結……(5-9)

 とにかく追いかけようと走り始めたが、それは思った以上に難しい作業だった。傷の影響で体力が落ちているし、眠気で意識が朦朧とする。

 ……三十秒も保たずに徒歩へと変わってしまった。加えて、距離は縮まらないどころか広がった気さえする。

「仕方、ない……」

 もっと近付いてからやりたかったが、他に手はない。

 僕は立ち止まり、意識を集中させる。


『はじまりはじまり――』


 正式を語った。

 それは、一人の騎士がどこにでもある剣を聖剣と変える話。

 聖剣の力は剣ではなく、持ち主に宿るという話を表現した英雄譚。彼が握る剣こそが聖剣である――!

 しかし題名に至るより早く、幻想文学は霧散した。男が矛盾を使って無効化したのだろう。聞こえなければ、と期待したのだが……そうはいかないらしい。

「いや、何度でも語ればいいだけだ」

 次は、天国を探す旅の話。

 この場が地獄ではないことを誰も証明出来ない……だが、これだけの人が死ぬ場所ならば地獄でないはずがない。そう考えた男は天国を探す。ここが地獄ならば、天国もあると信じて――!

 無効化される。

 今度こそ。死者が恋人と交わした約束を破らせる話。

 一人の青年が死ぬ。彼の恋人は青年との約束【いつまでも待ってる】を破らずに孤独に暮らす。死んだ青年は霊となり、恋人に約束を破らせようと――!

 無効化……悔しくて唇を噛んだ。

 約束だけは守る嘘吐きの話――無効化。

 誰もが認める馬鹿なのに最後まで正しく生きた少女の話――無効化。

 無効化。無効化。無効化……。

 やがて、手持ちの幻想文学は尽きてしまった。まさか、ここまで強力に無効化を行えるなんて。必死に手を伸ばす。歩が記憶をなくした時を、嫌でも思い出した。

「ま、待って……まだ」

 足も動かした。でも、二人は見ることすら難しいほどに遠くで。

「……っ!」

 終いにはつまづいて転んでしまった。

 ――このままだと、歩は消える。そんなのは嫌なんだ!

「どう、すれば……」

 僕にはもう、物語がない。いや……あったとしても、どうせ無効化されて意味がない。

 去りゆく背中を止めるには、無効化出来ない物語を即興で創るしかない。

「そんなこと、出来るはずが……」

 ――いや、一つだけ。

 無効化は賭けだが、僕が即興でも語れる物語はそもそも一つしかないだろう。

 明確な意思を持って、立ち上がった。無限にも思える距離の先を睨みつけて、覚悟を決めた。

 僕は小さく息を吸い、右手をそっと胸に添える。

 そして、目を閉じた。視界など邪魔なだけだ。自己に埋没しなければ語りきれない。どうか否定されないようにと、そう願った。だが、それも一瞬。頭を切り替えなければならない。

 ――完全に、あの日の二人を再現しろ。それ以外では、届かない。


『はじまりはじまり』


 枕は今までとは比べ物にならない程の強さを以て響いた。

 思い出せ……僕達はどんなだった?

 そうだ、いつも他愛ない言葉をぶつけていた。


『――世界が幸せでありますように。

 虫の息で少女が呟いた。でも、声は誰にも響くはずがなかった。

 そこには《悪党》が一匹いただけだったから』


 場面は最期。

 左腕を揺らして調子を取りながら、次を考える。


『悪党は尋ねる。幸福とは何だ、と。

 少女は、分からないと言った』


 歩の掌には砂粒ほどの幸せもなかったし、僕は幸せなんて考えたこともなかった。

 ……知らなかったのは、当然だろう。


『首を傾げた悪党に、少女は続ける。

 でも、きっと皆が救われるんだと、目を輝かせて語ってみせた』


 馬鹿な子供だ。こんな幼稚な夢を信じて、他人を助けることしかしなかったんだから。もしも歩に、歩自身を助けることが出来たなら僅かばかりの幸福は得られたかもしれない。

 ――ああ。もしそうだったら、どんなに救われるだろう。

 でも、馬鹿な子供は僕を助けようとしたんだ。だから結果は分かり切っていた。


『悪党にはそんな世界の想像すら許されなかった。その証拠に、訊かずにはいられない。

 この世界に救いとやらはあったのかと。

 弱り切った少女は力なく首を横に振った。そう……どこにもなかったのだ』


 そんなことは、歩が一番分かっていただろう。

 世界は歩を救わないし、歩は世界を救えない。なら、どこにもないのだと。

 すでに物語は、口から自然と出るようになっていた。


『悪党が声を荒げる。ならばそれが、この世界の本質だろう……気付かなかったのか。

 気付いていた、と少女は掠れた声で否定する。

 世界に対してあまりにも小さな抵抗だ、無駄だと分かっているだろうに……』


 意識せずとも語るのならば僕は余計なことを考えずに、いつかの言葉に応えよう。


『少女は微笑み、そして紡ぐ――』


 僕はこの言葉にちゃんと救われていたんだよ。

 だって……


『悪党にはその言葉の真価など分からない。

 にもかかわらず、その日から悪党は少女を伝えようと世界に物語を贈り始めた。

 なんという、矛盾した奇跡……悪党に少女の声が響くだなんて』


 今でも《悪党》だけど。

 本当に叶うだなんて、これっぽっちも思えないけれど。


『何を語っているかも分からず、悪党は綴り続ける。届け届けと祈りながら。

 世界は目を疑ったが、その内容は確かにこう読み取れた――』


 僕も、ハッピーエンドがいいと思う。


『――それでも、世界が幸せでありますように』


 思えるように、なれたから。


『矛盾した世界を幸福に(ハッピーエンド・パラドックス)』

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