睡狼
大橋 知誉
睡狼
何をしてもやる気が出ない。
上司にみっちり叱られて何もかもが嫌になってしまった十二月の帰り道。
拍森アヤメは満員電車に揺られながら、最寄り駅に到着しても降りることをせずに、ただぼーっと虚無の心で窓の外に流れる景色を見ていた。
街にはすかり夜の帳が下りて商店には煌々と眩しいほどの照明がぎらついていた。
アヤメはもっと静かな場所に行きたかった。
こんな現実からさよならをしてどこかに行きたかった。
あのクソ上司。思い出すと腹が立った。
この電車にずっと乗って行ったらいったいどこに着くのだろうか?
ポケットからスマートホンを取り出して路線を確認すると、この電車はずっと山の方へと行くようだった。
このまま遠くに行ってしまおう…。
後のことは知らん。
アヤメは後先も考えずにそう決心した。
電車が都心から離れると、徐々に乗客は減って行き、やがて車両にはアヤメ一人が残された。
外にはもう商店街の灯りはなく、ただ真っ黒な夜が広がっていた。
ずいぶんと田舎に来てしまった。
アヤメは七人掛けのシートの真ん中に座りどこに向かっているのかわからない電車の響きを心地よく感じていた。
なんだかこんな映画のシーンがあったような気がしたが思い出せなかった。
やがて、電車は終着駅へと到着した。
全く知らない駅名だった。
電車を降りると、数名の乗客が別の車両から降りるのが見えた。
他に人間がいたのでアヤメは少しほっとした。
改札口に向かうと、ここが無人駅であることがわかった。
自動改札もついていなかったのでアヤメはそのまま駅から出た。
都心よりも空気が冷たく感じられた。
ここがどこなのか全くわからなかったが、スマホで位置を確認するのは野暮な気がしてしなかった。
ちょっと行き当たりばったりで行ってみよう。
駅前には小さな商店が一軒建っていたが閉まっていた。
道に沿って適当に歩いて行くと、『大犬神社』と書かれた看板があった。
ここより500メートルと書いてある。
何か惹かれるものを感じてアヤメはそちらの方へと向かった。
大犬神社はすぐにみつかり、長い階段の上の方にあるようだった。
運動不足のアヤメは息を切らせながら長い階段を登った。
最上部に到着すると大きな鳥居があり、大犬神社の拝殿が正面にどんと構えていた。
想像よりも大きく立派な神社だった。
お参りしていると、拝殿横の建物から人が出てきた。
年配の女性だった。
「おやまあ、こんな時間に珍しいね」
アヤメは振り返ってお辞儀をした。
「ふらっと来てしまいました。夜分にすみません」
「それはそれは。寒かったでしょう。中でお茶でもどう?」
人懐っこいおばさんだった。
アヤメは言われるがままにおばさんについて拝殿横の建物へと入った。
そこは住居のようだった。
客間に通されておばさんは奥に引っ込んだ。
出された座布団に正座で座り、アヤメは部屋の中をぐるりと見渡した。
正面に床の間があり立派な掛け軸がかけてあった。
狼が遠吠えをしている墨絵だった。
アヤメはその絵になぜか引き込まれてしまって目が離せなくなった。
「その絵、いいでしょう?」
急に声がして驚いて振り向くと、さきほどのおばさんがお茶を持って入って来た。
「あ、はい。迫力があるのに、なんだか寂しい絵だなと思って」
「それはね、この神社でお祀りしている犬神さま」
おばさんはお茶をアヤメの前に出しながら言った。
「犬神さま…?」
言いながらアヤメは小さくお辞儀をしてお茶をすすった。
「この神社の拝殿の奥には裏山に通じる階段があって、そこを登っていくと犬神さまをお祀りしている祠があるんですよ。お参りしたければご案内しますよ」
「今からですか?」
アヤメは柱の時計をチラリと見た。時計は夜の十時を指していた。
「お参り、したいでしょう? あ、あなたのお名前聞いていい?」
おばさんがにっこりと微笑みながら言った。彼女のそう言われると、お参りしたい、そんな気がしてきた。
「あ、はい。じゃあ…。拍森アヤメです」
それを聞くと、おばさんは何とも複雑な表情をした。だがそれは一瞬で、すぐに元の笑顔に戻った。
「アヤメさん、では、準備しますんで、ちょっとまってて」
そう言っておばさんはまた奥に引っ込んでしまった。
再び独りになったアヤメは犬神さまの絵を近くで見るために立ち上がった。
見れば見るほどすばらしい絵だった。
「お待たせいたしました、参りましょう」
戻って来たおばさんを見ると、巫女のような衣装に着替えていた。
手には提灯を持っている。
この人は巫女だったのか。ずいぶんと気さくな巫女さんだ。
アヤメは慌ててジャケットを着るとおばさんの後について建物から出た。
おばさんについて行くと先ほど話に聞いたとおり、拝殿の裏に山へと続く階段があった。
それは真っ暗な森の中をどこまでも登っていく階段だった。
体力のないアヤメは必死におばさんのあと追って上った。
おばさんは慣れた歩調でどんどん登って行った。提灯の灯りがゆらゆら揺れて距離感がわからなくなった。
もうこれで限界…と思われるころ、ようやく山の天辺についたようだった。
少し先でおばさんがこちらを振り向いて待っていた。
「なかなかきつい階段でしょ?」
「あ、はい…」
はあはあと肩で息をしながらアヤメは応えた。おばさんは一糸乱れぬ呼吸でアヤメを驚かせた。
「毎日登れば慣れますよ」
おばさんはアヤメの心を読んだのかそう言いながら先に進んだ。
おばさんについていくと、正面に巨大な松の木が現れた。
大きな大きな松の木の根元には洞窟のような祠があった。
そこには鉄製の柵がしてあり、人や獣が入れないようになっていた。
おばさんは鍵を取り出すと柵をあけ中に入って行った。
「この奥に犬神さまの祭壇があります」
アヤメはこんなところに入っていいのか少し恐ろしく思ったが、神社の人がいいと言っているのだから大丈夫だろうと思いついて行った。
祠は大人がかがんで進めるほどの高さで、中は外よりもずっとひんやりしていた。
階段を登って温まった体でもずいぶん寒いと思えるほどだった。
「この中は夏でも寒くて氷が解けないんです。冬の間はこのように冷凍庫並みです」
またまたおばさんがアヤメの心を読んだかのように言った。
おばさんが提灯を掲げると、奥の方に何かがあるのが見えた。
そこまで進んでいくと、この祠の行き止まりがガチガチに凍っているのがわかった。
「これが犬神さまです」
おばさんは言いながら提灯で氷の塊を照らした。氷の塊にはしめ縄がしてあった。
アヤメは一歩進んで雪の塊に近寄った。吐く息が白い。
「さあ、お参りしてください」
おばさんがアヤメの手を引きながら言った。
そして地面に提灯を置くと、代わりにそこに置いてあったものを手に取った。
それは小さな藁人形だった。
「何ですかそれ?」
アヤメは少し怖くなって手を引っ込めようとしたが、おばさんが強く握って話してくれなかった。
「悪しき邪道の神に告ぐ。ここに代行の儀を行わんとすれば、拍森アヤメの延命を懇願する」
おばさんが低く小さな声で言った。それと同時に手に持っていた藁人形に自然と火が付き、ボッと音を立てて燃え上がりたちまち人形は燃え落ちてしまった。
アヤメが驚いて見ていると、おばさんが急に苦しみ始めた。
先ほどまでの親しみやすい雰囲気は失われ、おばさんはまるで野獣のような声で唸り始めた。
心臓発作でも起こしたのかと思い、アヤメがあたふたしていると、おばさんは喉をかきむしり鬼の形相となった。
すると、メリメリと音がして、アヤメの目の前でおばさんの顔が真ん中から裂け始めた。
アヤメは悲鳴を上げて後ずさった。
たちまちおばさんの顔は半分に破れて、中からもう一つの顔が現れた。
その顔を見てアヤメはますます悲鳴を上げた。
おばさんの顔が割れて出てきた顔は、なんとアヤメの顔だったのだ。
・・・
・・・
遠い遠い昔の話をしよう。
これは人間がまだかろうじて自然の一部であったころのお話。
シンは山里に住む、氷狼(ひょうろう)の父と人間の母の間に生まれた子供だった。
異種相姦という禁忌を犯したシンの両親は故郷を追われ、この山深い里でひっそりとシンを育てていたのだが、やがて麓の村人たちに正体がばれ、家に火を付けられる事態となった。
このとき、たまたま小便をしに裏庭に出ていたシンは助かったが、両親は焼死してしまった。
まだ四つのシンであったが、このままでは殺されると思い、こっそりとその場から逃げ出した。
そして裏山の奥の奥へと向かい、身を隠した。
シンは怒りに震えていた。
父母がいったい何をしたというのだ。平穏に暮らしたかっただけなのに。
怒りに任せて遠吠えをすると、たちまちシンは氷狼の姿となり、人間の心の大部分を失ってしまった。
シンは氷狼として、約六年の月日を山で過ごした。
そして、狼の成人にあたる十歳になった春、シンは突然自分の両親がどのようにして死んだのかを思い出した。
シンは氷狼の姿のままに人里へと降りていくと、そこら中の人間を方端から喰い殺した。
十人ほどの人間を襲ったところで気分が悪くなり、山へ戻ろうとすると、人間たちが棒やクワを持って襲って来た。
追い詰められたシンが思い切り強く息を吐くと、息がかかった場所が真っ白に凍ってしまった。
これを見た人々は恐れをなして逃げて行った。
その隙にシンも逃げることができ、山奥の安心できるねぐらへと帰って来た。
シンのねぐらは大きな松の木の根元にできた穴の中にあった。
シンは自分に氷の息を出す能力があることを知らなかった。
自分の能力に驚きながらも喜びの気持ちが湧いてきた。
あれならば、どんな人間にも負ける気がしなかった。
シンは人を喰った感触を思い出して、その夜は興奮してなかなか寝付けなかった。
人は決して美味くはないが、噛みついた牙から伝わってくる恐怖心がシンにはたまらなかった。
あれを味わうためならば、何度でも人間を喰いたいと思った。
シンの心は人間への憎しみで満ちていた。
この世の全ての人間を喰らいつくしてやる。
翌日もシンは周辺の村を襲い人を喰った。
人間たちが反撃してくれば氷の息を吐いた。
こんな毎日をシンは何年も続けた。
しばらく喰い続ければこの世から人間はいなくなるだろうと思っていたのに、人間たちは一向に減らなかった。
それどころか、どんどん増えていた。
氷狼の噂を聞いた者たちが集まって来ているのだった。
こんなことをしても死人を増やすだけなのに。
シンはバカな人間たちを蔑みながら眠るのだった。
どのくらいこんなことを続けていただろうか。
ある日突然、シンは氷狼の姿になれなくなってしまった。
いつものように朝起きると、シンは人の姿になっていた。
狼狽し何度も変身を試みたがシンは狼になれなかった。
ちょうど年のころは十五歳。人間で言う思春期の最盛期に突入した頃合いだった。
人間の姿になると、狼の時よりは憎しみが和らぎ、村を襲おうという気持ちはなくなった。
どちらにせよ、人間の姿で村を襲ってもたちまち返り討ちにあうだけである。
人の姿となり、着るものが必要となったシンは、こっそり人里に降り、一番近い民家の庭に干してあった着物をいくつかくすねて逃げた。
自分のねぐらに戻り、盗んだ着物を着てみるも、どのように身に着けるものか解らず、適当に羽織る次第となった。
着物からは人間の臭いがした。
あまりいい臭いではないが、そのうちシンの臭いに置き換わるだろう。
シンは残りの着物を寝床の奥へとしまった。
着物を着るとますます人間になったような気持ちがした。
もう一度里を覗いてみようと大胆な気持ちになり、シンは獣道を足早に下りて行った。
慣れた道を走っていると、突然バチンと大きな音がして足首に激痛が走った。
シンは悲鳴を上げてその場に倒れた。
見ると、獣用の罠が仕掛けてあって、そいつががっちりとシンの足首に噛みついているのだった。
シンはパニックに陥り、焦って罠を足から抜こうとした。
しかし、罠はびくともせず、もがけばもがくほどに足首の肉に食い込んでたちまちシンの脚は血まみれになってしまった。
シンは暴れるのをやめて身体を横たえると、人間の思考となった頭で考え始めた。
これは人間が仕掛けた罠だ。獲物を捕るためか…それとも。
どちらにしてもここでグズグズしていては人間に見つかってしまうのは時間の問題だった。
どうにかしてこの罠を抜け出ないといけなかった。
恐らくこれはどこかの部品を外すと開く仕掛けなのだが、シンにはどうしても解らなかった。
前に鹿が同じようなものにかかっているのを見たことがあった。
その時は鹿を喰ってしまったので、罠の構造はよく見ていなかった。
足首を切断するしかないのか…いや、それでは命が助からないかもしれない。
これにもしも毒が塗ってあったら?
いやそれはなさそうだ。痛いだけで他は何ともない。
それではただの人間のふりをしたらどうか…。頭の悪いよそ者が山をふらついていて罠にかかったというのはどうだ?
どうせ人間の言葉なんかろくに喋れないのだし、適当に誤魔化せば害のない不運な奴として助けてもらえるかもしれない。
まさか氷狼がこんな小僧の姿になっているとは誰にも解るまい。
こうしてシンがあれこれ考えていると、下の方から落ち葉を踏む足音が聞こえてきた。
シンは謝って射抜かれてはたまらないと思い、できるだけ人間らしい声でそちらに向かって声を出した。
「お、おい、誰か、た、たすけて…」
氷狼となってから人の言葉を発していなかった割にはうまく言葉を言うことができた。
「誰かいるのか?」
向こうから声がした。子供の声のようだった。
ガサガサと足音が近づいて来て、小柄な人影がこちらに近づいて来た。
獣の毛をまとい、肩には弓矢を背負っていた。
やってきたのはやはり子供のようだった。
シンが罠にかかって倒れているのを見ると、子供はハッとした表情になり、弓矢を地面に置いてこちらへ近寄って来た。
「罠にかかったのか? すぐに外してやる」
子供は手際よく罠の細工を外してシンの足を自由にしてくれた。
相手を近くで見てようやく解ったのだが、女だった。
シンは人間には男と女がいることを両親と暮らしていたころの記憶から知っていたし、村で男も女も見境なく喰って来たので、それらの違いをよく知っていた。
女の方が肉が柔らかで美味いのだ。
シンはこんなに間近に敵対していない女を見るのは初めてだったので、その美しさにすっかり魅了されてしまった。
女からは得も言われぬよい香りがした。
まじまじと見ていると、女がこちらに目を向けたのでシンは慌てて目を逸らした。
「お前、どこの者だ? ずいぶん薄汚れているけど。この辺の者じゃないな」
「お、俺、山に住んでる」
思い切って言葉を発してみたが、思ったより喋ることができた。
これを聞き、女はシンをまともな人間ではないと判断したようだった。
「立てるか?」
シンは女に手伝ってもらって立ち上がった。足首の傷が痛んだが大したことはなさそうだった。
舐めれば治るだろう。
シンが立ち上がると、女は急にギョッとしてシンの着物の前を掴んだ。
攻撃されるのかと思ったシンは身構えたがそうではなかった。
ぶははははと女が笑ったのだ。
「ごめん、ごめん。笑うなんてひどいよな。でもお前、股間が丸見えだぞ。着物の着方、知らないのか?」
女はその辺から植物のツルを持ってくると腰のあたりで着物を縛って前が閉じるようにしてくれた。
なるほど、着物とはこうやって着るものなのか…とシンは感心した。
「それ、お前の着物じゃないだろう。盗んだ奴に見つからないようにしろよ」
シンは思わず、うん、と頷いてしまった。
「着物は今度わたしが持ってきてやろう。お前どこに住んでるんだ? 怪我の手当てもしてやろう」
いや、それはダメだ…。シンは思った。ねぐらは誰にも知られたくなった。
「俺、大丈夫。おまえもう帰って大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。その傷、放っておいたら悪くなるよ」
「ダメ。きちゃだめ。お前は帰れ」
不本意だったがシンは女を強く押して突き飛ばした。
女は尻餅をつくと、ショックを受けた表情でこちらを見た。
シンはそのまま背を向けて歩き始めた。
「お前は嫌いだ。来ないでほしい」
ダメ押しで捨て台詞を言い放ち、シンはその場を立ち去った。
「何だよ、せっかく助けてやったのに」
後ろで女の声が言った。
これなら怒って帰ってくれるだろう。
足の傷は痛んだが何とか歩いて帰れそうだった。
シンは歩きなれた獣道を辿ってねぐらへと戻った。
ゆっくり休んで、これからどうするかゆっくり考えないといけなかった。
そう、足を怪我したことよりも、氷狼の姿に戻れないことがシンにとっては一大事なのだった。
住み慣れたねぐらでシンはあっとゆうまに深い眠りへと落ちて行った。
翌朝目を覚ますと、シンは未だ人間の姿のままだった。
腹が減っていた。
これまでのように人を襲って喰うわけにはいかないので、山を下りて人間の畑から作物を盗んで喰った。
人間の作った物を食べたのは両親が死んで以来だったが、なかなかうまいと思った。
そうしてシンは何日か過ごしていた。
足の傷は三日もすれば治るだろうと思っていたのだが、日に日に痛みが増して一向に良くなる気配はなかった。
人間の身体とはなんとひ弱なものだろうかとシンは大変不便に思った。
その晩、シンは酷い熱を出して動けなくなってしまった。
足の傷から臭い汁がたくさん出てきた。
傷は腫れあがってまるで象の足のようになった。
毒でもついていたのだろうか…。
朦朧とした意識の中でシンは考えていた。
高熱にうなされて、シンは気味の悪い夢を見続けた。
現実なのか夢なのか区別がつかないままに、シンは悪夢の中を漂った。
ようやく体が少し楽になり、眠りが浅くなったころに、シンは人の気配を感じて目を覚ました。
ぼんやりと目を開けると、女が心配そうにシンの顔を覗き込んでいた。
あの罠を外してくれた女だった。
驚いて体を起こそうとすると、女に抑えられてまた寝かされた。
「ダメだよ。もう少し寝てな」
「何でここにいる?」
「ごめんね。あんたが心配で見張ってたんだ。こういう傷を作った時は熱を出して死ぬことがあるんだ。昼になっても出てこないからまさかと思ったけど」
「俺は死ぬのか?」
「いいや、大丈夫そうだ。運がよかったね。今薬も塗ったからね。これ以上は悪くならないだろう」
死なないと聞いて安心し、シンは再び気を失うように眠りについた。
それからどれくらいの時間がたったのかわからないが、女がずっと自分を看病してくれているのを漠然と感じながら、シンは浅い眠りと深い眠りを行ったり来たりして過ごした。
体中を温かい布で拭かれているような感覚もあった。
誰かにこんなに良くしてもらったのは、うっすらと覚えている両親の記憶のみだった。
こんなことを自分にしてくれる人が現れるとは夢にも思っていなかった。
やがて体を起こせるようになると、女がドロッとした白い食べ物を器に入れて持って来た。
シンが不思議そうにそれを見ていると、女が小さなくぼみのある棒のようなもので、それをシンの口へ運んでくれた。
それは塩気と甘みのある、何とも言えず美味い食べ物だった。
「これは粥だ。食べたことないのか?」
ない。とシンは答えた。
腹がいっぱいになるとシンは再び夢の中へと戻って行った。
次に目を覚ましたとき、女が刃物を持っていた。
シンは驚いて後ずさり、攻撃の姿勢を取ろうとした。
女はキョトンとした顔でシンを見ると、ふふっと笑って言った。
「大丈夫。菓子の皮を剥くだけだ」
女は橙色の実の皮を器用に剥いてシンにくれた。
実を口に入れると甘みがいっぱいに広がった。
シンは夢中で実を食べた。
「お前、名はなんと言うんだ? 名前、あるのか?」
食べているシンを眺めながら女が言った。
「シンだ」
思わず本当の名を口にしてしまった。
しまったと思ったが女は何も気が付いていないようだった。
「そうかシン。よい名だな。私はアヤメだ」
「アヤメ…」
「そう、アヤメだ。この山の麓にある拍森という村の地主の娘だ。大概のことは自由にできる。お前は何か困っていないか? こんな穴の中にずっと住むつもりか?」
シンはずいぶんとお節介な奴だなと思った。
「困っていることはない。傷はもう治った。助けてもらってありがとう。俺は何も持ってないからお礼できない。アヤメはもう帰って大丈夫」
「なんだよ、もう少し懐いてくれたと思ったんだけど。まだ傷は完全に治ってないよ。もう少し寝てろ」
そう言ってアヤメは穴から出て行った。
シンは残りの果実を平らげると、再び横になった。
とにかく倦怠感が抜けなかった。
体力が完全に回復するまで、いったいどれくらいかかるのだろうか。それまでアヤメはここにいるつもりだろうか。
目を覚ますと穴の中は真っ暗で夜になっていた。一日中寝ていたようだ。
外から良い香りが漂ってきていた。
シンは寝床の穴から這い出ると外の様子を覗った。
穴の前でアヤメが火を燃やして、その上の入れ物の中で何かを作っていた。
「それは何だ?」
シンが訪ねるとアヤメはビクッとして振り返った。
「わ、びっくりした。シン、起きたのか。これはキノコ鍋だぞ」
「キノコなべ? 食い物か?」
「食い物だ。食うか?」
シンは、うんと頷きアヤメの隣に腰を下ろした。
アヤメは木でできた器に食べ物をよそってくれた。
汁の中にいろいろなものが浮いてる食べ物だった。
もわもわと白い湯気が立ってとても熱そうだった。
「よく冷ましてから飲んでみろ。ふーふーするんだぞ」
アヤメが言った。シンは言われたとおりにふーふーと食べ物息を吹きかけてから、恐る恐る汁をすすってみた。
汁はとても熱かったがが、この世のものとは思えぬほど美味かった。
粥や果物も美味かったが、こちらの方が数倍も美味かった。
こんな美味いものを喰ってしまったら、もう人間などは喰う気ならないな…とシンは思った。
「うまいか?」
アヤメが言ったのでシンはうんうんと頷いて食べた。
シンは無言で食べ続け、何杯もおかわりをした。
それをアヤメは嬉しそうに見ていた。
すっかり食べ終わると、アヤメが自分と一緒に穴の中で眠るつもりらしいことが感じられた。
それはいけないとシンは思った。
アヤメとずっと一緒にいたい気もするが、いてはいけない気もしていた。
「アヤメはもう帰った方がいい。家の人心配する。こ、このへん、ひょ、氷狼出る。危険。俺、下までお前を連れて行く」
シンはアヤメに早く帰って欲しくて言った。
その言葉にアヤメはクスクス笑って答えた。
「氷狼は出ないだろう?」
これにはシンは何と答えていいのかわからなかった。
「なんで?」
「だって氷狼はお前だろう、シン」
シンは驚いて持っていたお椀を落とすと、立ち上がって後ずさった。
「知ってた? 知ってた、のか?」
「私の父さんは氷狼に喰われて死んだんだ。その半年後、気が触れた母さんは首をつって死んだ」
アヤメは静かに言った。
「お、俺を、殺しに?」
それを聞くとアヤメはふっと笑った。
「バカだな。殺すつもりならとっくに殺しているよ」
「じゃあ何?」
「父さんがお前に喰われた時、周りの人達が犬神の祟りだとか何とか言ってるのを聞いたんだ。母さんもずっとそう言ってたし」
「いぬがみのたたり?」
「犬の神様の怒りに触れたって意味。私もどういうことかなって調べてみたらね。あのね。私も小さったからよく覚えていないんだけど、十年くらい前に異種相姦の禁忌を犯した家に火を付けたのがうちの父さんだったんだ」
シンは「異種相姦の禁忌」という言葉の意味はわからなかったが、アヤメの言っている意味はわかった。
アヤメは言いながら泣き始めた。シンもたまらず涙を流した。泣くなんていつぶりだろうかと思った。
「村々で人を襲っているのは、その時に行方不明になった氷狼の子供なんじゃないかって…みんな言ってる…」
アヤメは両手で自分の顔を覆って泣きながら話を続けた。
「全部父さんのせいだったのかもと思って…何でかわからないけどお前に会いに行こうと思って…そしたら、お前は犬ではなくてこんな怯えて痩せた子で、ますますどうしていいかわからなくなって…」
まるで子供のようにアヤメは泣きじゃくった。
シンは胸の奥底から不思議な感情が沸き起こるのを感じ、本能のままに行動した。シンはアヤメの肩を引き寄せて彼女をしっかり抱きしめた。
すると、アヤメもシンの体に腕を回して抱きついた。
そうして二人はしばらく抱き合って泣いた。
「わかった、アヤメ。俺を殺すといい」
シンはアヤメの耳元に囁いた。ハッとしてアヤメが体を離した。
「お前は俺を殺せ」
シンはアヤメの腰ひもから短剣を抜くとアヤメに手渡した。そこに刃物を持っているのは果物を剥いてもらったときに見ていたのだ。
「ダメだ、何故そうなる?」
否定しつつもアヤメの両手は無意識に短剣を構えて持っていた。
「俺はもう氷狼の姿に戻れない。なぜかわらない。でも、このままではいずれ誰かに殺される。だったら今ここでアヤメに殺されたい」
「ダメだ。お前は生きるんだ。私と一緒に行こう」
「人と氷狼は交われない」
「交われるよ。お前の両親はしただろう?」
「殺されてしまった」
これにはアヤメは黙ってしまった。シンは本気でアヤメに殺されたいと思っていた。
この人生に終止符を打てるのは、ここにいるアヤメだけだと思った。
「俺はお前の父を喰った。憎しみを持って俺を殺せ」
アヤメは嫌だと言って一歩下がった。
アヤメはボロボロと涙を流した。刃物を持った手が震えていた。
「私の父さんはお前の家族を殺したんだぞ」
「そうだ。だけどやったのはお前じゃない。俺は…俺がお前の父さんを食い殺した…こうやって」
シンは口をあけてアヤメの喉元めがけて飛びついた。
反射的にアヤメは短剣を振り下ろし、シンの額から右頬にかけてをざっくり切った。
生暖かい血が流れ、シンの目に入った。
アヤメは自分のしたことにショックを受けて目を見開いていた。
「アヤメさま!」
ここで後ろの森から声がした。
どやどやと男たちが駆け寄って来た。
男たちは素早くシンを捕らえると、アヤメの両脇にも大男が二人ぴったり寄り添い立った。
「アヤメさま。この者は? 何をなさっておいでで?」
初老の男が前に出て来て言った。
「何でもない。お前たちは下がっていろ」
「そうもいきません。こいつは氷狼ですね。直ちに始末いたしましょう」
「ダメだ。こやつに手を出すな。今、私が話していたのだ」
「長老どの。やはりアヤメさまはご乱心なさったとの噂、誠であったのでは?」
後ろの方にいた若い男が、口を挟んだ。
「何だと? 乱心とは何だ?」
アヤメは戸惑って若い男に向かって言った。
「氷狼にたぶらかされているとの噂ですよ、アヤメさま。現に先ほど、身体を合わせていたではないですか」
「身体など合わせていないぞ」
「いいえ、私も見ましたぞ」
別の男がニヤニヤしながら言った。
シンは怒りが全身を駆け抜けるを抑えきれずに立ち上がろうとしたが、両脇から男たちに押さえつけられて動けなかった。
「異種相姦の禁忌を犯した者は死刑ですよ、アヤメさま」
初老の男が言った。
「残念でなりません」
アヤメは怒りに満ちた表情で短剣を振りかざすと、男とたちに向かって行った。
それを止める術がシンにはなかった。
初老の男は驚くほどの俊足で動くと、難なくアヤメの太刀筋を読み避けた。
間髪入れずに後ろにいた男が剣を抜きアヤメの胸を一突きにした。
アヤメは声も出さずにその場に倒れた。
シンは目の前で繰り広げられた光景が呑み込めずにしばらく茫然としていたが、やがて事の次第を理解すると、凄まじい声で雄たけびを上げた。
それは男たちが怯むほどだった。
シンの咆哮と同時に周りに冷気が満ち溢れ、草木はたちまち凍ってしまった。
氷狼の力に圧倒された男たちは蜘蛛の子を散らすように方々へ逃げて行った。
目の前には倒れたアヤメが残されていたが、シンにはもう何も見えなかった。
ただひたすら心は悲しみに支配され張り裂けそうだった。
シンは辺り一帯を凍らせながら後ずさり、自分の寝床へと潜って行った。
彼の穴は氷つき、シンはその中で自分自身を封印した。
・・・
・・・
目を開けると、アヤメは犬神さまの祠の中に倒れていた。
大犬神社の巫女のおばさんに連れられてここまで来たのは覚えていた。
それでどうしたんだけ?
なんだか気味悪いことがあったように思うがよく覚えていなかった。
立ち上がりアヤメはギョッとした。
巫女の衣装を着ていたのだ。
あのおばさんが着ていたやつだ。
え、どういうこと?
と思い見渡すと、おばさんはいなくなっており、代わりにアヤメが着ていた服と、何だかわからない気持ちの悪いビロビロしたものが地面に落ちていた。
おばさんが私の服を脱がせて自分が着ていた巫女服を着せたということか?
え、そしたらおばさんは裸?
いやいや、そんなことはない。
アヤメは地面に落ちているビロビロを拾い上げた。
そして悲鳴を上げそれを投げ捨てた。
それは、おばさんの抜け殻だった。
まるでゴム人形のようなシワしわでビロンビロンのおばさんだった。
アヤメは気味が悪くなり逃げ出そうと穴の出口へ向くと、そこに人が立っていた。
今まで全く気配を感じなかったので、アヤメは心臓が口から飛び出るほどに驚いた。
ヒィッと小さく悲鳴をあげて、アヤメは後ろに下がり、おばさんの抜け殻を踏んでしまってまた悲鳴を上げた。
「忙しない奴だ。これまでの個体とは異なっている。期待してもよいだろうか」
突然現れた人物は静かに言った。
「あの…誰です?」
アヤメは恐る恐る話しかけた。
全身黒ずくめで顔色の悪い、でもかなり美形な若い男だった。
「私は誰でもない。根の国の者だ。ついてきなさい」
こんなに怪しい奴に「ついてきなさい」と言われてついて行く人はいないだろうが、この穴の中にはこれ以上いたくなかったのでアヤメは落ちている提灯を拾うと男について外に出だ。
穴から出ると男は既に階段を降りて行ってしまっていた。
アヤメは男について階段を降りた。途中で自分の服を穴の中に忘れてきたことを思い出したが、またあそこに戻るのは絶対に嫌だったのであきらめた。
拝殿まで戻ると、男は境内の真ん中に立っていた。
アヤメが来るのを見ると、そのままおばさんの家に入って行った。
しかたなくアヤメも向かう。
家に入り、置きっぱなしになっていた自分のカバンを取りに客間に入ろうとしたところで黒服の男に「何をしている、こっちだ」と呼び止められた。
この家の人だったのかな? と思いながら、アヤメは男が入って行った部屋に入った。
そこは書斎のような部屋だった。
壁一面に古い本が並べられていた。
中には新しいノートもあるようだった。
「まずはこれを読みなさい」
男は棚から一冊のノートを取り出してアヤメに渡した。
中を開くとびっしりと手書きの文字が書かれていた。
「これは何? あなた、誰です?」
アヤメが聞くと、男はふっと笑ってごまかした。
その顔があまりに美しくてドキッとしてしまった。
「いいから読みなさい」
書斎には半分寝転んで本が読める古めかしい椅子が置いてあった。
アヤメはそこに座ると、ノートの最初のページを開き、たちまちその内容に引き込まれて行った。
ノートの冒頭にはこう記されていた。
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第十四代 拍森アヤメにより現代語に変換
初代の記録
私が体験したことを後世に伝えるためにこの書を記す。
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そしてそこには、アヤメという大地主の娘がシンという氷狼と出会った経緯が書かれていた。
何とも不思議なことだが、ここに出て来るアヤメは自分のことでもあるのだと、アヤメは理解し始めていた。
ふと顔を上げると、黒く拭くの男がまだそこに立っていた。
「これはいつくらいの話なの?」
「だいたい千年前だ」
「千年前!? これは後の人が書きなおしたやつなんだよね。あっちの古いのが原本ってこと?」
「いや、原本は失われてしまった。一番古いもので室町時代くらいだ。さあ、先を読んで」
アヤメは先を読み進めた。
氷狼と通じた疑いをかけられたアヤメは家臣に裏切られて殺害され、犬神は自らを凍らせて祠に籠ってしまった。
なるほど、さっきの祠がそれなのか。では奥で凍っていたのはシンなのか?
本当に?
…ん? いやまてよ…アヤメは殺害された?
ではこの手記は誰が書いたのだろう??
アヤメは読めば読むほど混乱してくるこの物語を読み進めた。
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胸を刺されて私は、シンが自ら凍り付く様を見た。
その横に自分自身が横たわっているのが見え、自分が死んだのだと悟った。
そのまま私の意識は肉体から離れてしまい、黄泉の国の入口まで来た。
そこは殺風景な河原だった。
たくさんの子供たちが石積をしていたので、ここは賽の河原であると私は勘ぐった。
私はシンに殺されるのであればともかく、あんな勘違いをしたままの家臣に殺されるのでは死ぬに死にきれないと思った。
それにシンは生きていると確信していた。なぜならここにいないからだ。
私は現世に戻りたいと強く思った。
大勢の人たちが三途の川を渡っていくのが見えたが、私は絶対に渡らないと心に誓った。
そうして踏ん張っていると、黒ずくめの男が目の前に立っていた。
薄気味悪い男だが美しい男だった。
その美しさはシンと共通するものがあった。それでこの男も何らかの神なのだろうと私は思った。
男は強い念によって呼び出された根の国の者だと名乗った。
男は、私の願いと引き換えに私の魂が欲しいと話を持ち掛けてきた。
私は現世に戻りたいがそれで魂を取られてしまっては意味がないと男に訴えた。
シンの氷を砕きたいのだと男に告げた。
すると男は、ではそこまでが私の願いとすると言ってくれた。
この内容で契約をすれば、シンの氷が砕けるまでは現世に留まり続けることができると男は言った。
ただし、肉体には限界があるので、一つの肉体が滅びる前に新しい肉体を用意し、身体を入れ替える形で生きながられるようにしてやると約束しくれた。
肉体を入れ替えるための延命の儀の方法は別にまとめるのでそちらを参照されたし。
私はどうしたらシンの氷は解けるのか知っているのか男に聞いてみた。
「あの者が自らを封印したのは君とあの者の間に横たわる呪いのせいだ。氷を溶かしたいのであれば “真(まこと)” を口にすればよい」
男はそう言った。
“真” とは何かと尋ねると、自分で考えろ、でなければ意味がない…との返事が返って来た。
ここまで会話をしたところで、私は自分の布団の中で目を覚ました。
他にも話をしたかもしれないが忘れてしまった。
胸に受けたはずの傷はすっかりなくなっていた。
恐る恐る部屋を出て家臣どもの様子をみたが、普段と変わらないように見えた。
氷狼はどうなったのかと聞いてみると、誰も氷狼のことは知らないようだった。
頭がおかしくなったと思われてはまずいので、少しずつ情報を集めた結果、父は氷狼に喰われたのではなく山で狼に遭遇し襲われたとこになっていた。
それを苦に母が自死したのは変わりなかった。
人の記憶が書き替えられたのか、事実そのものが書き替えられたのか解らず私は焦った。
シンの存在自体がなかったことになっていてはまるで意味がないからだ。
私は慌ててシンが凍り付いている穴へと向かった。
穴の周りはまだ凍っていた。
私は氷を見て安堵し、そこでしばらく彼のために泣いた。
真のことを言えばいいのか…と思い出し、私はいくつかの想いをその場で述べた。
父を喰ったお前が憎い。
お前の父母の命を奪った償いがしたい。
償いがしたいというのはただの偽善だ。
私のことを恨んで殺したいのならそうしてほしい。
いや、本当は許してほしい。
私もシンのことはもう恨んでいない。
だが、どの言葉を投げても氷は解けることはなかった。
山の穴から戻って来て今、これを書いている。
何年かかってもいい。これから私は呪いを解く “真” を必ず見つけてみせる。
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ここまで読んでアヤメは一度ノートを閉じた。
いっぺんに受け入れるのには時間が必要そうだった。
「君は十六代目の拍森アヤメだ」
ノートからアヤメが顔を上げたのを見計らって黒服の男が言った。
「そこなんだけど、私にはこれまで普通の人間として生きてきた記憶があるんだけど」
「それはアヤメに変化を持たせるために四代前から導入した仕組みだ。全く同じ人間では同じ思考しかできない。それでは到底答えには辿りつけないと上層部に訴えて仕様を変えてもらったのだ。それに何百年もかかってしまった」
なんだかツッコミどころの多い話しになってきたが、アヤメはもう情報過多でお腹いっぱいになっていたために、それらを全てスルーした。
「この仕様変更には大変に効果が出ている。四回目の施行にして君はどのアヤメとも異なっている。異端だ。異端は答えに辿りつけるだろう」
「もしも答えがわかったらどうなるの? 犬神さまの氷が解けてすぐに私は魂を取られるの?」
「いいえ、私もそこまで非道ではない。犬神の封印が溶けた時点で延命の効果は破棄するが、そこから君の寿命までは魂を取らずに待ってあげよう」
なるほど。それならなるべく早く封印を解かないと、おばあちゃんになってからではまずい気がした。
これまで歴代のアヤメがたどり着けなかった答えに果たして自分は辿りつけるのだろうか?
「だいたいの概要はわかったかな。それでは第十六代 拍森アヤメに全ての記憶をさずけよう」
黒服の男が近寄って来てアヤメの頭を掴んだ。
それと同時にアヤメの脳に大量の記憶が流れ込んで来た。
それは長い長い物語だった。
アヤメと氷狼シンの千年に渡る物語だ。
・・・
・・・
目を覚ますとアヤメは書斎の椅子で眠っていたようだった。
横には黒服の男がじっとアヤメの顔を見ていた。
「どんな感じだ?」
アヤメが体を起こすと黒服の男が心配そうに言った。
「読ませる前にこれやったらよかったのでは…」
「初代の記憶が入らないことが多い。どうだ?」
アヤメは自分が最初から最後までアヤメであることを感じていた。
「ある。初代の記憶も生々しく覚えているぞ」
それを聞くと黒服の男は安心したように微笑んだ。
その微笑みが美しすぎてアヤメはくらくらした。
神とはこれほどに眩しい存在なのか。
アヤメは記憶の中のシンの姿を思い返した。
獣の罠にかかって情けない顔をしているシン。
熱にうなされて苦しそうなシン。
うまそうにアヤメの作ったものを食べているシン。
どのシンも愛おしく、アヤメはシンが恋しく思った。
アヤメは思わずあははと声を出して笑ってしまった。
黒服が怪訝な顔でこちらを見ていた。
「いろいろ難しく考えすぎた。解ったぞ、黒いの。行こう」
アヤメは言うと立ち上がった。
黒服の男は驚いた顔でアヤメを見返した。
アヤメは高ぶる気持ちを抑えきれず家を飛び出すと、拝殿裏の階段を駆け上がって犬神さまの祠へと急いだ。
あたりはうっすら明るくなり、まもなく夜が明けることを知らせていた。
体を動かすごとに、自分が初代アヤメの人格に近づいて行くのがわかった。
これまでの全てのアヤメも同時に存在しているのだが、初代の感覚が強かった。
だからこそ、解ることがあった。一点の迷いもなく解ることだった。
アヤメは松の木の下の祠に潜り込んで、一番奥の凍った塊に手を添えた。
そして中にいるであろうシンに語りかけた。優しい優しい声で語りかけた。
「シン、長い間待たせてしまった…千年もかかってしまった。こんなに明確で単純なことを解るまでに、私は千年もかかってしまったよ。殺し合いの果てに、いろいろなことを複雑に考えてしまって、私は思考の迷路に彷徨っていた。でもようやく解ったよ。私は、私は…私はお前が大好き。お前に会いたい。お前の傍にいたい。だから出て来い」
アヤメが言い終えると、ビシッと氷にひびが入った。
後ろで黒服の男がハッと息を飲むのが感じられた。
ビシッビシッと次々とひびがひろがり、ぐしゃっと氷の塊が崩れた。
崩れた中から人の形が出てきた。シンだった。
シンの本体はまだガチガチに凍っていた。
アヤメは少し不安に思って黒服を振り返った。
男はすっとアヤメの方に近寄ると耳元で囁いた。
「シンは目覚めるだろう。君はこの子と何をしてもかまわない。だけど最後には私が君の魂を貰っていくからね」
アヤメが頷くと、黒服の男はすっと消えた。
アヤメはシンに向き合うと、その頬に触れた。
額から頬にかけて傷があるのが凍っている上からもわかった。
アヤメが切りつけた傷だった。
その傷をアヤメは愛おしく指で触れた。
それからシンの冷たい唇に口づけをした。
すると、みるみるシンを固めている氷が解けていった。
・・・
・・・
どこか遠くから自分に語りかける声がした。
その声はずっと聞いて来た声だった。
シンはその声を聞きながら眠っていた。
心地よい眠り。何を言っているかわからないけど心地よい声。
その声が急に大きくなった。
はっきりと言葉が聞こえてきた。
≪私は、私は…私はお前が大好き。お前に会いたい。お前の傍にいたい。だから出て来い≫
アヤメが呼んでる?
シンは最後に見たアヤメの姿を思い出した。
胸を刺されて倒れたのではなかったか。
それでもアヤメの声がシンを呼んでいた。
心の中に温かみが広がった。
自ら作った氷が解けていくのが感じられた。
頬に触れるものがあった。
その指は優しくシンの頬を撫でていた。
それからシンは唇に触れるものを感じた。
ビリビリと痺れる感覚がして氷が一気に解けて行った。
自分に口づけているのがアヤメだとすぐに解った。彼女の香りがしたのだ。
生きていた!! アヤメは生きていた!!
シンは動くようになった腕を彼女の身体に回して長く長く口づけた。
それから顔がよく見たいと思い唇を離すと、彼女の顔を両手で挟んで覗き込んだ。
そこには泣いているアヤメの顔があった。何だかちょっと違う気もしたが、アヤメであることは明確だった。
「アヤメ…生きている!」
シンは言い、再び彼女を抱きしめた。
彼女が愛おしくて爆発しそうだった。
氷の封印が溶けると同時に彼の感情も解き放たれたようだった。
アヤメに手を引かれ穴から出ると、シンは周りの様変わりした風景に度肝を抜かれた。
山の向こうに朝焼けが広がり、遠くの街までよく見えた。
アヤメが千年という長い月日が経ったことを教えてくれたが、シンにはそれがどれほどの長さなのか見当もつかなかった。
しかし、このまるで別世界の風景を見れば途方もない時が流れたことを察することができた。
シンはアヤメと共に下の神社で暮すことになった。
神社はシンも見たことがあったが、その隣の彼らが暮らしている家の中にはどういう仕組みなのか全くわらない未知のものがたくさんあった。
アヤメはここでシンに読み書きや生活に必要なあれこれを教えてくれた。
アヤメと一緒に暮らすのはこの世の極楽と思えるほどに幸せだった。
時折、氷狼となって人間を喰っていたころの記憶を夢に見て苦しんだが、そのたびにアヤメがそっと寄り添って支えてくれた。
自分の行いは決して許されるものではなく、いずれは地獄に落ちるのだとシンは思い込んでいたが、アヤメにはそもそもお前は神なのだ、地獄には行かない、と言われた。
ある程度の社会性を身に着けたタイミングで、シンは少しづつ働き始めた。
最初は自宅の神社でお守りやおみくじ、御朱印などを販売する仕事をした。
容姿の美しいシンはたちまち評判となり、遠方からも参拝者が来るようになった。
シンは自分がどれほど美しいのかまるで自覚がなく無防備だったので、そこがまた人気となった。
仕事に慣れて来ると、アヤメはシンに介護の経験をさせた。
戸籍のないシンは職業として介護を行うことは難しかったので、ボランティアという形で近所のじいちゃんばあちゃんの世話をするようにした。
高齢化の進む地域だったので、やれる事はたくさんあった。
あれほど人間を憎んでいたシンであるが、多くの人と触れ合うことで、この世には様々な人がいて、一緒くたに憎むなどはバカげたことだと悟るに至った。
それでまた罪の意識にさいなまれるのだが、アヤメがすぐに気が付いて話し相手になってくれるのだった。
シンとアヤメは夫婦として過ごしたが子供はできなかった。
それでも幸せな日々を過ごした。
やがて月日は巡り、アヤメの元にも老いがやってきた。
これまでも薄々感づいてはいたが、シンはアヤメが自分よりも先に老いて死んでいくのだと知った。
それを想うと胸が締め付けられるような思いがした。
アヤメがどんどん年老いていくのに、自分だけ若造のままであるのが絶望的に寂しかった。
一度、アヤメに似合う男に変装しようとかつらなどつけてみたが、アヤメに怒られて辞めた。
「千年も生きてきたのに、なぜ?」
ある日、シンはアヤメに聞いた。これまで何となく聞けなかったことだった。
「私は冥界のある神と契約したんだ。お前を取り戻すまでは命を繋げるって。私はお前を取り戻した。だから不死はおしまい。私は人並みに老いて死んでいく。それが自然の摂理なんだよ」
シンは介護の手伝いをすることで、たくさんの人が老いて死んでいくのを幾度も見てきたが、それがアヤメとなるとまるで受け入れがたいことだった。
できればこの先も永遠に、彼女と共に生きていきたかった。
だけれども、シンにはどうすることもできなかった。
シンはアヤメの人生を最後までしっかり見届けるのだと心に誓った。
やがてアヤメは足腰が立たなくなり車いすの生活となった。
神社には階段も多いのでシンはアヤメをおぶって移動することもあった。
家に籠らずになるべく外に出るようにした。
デイサービスも積極的に利用し、なるべく他人と関わる時間を作った。
しかし、だんだんと人に会うのを嫌がるようになった。
物を取られるような気がするのだと彼女は言った。
アヤメは一日の大半を眠って過ごすようになった。
起きている間はなるべく側にいて若いころと同じように彼女に甘えたりした。
時々アヤメはシンが誰なのか解っていないようだった。
「どなたか存じませんがご親切にどうも」と彼女は何度も言った。
これはシンが近所の老人たちにいつも言われていた言葉だった。
食事も自力でできなくなってきて、シンは介護食が作れるようになった。
トロトロに煮た野菜やおかゆを彼女に食べさせた。
そんな時、アヤメがお粥を食べさせてくれた時のことを思い出すのだった。
アヤメの介護をシンが一人でやっていると知ると、近所の人が時々様子を見に手伝いに来てくれた。
「うちのひいおじいちゃんがあなたのお父さんの世話になったのよ」などと言われ、シンが歳を取らない化物であることはバレていないことが判明した。
そんな様子をアヤメはニコニコしながら見ていた。
もしかしたらシンのことを本当に孫か何かかと思っている可能性もあった。
こうしてある年の元旦。アヤメは眠るように息を引き取った。
シンはアヤメが生き返るのではないかと思って待っていたが彼女は死んだままだった。
彼女の魂はもう黒い奴が持って行ってしまったことをシンは知らなかった。
葬儀は近所の斎場にて神式で行われ、アヤメはあっとゆうまにお骨になって帰って来た。
シンはアヤメのお骨を抱きしめて一晩泣き続けた。
泣きつかれてふと目をあけると、シンはいつのまにか古巣の穴の中にいた。
いつのまにここに来たのかわからなかった。
腕の中にはアヤメの遺骨があった。
シンは自分がまた氷始めているのを感じていた。
もう起してくれる人はいない。もしかしたら自分はこのまま眠りながら死ぬかもしれない。
それでもいいやと思った。
シンはもう充分に幸せな人生を経験した。
アヤメのいない世界でどう生きて行けというのか。
バシッビキッとシンの体の四方へ氷の柱が伸びて、彼は再び固い氷の中にその身を封印した。
もう二度と目覚めぬ覚悟のままに。
・・・
そんな様子を黒い奴は全て見ていた。
凍り固まったシンを見下ろし、こいつの魂もどうにかしてやろうか…などと考えていた。
アヤメの魂が千年も見守っていた奴だと思うと少しは情が湧いてくるのだった。
だけれども、それはまた別の、別の機会に話すとしよう。
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この物語はnoteで開催された俳句・短歌・川柳大会で投稿された中からピックアップした作品より発想を得て作りました。
元となった俳句や歌も含めてぜひあとがきもお読みください。
https://note.com/chiyo_bb/n/n05bed6763fca
睡狼 大橋 知誉 @chiyo_bb
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