第2話 笑わない王子様

 四限の授業が終わり、昼休みになった。


 朝は澄衣さん絡みで一大事だったが、それ以降は特段何もなくて。普通に授業を受け、普通にお昼休み。購買や中庭を目指す生徒がまばらに教室から出て行くなか、私はいつも通り自席でお弁当を広げた。


 その最中、背中をポンと叩かれる。

 振り向くと、バレー部のウィンドブレーカーを着る、見慣れたポニーテールがそこにいた。


「おいーっす」

友紀ゆうきじゃん」


 五代ごだい友紀ゆうきは私の数少ない友達だ。


 すらりとした細身に運動部らしく快活で目鼻立ちのしっかりとしている女の子。強豪と言われる百合女バレー部で、次期部長と目されるガチのスポーツ少女──というかアスリート。

 彼女とは一年のときからの長い付き合いで、私にとってはこの学校で初めてできた友人だ。この春のクラス替えで離れ離れになってしまったものの、こうやって甲斐甲斐しく私の教室まで来てくれている。


「あっ、その本。また今日も資格の勉強してるの?」


 彼女はここへ来るなり机の上に積んであるテキストを指差す。


「読むだけだけど、一応ね」

「スタイリスト目指すってのも大変だねぇ」


 私はまぁね、と適当な返事を返した。

 友紀はよく私のところに来るのだけれど、その度に机の上に積んであるテキストを目にしている。だから、彼女は私が本気でスタイリストを目指していると思っている節があり、私もこの学園で唯一彼女にだけはその調子に合わせている。

 別に今は微塵も思っていない。でも、昔は真剣にそう思っていたこともあるから、まるっきり嘘ではない。


 という、謎の免罪符いいわけを掲げ、私は彼女と付き合っている。


「そういえばさ」

「何?」


 友紀はおにぎりを食べながら話しかけてきた。


「あんた、やらかしたんだって?」

「は?」


 状況が飲み込めない私に構わず、友紀はソフトボール大の特大爆弾おにぎりにかぶりついている。おおよそ女子高生が友達と話しながら片手で持って食べる量ではないが、ガチ運動部にはそういうの関係ないらしい。


 いやそれよりもだ。やらかした、なんて言われても心当たりが──ないことはない。


「まさかの無自覚。“俺、なんかやっちゃいましたか?”ってやつー」

「あ、いや。それって、まさか……」

「ラギちゃんのこと」


 私の予感は当たっていた。

 だって、友紀が言うラギちゃんとは澄衣さんのことなんだから。澄衣すめらぎでラギちゃん。運動部の彼女らしい明るいネーミングである。


「でも意外だなぁ。清華がラギちゃんに手を出すなんて」

「別に手を出したわけでは。ってか、そもそも転びそうなところを助けてもらっただけ!」

「まぁ、そんなとこじゃないかとは思ったよ。とはいえ、皆はそう思ってない」

「どういうこと?」

「私が話を聞いた段階じゃ、清華がラギちゃんの気を引くためにわざと転んだってことになってた」

「わざとぉ……?」


 何がどうしてそうなった。

 澄衣さんの気を引きたいだなんて、これっぽっちも思ったことないのに。


「清華にとってはただのハプニングだったのかもしれないけど、周りの人には違ったってこと。だって、ラギちゃんに抱かれたのは清華が初めてなんだから。羨ましさと嫉妬でいろいろあると思うよ」


 それが本当だとすれば実に迷惑な話だ。あんなところで転んだばかりに、平穏な高校生活に暗雲が立ち込めたのだから。

 でも、少し不思議に思う。


「初めて抱かれたのは私って、それはどういうこと?」


 澄衣さんの王子様的な雰囲気からすれば、この手の振る舞いは珍しくなさそうな気はする。勝手なイメージだけど。


「あー、それはねぇ……」


 友紀は少しだけ表情を硬くする。私の質問にどう答えるか、慎重に言葉を探しているような感じで。そして、座っている椅子を私の側まで寄せて、声を顰めて囁いた。


「実はラギちゃんって、周りと距離があるんだ」

「そうなの?」

「あれ、見てみなよ」


 そう言って、友紀は中庭を指差す。その先にはベンチに腰掛け、取り巻きの女の子たちに囲まれながらお昼を食べている澄衣さんがいた。

 しかし、その様子は朝の様子とまるで変わりなく、友紀が言うような周囲との距離みたいなものは特に感じられない。


「そんなことなくない?」

「いやいや。ラギちゃんの周り、よく見てみて。微妙に隙間が空いてるから」


 言われて連中を見返す。すると、確かに周囲は澄衣さんにべったりというわけでもない。彼女の正面、そして彼女の座る両脇にも不自然に半身はんみ分ほどの隙間が空いている。


「本当だ」

「ラギちゃんの周囲の子たちは彼女をアイドルみたいに扱ってる節があってね。ファンであるがゆえに、自分なんかが近づき過ぎちゃいけないと思ってる。その一方、仲間うちでは誰かが抜け駆けしないようガチガチに牽制し合ってる」

「じゃあ、おさわりなんか」

「もってのほかだね」


 薄々感じていたことではあるが、どうやら私はとんでもないところに突っ込んでしまったらしい。言うなれば停戦協定中の国境線に観光客が足を踏み入れるようなもので、当事者からすれば射殺もやむなし。知らなかったじゃ済まされない話というわけだ。


「でも、ラギちゃんもラギちゃんでその状況を理解しててさ。誰か一人が言われなき中傷の的にならないよう、誰に対しても同じように王子様として振る舞い、誰に対しても絶対に踏み込まない」


 だから、澄衣さんと周囲には物理的にも、精神的にも距離があると友紀は言う。


「まぁ、不可抗力的に手を取ったり、支えたり、ってのはあるっちゃあるけど。でも、そんなガッツリ抱き締めるってのはまずないよ」


 ──じゃあ、どうして。


 澄衣さんは私を抱き締めるように助けたんだろうか。彼女が他人に対してキープしていたはずの一線を、いとも簡単に飛び越えて。


 本人に直接尋ねてみたい。

 けど、


「とにかく、これから気をつけなよ。あんまり不用意にラギちゃんと絡むと、ファンから何されるか分からないしね。なんせ皆、“お嬢様”だから」


 友紀のその一言に尽きる。

 既に根も歯もない噂を流されているんだ。これ以上、周囲の感情を逆撫でしようものならいつ刺されてもおかしくないと思う。

 そこまでいくのは大袈裟だとしても、閉じた環境で育ったお嬢様は大抵腹黒だから、きっと陰湿な方法で嫌がらせされるんだろう。


「そうね」


 これからのことを考えると、気分がどんよりする。元々明るくはなかった学園生活だけど、王子様のとんだ気まぐれで更に暗い方へと流れてゆく。


「まぁ、なるようになるしかないか」


 こうなってしまった以上、流れに抗って生きてもしょうがない。波風立てず、流されるままやり過ごすしかない。それが一番いい。


「でも、友紀って澄衣さんのことよく知ってんのね。接点無さそうだったから、なんか意外かも」

「いやいや、私も内進生だし?」


 そういえばそうだった。

 一応、友紀も内進組のお嬢様育ちである。とはいえ、バリバリの運動部で、それにこうして外部組の私とも分け隔てなく接してくれるから忘れそうになるけど。


「ラギちゃんって、昔から成績トップクラスだし、帰宅部のくせして私のガチスパイク平気で返してくるし、背は高いし、顔はいいし。何度うちのバレー部に欲しいと思ったことか」

「澄衣さんって何者なん、マジで……」

「完璧超人の王子様かな」


 でもね、と友紀は付け加えた。


「笑ってるとこ、一度も見たことないんだ」

「そう? 見た感じはいつも笑顔じゃない?」

「あれは、はにかんでるだけ。私が言いたいのは、なんていうか、その……。腹の底からゲラゲラ笑ったり、嬉しいとか楽しいとかそういう感情を表面かおに出すような、そういう笑い方を見たことがないってこと」


 澄衣さんは心から笑ってない。

 彼女にまとわりついていた無機質な感じの正体がなんとなく分かった気がした。


「よう知ってるね」

「まぁ、ここ入る前からラギちゃんとは幼馴染っていうか、それなりだから」


 関わっている歴が長いだけあって、確かに友紀は澄衣さんのことをよく知っている。


「ねぇ」


 昔の澄衣さんを知っている彼女に一つ聞いてみる。


「澄衣さんって、昔からずっとああなの?」

「ああって、どういう」

「髪型とか、振る舞いとか」

「ラギちゃんの髪の毛は昔から割と短かったかな。それにみんなに優しいのもずっとだしさ」

「そう、なんだ」

「あっ……でも! ここ入ってからは髪の毛短くなったよ」


 それに、と友紀は付け加えた。


「笑わなくなったのも」

「そうなの?」

「王子様って言われるようになり、周りに女の子が集まるようになって。いつでも人気の渦の中にいるんだけど、ただそこではにかんでるだけって感じ」


 友紀は中庭に目をやった。その視線の先には、澄衣さん。


「私はさ、ラギちゃんは他にもっとやりたいことあるんじゃないかって思うんだよね」

「やりたいこと……」


 友紀は遠くを見つめるような目をしていた。その眼差しは優しいけど、どこか寂しげで。


「でも、教えてくれないんだよ? やりたいことないのって聞くといっつも、“君といられればそれでいい”なんて言う」

「わーお……」


 想像の数倍上をゆく台詞にびっくり。普通だったら間違いなく素面じゃ言えないだろう── そういう役にでもなりきってなければ。


「私はそんなのを聞きたいんじゃないってのに!」


 聞いているだけでも、澄衣さんは友紀の質問を明らかにはぐらかしていると分かる。友紀の言うことももっともだ。


 しかし、澄衣さんは他人の対応が上手い。

 自分に踏み込んできた友紀にキザな対応をして、彼女を上手に遠ざけるという、かなり高度な処世術。それは思うに、一朝一夕にできることじゃない。


 笑わない王子様。誰も踏み込ませず、誰にも踏み込まず。したいことも他人に見せない、ただの偶像アイドル

 多分、ずっと、女の子の前ではそうあり続けてきたんだろう。


 それなのに、そんな奴がどうして転ばんとする私を思い切り抱きしめた。

 澄衣さんなら、他にいくらでも対応できただろう。


 やっぱり、少し。ほんの少しだけ。

 気にならないといえば嘘になる。


 彼女とは関わりたくないと決めたのに。

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