっても相手の要望を受け入れろと何度も言い聞かせられている相手でもある。
けれど、強欲な父の思惑とは別にメレアネは彼のことが大好きだった。
侯爵家の嫡男であるからこそ、穏やかで落ち着いていた。孤独なメレアネにとっては思慮深く温かな彼をすぐに好きになるのに特別な理由はいらなかった。優しくしてくれた、ただそれだけのことではあれど、心の底から嬉しかった。盲目的に彼を愛し、そしてただ結婚して家を出る日を夢見ていた。
だというのに、雨が上がった早朝にバウガンディ侯爵家からやってきた使いは、衝撃的な知らせをもってきた。
次期領主として、領地に視察に行っていたセメットが土砂崩れに巻き込まれて亡くなったというのだ。
気が動転していたメレアネは遺体を確認するか、と聞かれてやってきた馬車に深く考えもせずに乗り込んだ。行き先もわからないまま、ただ間違いであってほしいと彼の無事を神に祈り続けて、馬車に揺られていた。
いまさら神に祈ったところで事実は変わらないけれど、すがらずにはいられなかった。それほどに心は千々に乱れ、ただ混乱していた。
夕暮れになって馬車が不意に止まってからも、メレアネはただ神に祈りだけを捧げていた。
けれど、不意に人の気配がないことに気が付いて、顔を上げる。
窓から見えるのはどこかの森の中のようだった。
鬱蒼としたという表現がお似合いの、森の中、ただぼんやりと夕暮れに沈む影を見つめることしかできなかった。
そこでようやく、バウガンディ侯爵家の所領に向かっているのかどうかすらわからないことに気が付く。そもそもここはどこなのかすら見当がつかない。
「あの、どうかしましたか?」
メレアネはか細く震える声をあげた。外にいるはずの御者に呼びかけたつもりだったが、御者台にいるはずの人影は見えない。そのうえ、馬のいななきすら聞こえないのだ。
静まり返った森の中、近くの木からばさささっと葉がこすれる音と鳥の羽ばたきが聞こえた。
そっと馬車の扉に手をかけると、外から鍵をかけられているのか開く様子もない。
メレアネはぽつりと森の中で途方に暮れた。
先ほどまでは婚約者が生きていることを神に祈っていたはずだ。だが、今は自分の生死が危うい。
こんな森の中で馬車の中に置き去りにされて、一晩無事に明かせるとも思えなかった。いかに世間知らずといえども、それくらいの常識はある。
獣の餌になるか、賊の慰み者になるか。もしくは飢えて儚くなるのかもしれない。
先ほどまでは感じていなかったが、馬車の中の温度も下がってきている。薄いドレスでは夜の寒さにすら耐えられないかもしれない。
セメットが亡くなったのなら、後追いということになるのか。
ふと浮かんだ思いに、最近流行りの物語でよく見かける心中が心の中で浮かぶ。物語との違いは愛しい人と同じ場所で死ねないことだ。
けれど、セメットが土砂崩れで生き埋めになったと言われた場所ならば、自分も生き埋めになっても構わないとさえメレアネは思った。
それほど、セメットはメレアネのすべてだったのだから。
その時遠くで獣の遠吠えを聞いた。
細く長い声がいくつかこだまして、森を震わす。
セメットは生き埋めで、自分は獣に食われるのか。
それとも馬車は頑丈だから、食われずに済むだろうか。
メレアネはぼんやりと未来を思い描けば、どんと馬車が体当たりを受けた。いつの間にかガウガウと獣の声がすぐ近くで聞こえた。息遣いまではっきりと、だ。
先ほどまで距離があると思っていたが、そうではなかったようだ。
しかも馬車が大きく軋んだ。思いのほか、獣の体当たりで壊れそうな様子に、メレアネは身を震わせた。
獣の餌になる未来が濃厚のようだ。
痛い思いはなるべくしたくないけれど、そうも言っていられる状況ではないだろう。もちろん獣を撃退するすべなど持ち合わせてはいない。
できれば一思いで始末してくれないだろうか。
震える体を抱きしめて、こみ上げてくる涙を堪えながら扉を見据えた――その時、ぎゃんと獣の悲鳴が聞こえた。にわかに外が騒がしくなり、幾人かの足音が混ざる。
「馬車がなぜこんなところに?」
「いや、それよりこんなにオオカミがどっから湧いたんだよ」
低い声に、場違いな呑気な声が重なる。
呑気な声が重ねて、周囲に指示を出しているが何を言っているのかはわからなかった。
「誰か、いるのか?」
「は、はい! います……っ」
低い声に呼びかけられて、メレアネは思わず返事をしていた。
普段大きな声をあげないので、思わず声が裏返った。相手は息を呑んで、馬車の前に立ったようだった。
「オオカミどもは追い払ったが、ここに生きた人間を置いておくのはまずい。一緒に来てもらいたいが、扉を壊してもいいか」
「え、ええ……」
男の説明は端的で、状況の読めないメレアネは戸惑いつつ返事をした。
それを了承と受け取られたのか直後に、がきんと鈍い音がして馬車の扉が外側へと開いた。
夕闇の中、ランプの灯りに照らされて大柄な男が立っていた。漆黒と言っていいほど、黒ばかりに身を包んだ男だった。鎧もマントも剣の鞘ですら黒だ。髪色も瞳もランプの乏しい灯りでは判別がつかないが、暗い色であることは間違いがない。
男は太い眉を顰めて、なぜか目を細めた。
まるで眩しい光を見たかのような様子に、メレアネは首を傾げてしまう。
「カウゼン、とりあえず野営地に連絡はしたが、そっちはどう……って女の子?」
男の後ろからひょっこりと顔を出したのは男と対照的に明るい色の持ち主だった。鎧は薄い青でマントは白。髪色は金色のように見える。
メレアネを認めて目を輝かせた青年は、不思議そうにやってきた。
「こんな森の中で一人とは……私はハベロン第二騎士団の副団長のセイレルンダ・マクガシ。こっちの仏頂面が団長のカウゼン・ディストリー。で、お嬢さんはどこの誰でなぜこんなところに一人でいるのかな?」
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