形而上学的意味などないハヤシライスのためのヴァイオリン協奏曲

よなが

本編

 金木犀の甘い香りがどこからか漂う夕暮れに一人で佇む女性。

 まるでキリコの絵みたいだと思った。そこには秋の午後の謎があり、神秘と憂愁の雰囲気があり、心をざわつかせる。

 秋晴れの空一面、夕の色。その下で彼女は喪服を着ていた。影よりも濃い黒。そして遠目でもうかがえるその金色の髪、それから整った横顔には西洋の気配がある。

 彼女は空き店舗を前に呆けていた。いつからなのかは知らない。もう一時間になるのか、ほんの数秒前からなのか。いずれにせよ、その姿がちょうど一週間前の自分に重なり、少し遠回りになるとわかっていたが、ついつい彼女がいる道へと進んだ。

 すぐそばまで近づいた時、彼女が私の存在に気がついて顔をこちらに向けてきた。

 若い。少女というにはその顔立ちには未熟さがないが、それでも二十歳前後といったところ。彼女の装いがいっそうその細身を際立てている。瞳の色は私と同じく茶褐色。正面から見ると、さほど鼻も高くない。

 彼女にとって私がいるのと反対側、そのすぐ傍の地面に角ばったケースが置いてある。彼女の持ち物だろう。色はワインレッド。キャリーバッグとは違う感じだが、なんだろう。彼女の格好のせいで、小さめの棺を思わせた。まさかね。


「あの、ここって」


 彼女は私にそう言って、空き店舗を指差した。短い音の並びだが、充分に自然な発声でおそらく日本語でのやりとりで問題ないと判断する。


「最近、つぶれちゃったみたいなんですよ」


 私は苦笑まじりに言う。一週間前にきた私も唖然としたものだ。いつの間にか閉店している。色鮮やかな看板をはじめに外装の大半が取り去られ、一気に何百年もの時が経過したかのようだ。

 ハヤシライス専門店。今や面影はない。

 二十五歳を目前とした夏の夜に一度訪れて、いつかまた来ようと思っていた。それなのに結局、それが最初で最後になってしまった。あれからまだ三か月も経っていない。


「ううーん、こいつは予想外のアンラッキー。ん? あんらっきー……これ、安楽死と似ていません?」

「へっ? あ、はい」


 音だけ。いや、それよりも喪服を着た彼女が言うと、「死」の重みが違う。普段でも笑えない冗談なのに、この状況に置いては愛想笑いすらできなかった。

 そんな私の戸惑う様子を見やって彼女は「ちがうんですよ」と手をひらひらとさせた。


「たしかに、あたしは二時間前まで葬式に参列していたけど、所詮は遠い親戚のおじいちゃんだから。百歳ですよ、百歳! 逆にめでたいかなって」

「そんなことは……」

「まぁ、最後はけっこう身体のあちこちズタズタだったそうですが。じゃあ、安楽死とは言い難いですかね」

「……」

「おねーさん、このへんに住んでいる人?」


 私は肯く。

 容姿から感じた第一印象とは裏腹に彼女は気さくに話を振ってくる。どうもハヤシライス専門店と彼女とには個人的な繋がりがなさそうだ。ただ単に食べに来ただけ? 葬式の帰りに、そのままの服装で一人で?

 

「主婦なの?」

「いいえ、独り身だけれど」


 向こうの敬語がぽろりととれたから、私もそうなった。


「だよね。あっ、ちがう、ちがう! おねーさんがモテなさそうってわけじゃなくて。まだまだ若いんだから結婚なんて考えずにいる世代だろうなって」


 どう見たって年下の彼女にそう言われると複雑な心境ではある。


「ハズレ。私はつい先日、二十五になってアラサーの仲間入り。この前にお母さんから、いい人いるのって電話で言われたばかり」

「ふーん。お姉さん、ペシミストってやつだ。もう十年してから焦るか諦めるかしたらいいんじゃない? ちなみに恋人は?」


 極端な提案の次は、さらにプライベートに踏み込む質問。奇抜な街頭アンケートやインタビューの類でないとは思う。でも、ひょっとして配信動画の企画とかそういうの? 目の前にいる彼女の美人ぶりからすると、特殊な働き方をしていてもおかしくない。そんな気がした。


「ごめんなさい。私、急いでいるから」

「そのエコバッグの中身が理由?」

「ええ、そう。冷蔵庫に入れるものもあるから」


 つい答えてしまう。

 全国チェーンのスーパーマーケットに行って夕食の買い物をしたばかりだった。ハヤシライス専門店があったこの脇道はあくまで脇道であり、私にとって毎日は通らない道だ。通っていれば、そこが寂しげな遺跡めいた地になるのを目の当たりにできたのだろうか。業績不振以外に何か特別な理由があっての閉店なのだろうか。私はあのハヤシライスを作っていたシェフの顔だって見ずじまいなのだった。


「ふうん。ここから、家は近いんだ」


 ぎょっとした。世間話の延長線上にしては、どうにも彼女の笑みというのが、にこりではなくニヤリに変わったから。


「おねーさん、もしかしてハヤシライスを作るんじゃない?」


 私は首を小さく横に振る。

 すると、彼女はその左手で彼女自身の額をぺしっと叩いた。


「あちゃー。そううまくはいかないか。正解は?」


 私は溜息をつく。そのまま背中を向けて彼女から離れてしまおうかとも考えたが、しかし老婆心というものがでた。そうだ、これは必要以上の親切だ。親切であって他意はない、ないんだ。


「人生の先輩として忠告しておくけれど、むやみにそうやって初対面の人になんでもかんでも訊かないほうがいいわ。気分を害する人もいる。そして時には、あなた自身がひどく傷つくことだって」

「ええ~? こんな美人でも?」

「……そう、あなたみたいな美人でも」

「照れるなぁ」


 暢気に彼女が口にして、私は言わなきゃよかったと悔やんだ。


「よいしょっと。それじゃ、帰ろっか」


 彼女がすっかり置物となっていたケースを持ち上げる。あたかも一緒に帰宅する口ぶりなのも気になったが、それよりもケースに関心がいく。


「これね、入っているのはヴァイオリン」


 直接訊かずとも、私の視線がそれに吸い寄せられていたせいで彼女が教えてくれた。

 綺麗なVの音。なんだか誇らしげ。

 彼女はもしかしてヴァイオリニストなのだろうか。若き天才などと称される類の。ひょっとして、式で演奏をしてきたところか。故人との永久の別離に。こうした私の想像を読み取ってか、読み取らないでか、彼女はくすくすと笑った。


「あたしはんだけど」


 あっけらかんと。肩透かしを食った気分になった私であったが、でもまだ踵を返せずにいる。彼女には不思議な魅力がある、それは認めざるを得ない。


「あのね、ヴァイオリンは弾くものよ。それ、あなたのでないの?」

「あたり。あたしのハゲ親父の。こいつをにして、しばらく自由を手に入れたんだ」


 迷った。彼女は詳しく訊いてほしそうな眼差しを私に向けている。だが、同時に選択権をくれてもいる。ここで私が何も掘り下げることなく、さっき言ったとおりに帰ればそれで私たちは別れて、もう二度と出会わない。きっと。

 

 ―――――もったいないな。

 

 そんなふうに胸の内、その深くが疼いて私は顔が熱くなった。


 カツカツカツっと。彼女は笑みを浮かべて距離を詰め、私の耳元に囁く。


「夕食をご馳走してくれたら、ぜんぶ教えてあげる。ああ、でも恋人と同棲中だっていうなら、やめておくね。それは気まずいから」

「初対面の人にたかるの?」

「ちゃんと聞いてた? 等価交換だよ。あたしは食事にありつける。おねーせんは日曜の夜を独り寂しく過ごさなくて済む。ほら」


 独りじゃない、と見栄を張りはしなかった。張れなかった。見透かされている心地がしていた。彼女は私が一人暮らしであるのを知っている。恋人自体がいないことまでを察知したかは定かでない。

 重要なのは……私が初対面の美人にぐいぐい押されてしまうと家に簡単に招き入れてしまうのを許す人間だと彼女がわかっていることだった。


 かくして私は彼女の条件を飲む。私の住む賃貸マンションまで徒歩十分。二人での帰り道なんてのはいつぶりだろうか。今、暮らしている場所に限って言うなら初めてだ。私たちは歩きだしてようやく互いに名乗り合った。

 喪服の金髪女性は、絵美理えみりと名乗った。先月、二十歳になったばかり。そして大学を中退して一年近くになるという無職。心惹かれないプロフィールだ。絵美理は例のハヤシライス店には一度も入ったことがないらしい。ネット検索したらまだ営業中となっていたのだとか。

 どうしてまたハヤシライスを食べたいと思ったのか訊いたら「そこに特別な理由いる?」と返されてしまった。


 日が沈みゆく町を二人で進む。

 

「出来上がるまでのお楽しみでもいいんだけどさ」


 ケースを持っていない手をぶんぶんと振って歩きながら絵美理が言う。


「あたし、待つのが苦手だから。さっきの答え合わせさせて。真波実まなみ姉さん、今日は何を作るの?」 


 姉さんと呼ばれたことは生まれて初めてだった。一人っ子であるし、慕ってくれる後輩もいなかった。


「……ビーフシチュー」


 私は答える。ばつが悪い。それこそ、ハヤシライスとは親戚みたいなものだ。そうなってくると、この出逢いがまったくの偶然と言い切るのが忍びない。


「えー? じゃあ、半分あたりでいいよね?」


 ふふん、と絵美理は笑って私の手をとった。横並びになっている彼女に当たらぬようにと反対側でエコバッグを持っていたのが仇となった。お互いの空いていた手がするりと繋がれる。しかも絵美理は私の指を絡め取ってくる。


「もう一つ当ててあげよっか」

「な、なに」

「絵美理姉さん、女の子もいける人でしょ?」


 絵美理の囁きに心臓を啄まれててしまう。

 とりわけ「いける」の響きが妙に官能的であったのが私をおかしくした。絡めとられた指先、その一本、一本が一瞬にしてじっとりとするように感じられた。思わず隣の彼女を見やった。不意の秋風も彼女に瞬きを強いることはできず、その瞳は見つめ続けるほどに、私の瞳、その奥の奥までもが覗き込まれている感覚に陥った。


「そうだとしても、うちに来るの?」


 渇いた声。それが私の返答だった。

 絵美理が今度はけらけらと笑った。それから、一段と強く指を強く絡める。


「年下の女の子に皆まで言わせないほうがいいよ」


 面倒くさい子だ。同じ会社の後輩にこんなのがいたら、嫌になる。そのはずなのに、私の心は甘く揺さぶられっぱなしだ。ハヤシライスの妖精なんじゃないかって、そんな馬鹿げた妄想までし始めて手に負えない。


「それじゃあ、しばらくお世話になりまーす」


 マンションに到着したとき、絵美理が言ったその台詞は冗談だと思っていた。少なくとも半分は冗談であるのだと、そう言い聞かせていた。そうあるのが正常なのだと。夕食後にはさっさと出ていってもらえばいいのだと。私は出会ったばかりの女の子と懇ろな関係になる人間ではないのだから。

 

 結果として、絵美理のその発言は誤りとなった。


 しばらくなんてものじゃない長さを私たちは共に過ごすことになる。その中には就職を私に急かされて絵美理が本当に動画配信者になったり、例のヴァイオリン(後に三百万円で購入した代物と判明)の主とのいざこざがあったりする。

 

 しかしながら、そんなのは些細なことに過ぎない。

 私からすれば、日を追うごとに彼女にぐずぐずにされてしまっている、この心身が大事であった。煮込むに煮込んで、それでも絵美理が離してくれないものだから、毒を食らわば皿までの精神で、私は腹を決めることとなる。周囲の人々が無遠慮に奏でるストリングスに翻弄されながらも、彼女との幸せを掴むべく奮闘するのだった。




 そんな日々を過ごしていく中で、ある時、私はため息まじりに言う。


「ほんと、絵美理は人をダメにするのがうまいんだから」


 私の愛ある非難に、ニヤリとしてくれるかと思いきや、彼女は目を三角にして睨んできた。動揺してしまう私であったが、気がつけば絵美理に押し倒されている。


「それは真波実姉さんじゃん! あたしをこんなになるまで愛しやがって!」


 理不尽であるが彼女の本心に相違ないのだとその紅潮したかんばせが物語る。そんなこんなで私たちはどちらがもう片方をダメにしているのか議論し合う。ようやく煮詰まる頃に二人のお腹が鳴って、顔を見合わせて笑い合った。


 そうして今日も私たちは巡り合ったあの日の記憶を全部溶かし込んだようなハヤシライスを作る。

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形而上学的意味などないハヤシライスのためのヴァイオリン協奏曲 よなが @yonaga221001

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