転……(4-11)
「ちょ……待、て」
連続で貫手が繰り出される。喉、肩、腹など場所を問わずに突き出され、僕は狭い梁の上で避けることしか出来ない。救いは紗智が幻想文学を使用していないことだろう。しかし、それでも僕の体術を圧倒している。
「何で――?」
ヒュッと風切り音が聞こえ、大きく体を仰け反らす。薙ぎ払われた手刀が首元を掠っていった。慌てて後ろへ跳ぶ。梁から落ちるのではという恐怖はあるものの、気にしている余裕はない。
「理由ですか。分かりませんかね?」
紗智は追撃せずに、僕へと語りかける。
「静夜さんが……《善人》になるだなんて言うからですよ」
「そんな、ことで?」
「サチにとっては重要なことなんです」
紗智がゆっくりと間合いを詰めてくる。同じように後退しながら僕は体捌きを想定しておく。鉄骨で出来た梁は折れる心配こそないだろうが、どこに足場があるのかを把握すること自体が難しい。
「……僕が《善人》になったら、困るってこと?」
「いえ、ただ悔しいだけです……よっ!」
トンと軽く紗智が踏み込む。想定通りにギリギリの距離で手刀を避けた――紗智が、もう一歩踏み込む。結果として手刀の間合いへと入ってしまう。
「……っ」
避けられないと判断した僕は、とっさに首筋を両手で守った。
ストン、なんて聞こえそうな一撃を左腕が受けた。最低限の力なのに、振動が響くように計算されているのが分かった。
「……くそ」
左肘の辺りに痛みが走る。再び距離を取ろうと下がった。紗智は今回も追わずに、肘を押さえる僕を静かに眺めている。
「ええ、悔しいだけです」
「悔しいって……どうして?」
「……サチは強くなりたいんです」
「何の関係が……」
サチは少しだけ悲しむように微笑うと、
「悪は強い」
そんな台詞を口にした。
今までも、そうだったのか? 強くなりたいから、酷い悪党である僕に敬意を払っていたのだろうか。
「なのに……静夜さんはその強さを捨てると言っているんです。そんなに強い《悪党》だっていうのに」
「悪が強いというわけじゃ……」
「そうですか? 少なくとも、昔の静夜さんならこんな事件の解決なんて一瞬だったはずですよ?」
そっと唇を噛む。反論する言葉はなかった。
「サチ達じゃ話しかけられないような犯罪者達を脅して回れば、すぐに場所が分かったはずです。さらに言えば、あの程度の雑魚相手なら一人で全員を再起不能にして終わり……違いますか?」
「それは……」
事実に対する反論は出来なくて、僕は押し黙るしかない。
「だから、サチが戻してあげるんですよ。実戦の感覚で……静夜さんを、ちゃんと《悪党》に――」
――それは、困る。
ギリ……と歯を噛み締めた。言葉が口をついて出る。
「君は持っているから気付かないんだ」
「……何が?」
「当たり前じゃないか。悪党より善人がいいだなんて……誰だって知っているだろう」
「理想論です」
もはや紗智には僅かばかりの怒りすら見えた。
――構うものか。怒りはお互い様だ。
また踏み込んできた紗智が脇腹に手刀を放つ。僕は下がらない。紗智の右手に左手の甲をぶつけた。甲の骨にひびくらいは入ったかもしれないが、どうでもいい。
「分からないだろう?」
止められるとは思っていなかったのだろう、紗智は呆然と立ち尽くしていた。気付けば倉庫の中心くらいの位置だった。
「未だに目が合っただけで、人を殺しそうになる。肩がぶつかった次の瞬間、僕は相手に殴りかかるかもしれない。子供が泣いている姿を見ると、笑みが浮かぶ」
「――この!」
紗智が何度も何度も手刀で攻める。僕はその全てを左腕で受けた。
やがて紗智の猛攻も終わり、
「痛く、ないんですか?」
興奮が収まったらしい紗智は力なく訊ねた。
僕は答えない。ただ、紗智の胸ぐらを掴んで力任せに持ち上げた。
「……誰かを傷つけている昔の夢を見て、僕は喜んでいるんだ。朝に目が覚めて気付く。変わってないんだって。そんな人生――」
紗智が恐怖から小さな悲鳴を上げた。……昔の僕を知っているなら当然か。
「分からないだろう……っ!?」
その声で、紗智の恐怖に驚きが混じった。
「静夜さん……そんなに、悩んで……?」
必死に自分を抑えて、ゆっくりと紗智を下ろした。
それでも怒りを抑え切れずに近くの鉄柱を殴りつける。羨ましくて、悔しくて。ほんの少しだけ僕は立ち竦んで……やがて迷いを払う。紗智はその間、何も言わなかった。
「いいよ。僕が弱いかどうか、確かめてみて」
「え……?」
返事は待たず、僕はまた跳ぶ――梁などない、ただの虚空へと。
「静夜さん! こんな高さから落ちたら――!」
十メートルほど、僕は落下していく。
落ちながら、考える。
――おそらくはこれが僕の初陣だろう。
誰かを助けるためだけに、力を使うと決めた。僕の力とは、物語。
その力を得るために、全力で鍛えてきた。結果として、僕が力を行使する暇はなかった。はっきり言えば、僕が今までの人生で助けた人物は――妹である結だけだ。
――さて、何を語ろうか。
――誰を、助けようか。
――赤い糸の少女以外はあり得ないだろう。
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