結……(5-6)
その泣き声に、気付いた。
まるで子供のように泣きじゃくる声は可愛くて、何だか笑ってしまいそうだった。
「……う、ぁ」
薄く目を開けようとしたら痛みで目の前が真っ白になった。これじゃあ、目を開ける意味なんてないじゃないか。
「どうして酷いことするの……?」
「殺してはいない。峰で殴っただけだ」
声が聞こえた。先ほど聞いたものだが、何故か聞き覚えがある気がした。
「だが……これから殺す」
「やめてッ!」
「……なら俺の言うことを聞け、歩」
前に聞いた時は、こんな……まるで世界を呪うような声音ではなく、不器用ながらも優しかった気がする。そうだ、この声は――
「歩の、お父さん……ですか?」
「静夜! 大丈夫? 意識はある?」
心配そうな叫びを上げた歩の向こうで、ソレが息を呑んだ気がした。
――やっと意識がしっかり戻ってきた。目も機能が回復しつつある。なら、この状況をどうにかしないと。
「そうなん、ですね? 常無……夕人さん」
「……ふん、今頃思い出すか」
吐き捨てるような声に続いて、衣ずれの音が聞こえた。どうにか上半身を起こして目を向ければ、ソレはフードを脱いでいた。
やせ細った体に、こけた頬はやつれたというより呪いでも受けたかのようだ。朴訥な印象だった顔つきは皮肉げに歪み、全てを嘲笑っていた。だが一番の特徴は、鈍く光る瞳だろう。
――それなりに悪い人間の瞳を見てきたつもりだったけど、あれは知らない。
「……静夜? 知ってるの?」
「それは」
「歩、お前が知らないことがおかしいのだ」
「どういうこと、静夜? この人は誰なの?」
夕人が大仰に両手を広げて、歩に説明し始めた。
「父親だ。お前は小さい頃の記憶がないだろう? ……そこの悪ガキがお前の記憶を奪ったのだ。この学校に来る前から、お前のことを知っていたのさ」
「静夜。説明して――!」
「……本当だ。僕は君を知っていた」
証拠を得たと言わんばかりに、夕人の顔に笑みが浮かんだ。狂気すら感じさせる満面の笑みだった。
「ほら。そいつは嘘つきだ!」
歩は静かに目を閉じて――冷静に深呼吸をした。
「静夜、あんたの夢は?」
「……《善人》になる」
「分かった。それだけ信じる」
どうしてそう言えるんだろうか。僕が悪党だなんて分ってるのに。
「あの化物よりは信じられるってだけよ?」
その言葉に反応したのは、僕じゃなかった。
「――やっぱり、駄目だったか。お前は【常無歩】じゃない」
見れば、夕人の顔は冷め切っていた。この人は感情の起伏が激しすぎる。あまりにも不安定だ。そこに不釣合な力が加わって……危ういと、そう思った。
「だが大丈夫だ。俺は予想していた。そのために用意をしてきたのだから」
「……嘘」
言いながら取り出した本に、僕達は唖然とした。
「なんで『幻想世界』を持ってる?」
盗まれたはずの世界を、夕人が持っていた。いや……この際、持っていることはいい。犯人が夕人だっただけだ。問題は目的。何故、盗んだ?
「これがあれば大丈夫だろう……これがあれば【常無歩】は生き返る」
僕の問いに答えたというより、独白だった。だが、内容は聞き流せるものじゃない。
――生き返らせる? 記憶を戻すということか。可能なのか?
「……あたしの記憶を消すってこと?」
「当然だ。歩の体に入った害虫は駆除する……この本の中にある【常無歩】を再度上書きすることでな」
「なるほど……確かに、世界の過去話に【常無歩】は存在する。でも……」
――問題はそこじゃない。矛盾症候群だ。
「無駄だよ。何度やっても、繰り返すだけだ」
そう。矛盾症候群がある以上は何度歩の記憶が戻っても、消されるだけだ。理由があって、世界は歩を消したのだから。
「ふん、凡人の考えだな」
「なんだって……?」
――解決策があるって言うのか? 矛盾症候群を防ぐ術が?
「簡単だ。世界が【常無歩】を排除するなら――」
夕人は僕達に一歩近付いた。満点のテストを自慢するような笑みと共に宣言する。
「――別の世界を創ればいい!」
言葉が、出ない。『幻想世界』があるとは言え……可能不可能で言えば不可能に決まっている。しかし一番危険なのはその思想だ。この世界の人間が別の世界に行った場合どうなるか。成功すればいい。だが、失敗すれば今まで存在していた『人物』が突然消え去るだけだ……つまり、
「この世界が、矛盾だらけになる」
「……知ったことか」
「皆、死ぬかも知れない」
「……死ねばいい」
「なんで、そんな――」
――【常無歩】の父親が、そんなことを言うんだよ?
「なんで? 決まってる、俺が『矛盾』そのものだからだ」
何を言っているのか、僕にはさっぱり分からない。『矛盾』そのもの? 何かの比喩だろうか。それとも、本当に狂ってしまったのか。
「そんな……でも、筋は通る」
だが、歩は分かるらしい。酷く狼狽していた。
「どういう意味なの?」
「……理論はあったのよ。
当然、この世界に矛盾はある。矛盾症候群ね。あと、幻想文学もある……物語を具現化する力。
ならば、矛盾を具現化する力も存在するんじゃないのか――と」
それはつまり物語を矛盾させるということか……?
「……存在すると仮定するなら、力の持ち主は『矛盾』そのもの。ある種の都市伝説なんだけど」
「そういうことだ。俺は矛盾を生み出せるようになった。いや、矛盾が見えるようになったと言うべきか」
だから、幻想文学が消されたのか。物語を矛盾させて、世界に修正させた。同様に学校のセキュリティなんてないようなものだ。納得はいく。
幻想文学に頼ったシステムを逆手に取られた形だ。
「でも……確実に言えることがある。もしそんな存在がいるなら、ソレはもう……人間ではない」
夕人が満足気に笑っている。
「なぜ、そんな力を」
「ははは! 世界を呪い殺す方法を研究していたら、使えるようになっていた! 俺は選ばれたんだよ」
――当然だと思った。
憶測どころか、願望にすぎないが【常無歩】の父親が世界を呪うことは極大の矛盾だと僕は思う。
「さて――歩の偽物、どうする?」
夕人は二択を迫った。
――言うことに従うか、否か。
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