極東に住む死神の話 8

 その晩、少女の意識が混濁へと落ちた。ひっきりなしに人々が少女の部屋を出入りしている。少年はその部屋へもはや入ることもできない。

 少女の親らしい女が手を組み祈りを捧げている。

 自分の寿命を分けてやってもいいから、彼女を生きながらえさせてほしいと。

 神が人の願いを聞くことはない。それは誰しもがわかっていることだった。


 そこで、少年は思い出す。

 定命を覆し命を存える魔法、「命の天秤」を操る魔女のことを。


✻✻✻✻✻


 明日をも知れぬ彼女の命を、どうか繋いでほしいという一心で、少年はここまでやってきたのだと、彼は話を締めくくった。

 少年は席から立ち上がると、魔女の前に膝をつく。

「僕に話せることは、これで全てです。お願いします。お嬢様をお救いください」

 黒衣のドレスの魔女は、眼前で頼み込む少年を冷ややかな目で見ている。思い沈黙の中、暖炉の炎が小さく爆ぜる。

 そのうち、優雅な手付きで魔女は少年へ指を向けた。赤い爪紅の細い指が少年を捉える。

「お前の願いで、その少女にこの後何があろうとも、その意志は変わらないか?」

 静かな警告だった。彼女はどうやら、断るつもりはないらしい。

 魔女の言葉に、少年はたしかにしっかりと頷いた。

「僕の願いが、あの方の未来につながるなら」

 少年を捉えた指が宙に陣を描いていく。輝くそれから現れたのは、黄金の天秤だ。

 なにかの定命を覆すならば、代償を支払わねばならない。

 定命の代償に足るものなど、同じ命以外にありはしない。

「よろしい。――なれば、おまえの望みは叶えよう」


✻✻✻✻✻


 「命の天秤」を操る代償は、依頼をしてきたモノの定命であると、死神は学者へ告げた。

 寄宿舎を出て、どれほど歩いたかそろそろ分からなくなってきた頃だった。街の中心部からはどんどん離れて、人が寄り付かない路地裏を歩き続けた。

 疲労はあれど、彼の語る話を聞いていれば苦痛には思わなかった。

 その目で実際に見たという話は、これまで一度も聞いたことがなかった。

 魔女は人間の前には姿を見せないとされる。魔術を使うことなどもってのほかだ。

「彼女は思うままに魔術を使ったけど、人間の頼みを聞いて天秤を操った、なんて話は聞かない。このときもそうだった」

 どういうことか、学者が死神を見る。事もなげに死神は学者の疑問に答える。

「彼は人間じゃなかったよ。家に棲んで世話を焼く妖精だった。きみ達の国では……ブラウニーなんて呼んだっけ?」

 ブラウニーとは、館の世話をする妖精の総称である。人間に見つからぬように館の家事掃除などを行うモノとされていた。

 たとえ、彼女の命が存えたとしても、少年が傍へ寄ることは許されない。

 いくつもの禁忌を超えて、少年は少女の命を願ったのだろう。


 学者は事実を聞いた上で、当然の疑問を抱く。

 妖精郷の魔女は、命の天秤を操る代償として、その者の命を求めるという。

 妖精が支払った命の代償を受けた少女は、はたしてどうなったのか。

 死神にそれを問いかけると、「答えは見たほうが早いだろう?」と返された。

 その笑みは、どこか少しだけ居心地の悪さを感じるものだった。


 煙管の煙は、町外れに忘れ去られた鉄柵の嵌った井戸の中へと二人をいざなっていた。コツコツと死神がその鉄柵を叩けば、開かないはずの鉄柵がひとりでに開く。

 中を覗けば、そこは漆黒の闇が口を開けている。このあたりは人も住まず工場もない場所で、井戸も枯れているはずだった。

「……ここに、入るんですか?」

「きみが通れる場所はここくらいしかないらしくてね。――まぁ、先に行ってるよ」

 死神は学者が止める間もなく、ひらりと井戸の中へと身を躍らせる。落ち行く音も、底へ着いた音もしない。

 ひとり取り残された学者は、一応周囲をぐるりと見回した。「目眩ましはしておいたよ」と死神は言っていたが、それでも周囲の目がないか、少し気になった。

 ごくり、とつばを飲み、学者は死神に倣って井戸へと飛び込んだ。

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