第5話

「まあ、状況は大体わかったわ。ところで紺右衛門は?」

「あれ、そういえば……」

 さっきまでソファーで本を読んでいたはずだが今は影も形もない。昔からお姉ちゃんのことが苦手だったようなので、訪ねてきたのを察知するなりどこかに逃げたのだろう。

「まったく、昔から逃げ足だけは眷属で一番だわ」

「確かに…」

 出ていく気配すら感じなかった。挨拶ぐらいはしていけばいいのに。

「まったく、私が悪意ある侵入者だったらどうするつもりだったのかしら?」

「いや、お姉ちゃんは侵入者じゃないでしょ」

 私が言うと、お姉ちゃんは鼻で笑った。

「ふふん、あなたのそういうところ、大好きよ」

「え、うん……」

 なんか言葉とは裏腹に怒っている気がする。

 お姉ちゃんは緑茶を飲み干すと立ち上がった。

「さて、もう帰るわ」

「え、そうなの?ていうか何しに来たの?」

 お姉ちゃんはにっこりとほほ笑んだ。

「あなた、このビルの結界だけど、あまり良くないわ。私が手直ししてあげましょうか?」

「え?そうかな。そんなに悪くはないと思うけど……」

 このビルの結界は紺右衛門が仕掛けてくれたものだ。まあ、結界術が得意なお姉ちゃんの術式には劣るかもしれないが、今のところ不具合は無い。しかし、私の言葉は聞かずにお姉ちゃんは「右近、左近」と眷属の二人を呼んだ。

「あれを出してちょうだい」

 右近と左近がどこからともなく小さ目のアタッシュケースを取り出した。開くと中には美しい陶器の器や神棚などに飾る道具が納められていた。

「実はあなたのことが心配だったの。お母さまはほっとけっていうけど、あなたは私の妹だもの」

 お姉ちゃんは私の手を握る。

「だから変な虫が寄り付かないように結界だけでも強化してあげようと思って今日は来たの」

「お姉ちゃん…………」

 そんなに私のことを心配してくれていたのだろうか。だとしたらまあまあ嬉しい。

 結局お姉ちゃんは一通りの結界を張りなおして帰っていった。


 ◆◇◆


 当時現場にいなかった紺右衛門にその時の事を話すと紺右衛門は渋い顔をした。

「うーん、残念じゃが、それがきっかけと見て間違いないじゃろうな………」

「やっぱりかー」

 まあ、お姉ちゃんがそんなに優しいことをいうのは違和感があった。弱者は蹴落とされて当然と考えている人だと私は思っている。

「ということは、私を弱者として蹴落としに来たか」

「仙狐の家はどうして代々こうも家族仲が悪いんじゃ……」

 紺右衛門が悲しそうに言う。彼は遥か昔から仙狐家につかえる眷属だ。ゆえに色々と見てきているのだろう。

「別に仲は悪くないよ。ただ、利害が一致しなかっただけ」

 私がそう言うと紺右衛門は苦い顔をしたが何も言わなかった。

「とりあえず結界は張りなおして、それで当分は持つかなぁ」

 そう呟いた時だった。


 


 反射的に音のする方を見ると、壊れた黒電話が鳴っていた。

 ぞわりとする感覚。しまった、と思った。ビルの結界はまだ張りなおしていない。

 紺右衛門の方を見ると慌てた様子でこちらに手を伸ばしている。私も手を伸ばそうとするが間に合わない。お互いの手が触れ合う直前、視界が揺れた。頭の上から墨汁を被ったかのように世界が塗りつぶされていく。辺りが暗闇に包まれて自分の手すら見えなくなる。だが、今度は卵の殻が割れるかのように暗闇に無数のひび割れが走り、それが割れるとそこは見覚えのない草原だった。

 辺りは街灯もなく街の明かりもない。空を見上げても星すら見えない。ただただ暗い。そんな草原の真ん中にポツンと公衆電話ボックスが置かれていて、蛍光灯の文明的な明かりがその周囲をぼんやりと照らしていた。

 明らかに異常だ。普通こんな場所に電話ボックスは無い。

 どうやら私は結界に閉じ込められたらしい。結界とは単に防御したり隔離する術式ではない。常世とこよ(黄泉の国)と現世うつしよという異なる世界をものでもある。常世と接続された空間は現世から切り離されて隔離される。それが真の結界である。私がビルに施した結界は、外部からの干渉を遮断するためだったから常世の影響をあまり受けないようにしていたが、これは違う。ほとんど常世に取り込まれたといっても過言ではない。


「へぇ、やってくれるじゃない………」


 





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