極東に住む死神の話 5
「一度、礼を言いたかったの」
微笑みとともにかけられた言葉に、少年は自分の立場も忘れてぶんぶんと頭を振った。
「……恐れ多いことにございます」
少年も己の目的のためにこの館で仕事をしているのだ。館の主一家のひとりに感謝されることはなにひとつない。
そもそも、声をかけられること自体、常識では考えられぬことであった。
少女の眉が少し困ったように下がった。
「そんなことはないわ。いつも来てくれるでしょう? 私が眠っている時に」
「……はい」
彼女が起きている間は、少女以外の誰かが部屋にいることが多い。みだりに立ち入ることは許されない。本来なら誰にも見つかってはいけない身の上だったが、今はそれを言っても仕方がない。
眠りが浅いときに、時折少年の姿を見ていたのだと少女は言う。一度、話をしてみたかったと。
「おまえ、私と同じくらいの歳でしょう? 憧れていたの。同じくらいの歳の子と、話をするの」
軽く少女が咳き込む。駆け寄ろうとしたが、伸ばした自分の手が汚れていて所作が止まる。汚れた手で触ればきっともっと悪いことになるだろう。
ごめんなさいね、と投げられる声はかすれ小さくなっていた。
「……好きに、呼んでください。お嬢様」
少年は名乗る名など持ち合わせておらず、彼女を呼ぶ名もまた分からない。これ以外に、答える方法はなかった。
少女は不思議そうに少年を見つめていた。ただ、なおも言い募ることはなく、代わりに少し考え込むように視線を上げた。
「……フェロ。フェロはどう?」
古い書物に書かれていたというその言葉を、少女は少年に与えた。
名を与えられる機会など、これまで一度もなかった少年はどう答えればいいのか、少し迷ったように彼女を見つめた。けれど、その意は伝わらない。気に入らなかったかしら、と少女は少し首を傾げる。
少年はぶんぶんと頭を振った。名に対して良いも悪いも、好きも嫌いも持ち合わせていない。ただ少年の抱く感情はひとつ、感謝に包まれた憧憬だけだ。
「ありがとうございます。とても恐れ多いことです――お嬢様」
「リディよ。リディと呼んでちょうだい」
この名前は気に入っているの、と少女ははにかんだ。少年は自身の頬が紅潮するのを感じ、どこか気恥ずかしく思った。
少年はお願い、という言葉に弱かった。どうして断ることができるだろう。少年はコクリと頷いていた。
そこで、少女が再び咳き込んだ。先程よりも咳はひどく、呼吸も荒い。少年はびくりと体を震わせて、それ以上近寄ることができない。
少女も彼が寄ってこないことを理解しているらしく、身体をくの字に折り咳をし続けていた。
そのうち、ようやく呼吸が整ってから、少女はゆっくりと尋ねた。
「また、明日も。来てくれる、かしら?」
「――はい。あなたが良いと、言ってくださるなら」
「当たり前よ。――また来てね」
外の廊下を、人が歩み寄ってくる気配がする。使用人か主の一家の誰かか、少年にはわからない。それでも、このまま部屋に残っていることはできなかった。一度少女に頭を下げて、手早く部屋を後にする。
人目を避けて館の中を歩む。その中でも、思い返すのは先程までの出来事だ。
初めて聞いた少女の声はどんな砂糖菓子よりも甘く、上等な布地よりも柔らかく響いた。
その声が、ずっと耳から離れなかった。
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