矛盾した世界を幸福に……(6)

 そっと目を開ける。そこは僕と歩の世界だった。

 曇天の空に満天の星という矛盾があった。

 月も翳る厚い雲の下に無数の光……それは何度も二人で見上げた星空だ。

 遥か向こうの水平線を走っている桃色の桜並木があった。

 僕の物語が及ぶ範囲を示す、出会いの記憶。

 そして古ぼけたベンチがあった。

 いつも変わらず、僕達を迎えてくれた……世界の中心はここだった。

 この世界には僕と歩の物語が全て揃えてある……さあ、否定出来るならばやってみせろ。

 僕は遠くの敵を見据えた。しかし相手は僕を睨み殺そうとしているだけのようだ。

 ――ならば、勝機はある。

 とは言え、敵は僕を許さないだろう。手加減などせずに殺そうとするはずだ。対する僕は重傷で戦闘はおろか、歩くことさえままならない。一撃で死ぬだろう。

「……うん、上等だ」

 迷いなどあるはずがなかった。

 ――呪いなんて、吹き飛ばしてやる。

 敵が駆けた。すでに呪いを口にしているらしく、速い。僕が歩くには無限の距離であってもこの速度ならば三十秒も経てば埋まるだろう。

 ――僕は少女を思い出す。

 まずは、出会った瞬間。そう、桜だった。あの時の物語と光景が、僕の根幹にあるんだと信じたい。

 呼応して、一つ。僕の隣に星が落ちてきた。腰の高さで止まった眩い存在は空を覆う光の一部だ。もちろんこの光は本物ではなく、質量を持たない物語にすぎない。星を脇に控え、僕は左手を差し出した。

 星が流れる。輝きに恥じない速度を伴って、男へ迫る。

 いくら人間離れしようが、流星に比べれば静止も同じだろう――!

「っ!」

 ……だが、夕人はその星すら避けてみせた。また呪いを吐いたのだろう、速度がさらに増している。それでも避けるために横へと大きく跳ぶ必要があった。ほんの僅かな時間稼ぎだが、無駄にはしない。

 ――もう一度、少女を思い出す。

 結と出会った頃だ。歩が手紙を書いて、僕が届けた。未だに僕達は変わってないね。まったく同じことを繰り返しているんだから。

 同じように僕の傍に星が落ちた。男はすでに突進を再開している。それに、また星を以て迎え撃つ。

 結果を確認するより前に――少女の嘘を思い出す。

 あれは最後の夜だった。歩は僕を信じ切れずに嘘を吐いた。でも、怖いと言ったのは僕のことではなかった。歩が消えて、それを僕が喜ぶ……そんなことが、怖かったらしい。でも本来ならば、その結末を迎えただろう。僕はその事実こそが震えるほど怖いんだ。

 やはり今回も星が落ちた。夕人が態勢を整えるより早く、次の星が夜を駆ける。

 止むを得ずだろうか、夕人は大剣で防御に移る。光は止まらず、紅い剣と衝突した。

 だが……何も起こりはしない。衝撃も音も光もなかった。ただ、紅剣に吸い込まれただけ。しかし、男には分かったはずだ。この物語が自身を打倒し得ることが。

「呪いなんて、吹き飛ばしてやる」

 今度は言葉に表した。夕人は怒り狂い、遠目に見える表情だけで呪いを感じることが出来るほどだった。

 ――でも、遅い。

 ここまで至れば、僕の頭には歩との過去が次々と湧き上がる。それらは詳細まで思い返され……その度に星が落ち、まるで光が降り注ぐようだ。気付けば、僕の周囲には数えきれない星があった。全てが、僕と歩の記憶を意味している。

 我慢出来ず男が叫んだ。

「紙切れ程度で、何が出来る――ッ!」

 未だに距離があるというのに、体が振動するほどの大音声だった。

 僕は言う。

「……物語を伝えることが」

 僕の周りに数多の星が集ったことを理解すると、夕人は戦術を切り替えたらしい。直線的に突き進むのではなく、回避を主体としながら時間をかけて接近してくる。

 迎え撃つ僕から放たれるのは星の奔流。尽きることなく撃ち出される光は人の身では眺めることしか出来ないだろう。

 しかし一分近く、夕人はその九割を避けていた。気が付けば、僕達の距離は縮まっている。位置だけを考えるなら、五秒もあれば夕人は僕を殺せるだろう。狙いは予想出来る。捨て身で突き進んでも僕を殺せる距離まで近付きたいのだ。その瞬間、迷わず僕を殺しに来ることも分かっている。

 ――分かっていても対策がない。否、望むところだ。

 相手が捨て身で来たのなら、その時は真っ向勝負をするだけのこと。僕の星と、男の呪い。どちらが強いかを決めればいい。

 夕人が走り回り、僕が追う。星のほとんどは当たらない。その事実に少しだけ、歯を噛んだ。

 突然――男は大きく跳んだ。

 光で追従するが、夕人は無傷で着地。地面を大きく滑り、ローブが引きずられる。完全に体が停止するより先に、全力でこちらへ飛び込んだ。

 ――とうとう、仕掛けてきたらしい。

 僕は星の雨を男へと浴びせる。敵は微塵も怯まずに、雨の中を突き進む。十分に接近したからだろう、声が聞こえた。呪いの詩だった。


『世界よ、少女を返せ!』


 今までずっと、こんな言葉を呟いていたのか。こんな呪いに縋って、力を得ていたのか。

 ふと、僕は答えていた。

「世界は少女を返さない。そもそも、少女が自分から帰らない」

 男の顔がさらに険しくなる。十や二十を遙かに超える星を一身に受け続け、なお凄まじい気迫だった。


『世界は少女を踏みにじった……俺は、許さないッ!』


 夕人の速度が落ちた。呪いを重ねているが、星の影響だろう。しかし――間に合うか。

 ――大剣が僕を引き裂くか。

 ――僕の星が男を止めるか。

「それでも少女は世界を許す」

 目を凝らせば表情が見えた。光に包まれながら、苦悶と苛立ちで歪み切っていた。

 男が怒鳴る。


『世界が! 少女を殺したんだ!』


 もはや呪いですらない、ただの恨みごとだった。

 なぜなら――それは違う。僕も今まで気付けなかったけれど……

「少女なら今もすぐそばで生きているだろう」

 そう、歩はここにいる。それは変えられない。目を逸らすことが出来るだけだ。

 男の足取りが重くなる。光を浴び続けた結果、走ることも出来なくなったらしい。今も星に責め立てられながら、こちらへと歩き続けている。残りは十メートルほどだ。持つことも辛いのか、剣を引きずりながら一歩一歩迫る。

 僕は星を撃ち続ける。逃げようにも、僕だって状態は似たようなものだし……逃げたくもない。ここまで来て出来るのは――届くと信じるだけ。

 しかし、男は紅い剣の間合いにまで接近したらしい。不気味な色の武器を重そうに振り上げた。袈裟に斬るつもりだ。

 ――間に合わない、か?

 それでも僕は星を放つだけ。それ以外は負けと初めから覚悟している。

「俺は、歩を助けるんだ……」

 余りにも小さな……けれども、むき出しの叫びだった。

 巨大な剣が振り下ろされる。どうやら、負けたらしい。

 ――目の前に何かが飛び込んだ。

「な……っ!」

「――!」

 驚愕は、僕と夕人。

 ここまで全力で走ったらしい。息を切らしながら、歩が僕を庇って両手を広げていた。

 ――なんで、馬鹿な真似をするんだよ……こんな結末は望んでないッ。

 すでに振り下ろされた剣は止まらない。そもそも、この男には止める力すらないだろう。

 歩の顔は見えないが、両腕が震えている。腰だって少し引けているし、ガチガチと歯が鳴っているのも聞こえた……でも、きっと目を逸らしてはいない。そういう奴だ。

 だから、せめて僕も目は背けなかった。助けるだけの力はもうない。

 奇跡を祈る力くらいしか、ない。

 そして剣は歩の肩に触れ――粉々に砕け散った。

「……え?」

 僕と歩の声が重なる。でも、一番不思議そうだったのは……

「静夜君……だったかな」

 苦笑いを浮かべた歩のお父さんだった。僕が答えずにいると、一言だけ続けた。

「これは、卑怯じゃないのかな?」

 言いながら、僕を守り続ける歩へ手を伸ばした。

 ――しかし、世界はそれを許さない。

 歩のお父さんの右手は歩と触れる前に砕け散った。彼は寂しそうに笑顔を零す。何を思ったのかは僕なんかじゃ分からない。でも、その表情は哀しいものに見えた。

 彼の体が砕けていく。両手両足はすでになく、全身も罅だらけだ。

「……」

 これが最期だと理解して、僕は歩のお父さんに最後の星を飛ばした。光はそっと吸い込まれる。それが、どれくらい胸を打ったのかも僕には分からない。

 ――でも、最期に。彼は嬉しそうな笑顔に変わって……消滅した。

 今まで常無夕人だった破片が風に流されていく。『幻想世界』だけを残し、矛盾に呑まれた男は跡形もなく消え去った。

 そして、僕は小さく安堵の息を吐いた。

「……え?」

 歩の体がゆっくりと傾く。そのまま倒れ――

「歩!」

 僕が大急ぎで支える。

 ――まさか、最後の一撃は止まってなかったのか?

 歩は両手足の力を抜いてぐったりしている。目は開けているが、相手はあの男だ。何があってもおかしくはない。

「大丈夫!? 痛むところとかは……」

 少女は僅かに微笑むと、一言告げた。

「安心したら……こ、腰が砕けちゃった……」

 天を仰ぎ、脱力する。危うく支えている歩を落としそうになったほどだ。

 仕方なしに、歩をベンチへ運ぶことにしたが……辛い。これでも僕は重傷人だし、疲労も尋常じゃあない。本当なら格好よく歩を抱えて行きたいのだが、歩自身の力も借りながら引きずるのが精一杯だった。

 二人でベンチに座り、肩で息をする。

 やがて息も整って、静かな夜がやってくると、

「……本当に、綺麗な星空」

 そうだね、なんて頷いた。実際、今までの幻想文学の中でも群を抜いた出来だった。

「あたしは、こんなに綺麗な物語なんて……持ってない」

 それは違う。誰かを助けようとし続けた物語は……たとえ周囲から排斥されようと、決して。

「いや、持ってるよ」

「持ってないわよ」

「持ってるって言ってるじゃないか」

「あたしが持ってないって言ったら持ってないのよッ!」

 二人で睨みあう。しばらく歩の瞳を眺めていたが、僕は折れることにした。

 瞳が、少しだけ怯えているように見えたから。

「……分かった」

「分かってないっ……あれ?」

 歩が反射的に否定する。さらに失礼なことに、僕の発言を不思議がっている。

「大丈夫、本当に分かってるから」

「……」

「いつか、君の物語を語ろう」

「え――?」

 そう。これから綴ってみればいい。僕達は語り部なんだからさ。

「うん。その時は、僕が全力で語るから……歩も」

「も、もちろん! この光景に負けない物語を創ってみせるんだから」

 少し動揺した声を上げて、遠い桜に目を逸らす……横目で僕をちらちらと見ているけど。僕は気付かない振りで、遠い桜を懐かしく思った。

 でも――同時に。

 やっと僕は【飛剣歩】を見ることが出来たのだろう……なら、ここから始めたい。

 ――はじまりはじまり、か。

 僕はもう一度、星を見上げる。

 そういえば、同じ正式は二度と語れない。つまり、この光景を見ることも二度とないということだ。

 ――うん、大丈夫。

「さて、そろそろ戻ろうか」

「……いいの?」

 今、この物語が消えても構わないのかと歩は訊いた。

「いいよ、もう幕は下りちゃったんだ。それに……紗智が怒り狂ってるだろうからね」

「ぷっ……それは言えてるわね。せいぜい笑ってやりましょう」

 そして僕達は立ち上がり、歩きだした。他愛もない話をしながら。

 ふと、背後で――いつかの少女がベンチに座り、もう一度だけ紡いだ気がした。


『この物語の結末が――』


 僕達は振り返らず……やがて『矛盾した世界を幸福に』は跡形もなく消え去った。

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