妖精郷の魔女を調べる学者の話 10

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 どこかぼやけた頭で、はたはたと布地の揺れる音を聞いていた。そのうち、誰かの手を握っていることを思い出す。

「――大丈夫かい?」

 その声が聞こえる頃には、ようやく視界も明瞭になっていた。

 うず高く重ねられた本の山に、資料の束が散乱するそこは学者の寄宿舎だった。ゆっくりと、ぼやけた意識を目覚めさせるように周囲を見回す。

 すごい部屋だねぇ、と隣に立つ死神はケラケラと笑いながら、ようやく学者の手を離した。

 勝手にお邪魔してごめんね、と死神は悪びれもせずにのたまった。ただ、気まぐれに彼の家へやってきたわけではない、とも言う。

 死神だけならばいざしらず、魔術の心得のない学者を連れていては、魔女の館まで直接向かうことはできない。いくらかの手順を踏む必要があるのだと死神は告げた。

 そのためにはまず街に出なければならないそうだ。なるべく人間の多くない寂れたところが好ましいという。

「そういうとこ、よく知ってそうだからさ」

 田舎臭いといわれているのと同義のようにも思えたが、実際賑やかしいところは苦手だった。

 外へ出る前に、死神は学者へ着替えるよう告げた。

「着替え……ですか?」

「動きやすい格好の方がいいと思うな。きみ、運動とかダメそうだから。途中でヘバッても僕は運んでいかないよ」

 死神はそう言い残して、先に部屋を出てしまう。学者は少し呆然と死神の背中を見ていたが、我に返って堅苦しい式典服を脱ぎ捨てた。


 学者の部屋は寄宿舎の二階の一室である。扉を開けば、外廊下で死神は街並みを眺めていた。

 背の低い家々の煙突から立ち上る煙が、空を蒸気色に染めていた。細い路地を人々が行きかい、ごみごみとした喧騒が街を彩る。製鉄工場の近いこの寄宿舎では、いつも歯車や蒸気の音が鳴り響いていた。労働階級の人々が身を寄せ合って暮らす地区だ。

 学者が出てきたことを認めると、死神は興味深そうにあたりを見回しながら、足取り軽く歩き始めた。

 異国の装いで町中を歩けばさぞ目立つのでは、と学者は心配したが、すれ違う人々は死神を気に留める素振りも見せない。

「この街を歩いたことが?」

「いや、初めてだよ。それでも、この国は彼女のお膝元だ。『道』くらいは探せるよ」

 死神は軽く煙管をふかした。蒸気とは質の違う煙がふわりと舞う。そのまま煙管の煙はゆるゆると流れ始めた。それをたどるように死神は歩いていく。学者はそれを追いかけた。


「気高く美しいひとだった」

 街の中心部からはどんどん離れていきながら、死神は話し始めた。

 故人のことを語り偲ぶのが、死神の住む国の「葬儀」だと言う。まだ彼女の館までは時間も距離もかかるからと、死神は特段気負う素振りも見せずに語りだした。

「未来を見る力はなかっただろうけれど、賢しい彼女はある時気づいたんだろう。自分の「魔法」は、人を歪め世の理を壊すものだと」

 妖精郷の魔女の「魔術」 それは定命を覆す力。すべてのモノは、定められた命を持って生まれてくる。それは人間に限った話ではない。

 けれど、己の定命を恨み呪い、さらなる命をと望むのは人間ばかりであったと、彼女は語っていたらしい。

「命の天秤を操る場面を、見たことが?」

「あるよ。僕でも見えるほど、彼女の魔術は美しく強かったから」

 これから「定命を覆した者」に会うのなら、その話を先にしておこうか。

 死神はゆっくりと、古い昔話を始めた。

 妖精郷の魔女との邂逅と、彼女の魔術の話を。

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