第2話

「……い………も…おい!玉藻たまも!起きろ!」

 紺右衛門こんえもんの声が耳元で急に聞こえて驚いた。気づくとそこは私の事務所が入っている雑居ビルの屋上で、私は胸の高さほどのフェンスをよじ登ろうとしていた。上半身は既に空中にあり、右手を紺右衛門が掴んでくれなければ落ちていただろう。

「…!!」

 血の気が引いて体が震える。危ないところだった。この高さではまず助からない。

「あ、ありがとう」

 フェンスから降りて紺右衛門を見ると、肩で息をしていた。少し長めの白髪を後ろでまとめた髪型も少し乱れている。彼も相当慌てて駆けつけてくれたのだろう。私が紺右衛門にお礼をいうと、紺右衛門はやれやれとため息をついた。

「……まったく、あの程度の呪術にやられるとは情けない……」

「う、ぐぬぅ」

 いきなり小言を言われてカチンときたが、反論できなかった。さっきの電話は一種の呪術だ。今ならわかるが、おそらく最初に電話が鳴り始めた時からすでに私は術にとらわれており、正常な判断が出来なくなっていた。

「せっかく気持ちよく酒を飲んでおったのに、急にリンクが切れたから何事かと思えば、部屋はめちゃめちゃじゃし、お主はおらんし。慌てて上まで来てみれば自死寸前。仙狐家の巫女たるもの、例え家を出ても誇りは失うべからずじゃ」

 そう、私は仙狐家の次女。巫女の資格をもつもの。でもそれが嫌で逃げ出した。逃げ出した私に唯一ついてきてくれたのが紺右衛門だった。

 紺右衛門は一族に使える眷属の一人だ。外見は身長190cmを超える長身に白髪を後ろで縛った初老の男性。痩せ型で紺色のスーツをよく着ている。どこかの大企業の会長と言われても信じてしまうほど整った身なりと優雅な仕草で近所のマダム達に大人気。だが、その正体は稲荷神の力の一部を受け継ぐ白狐である。

 私と紺右衛門は主と眷属という関係で結ばれていて、かなり深いところで同調リンクしている。私から供給されるエーテルで紺右衛門は存在できているし、紺右衛門はリンクがある限りどこからでも一瞬で私のもとに現れる。つまり、リンクが切れるというのは私に何かあった時か、今回みたいに外敵から強制的に遮断された時。どちらにせよ一大事だ。

「でも、こんな時間まで飲んでるのは紺右衛門もおかしいでしょ。何時だと思っているのよ」

 私がそう反論すると紺右衛門は少したじろいだ。

「…まあ、うん、ちょっとなじみのやつと盛り上がってしまってのう……」

 紺右衛門はかなりの酒好きだ。酒の中でも日本酒を愛しており毎日飲み歩いている。「稲荷神は豊穣の神だから仕方がない」と本人は言っているが関係あるのだろうか?

 最近は何処で飲んでいるのか知らないが、フラッと出て行ったと思えば、翌日の朝帰ってくるなんてことが続いていた。

「あなたも私も、少し油断が過ぎたってことね……」

「…うむぅ」

 紺右衛門も反論はできなかった。

「………とりあえず戻るぞ。ここは冷えるわい」

 二人してしばらく考え込んでいたが、紺右衛門がそういったので、私たちは事務所に戻ることにした。紺右衛門は二の腕のあたりをさすりながら先に階段を下りて行った。私も後を追うが、階段を下りる直前に振り返る。誰かに見られている気がしたからだ。だが、もちろん屋上には誰もいない。

「気のせいか……」

 私は屋上に続くドアを施錠して事務所に戻った。

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