承……(3-11)

 僕と歩がゆっくりと話す機会を得たのは、次の日の夜だった。

 祖父の死に旅行先からすっ飛んできた結は、想現が残した手紙を決して離さずわんわんと泣いた。鼻水でぐちゃぐちゃになりながらも僕達にありがとうを繰り返したが、さすがに疲れたらしく今はぐっすりと眠っている。

 想現はよほどの大物だったようで、病棟は未だに大騒ぎだ。そんな雰囲気に嫌気が差して、僕はいつものベンチまでやってきた。

「あ、来たね」

 だが、先客がいたようだ。僕は無言で隣に腰掛け、なんとなく月を見上げた。まばらに浮かぶ雲は低く、輝く月はやけに高く見えた。満月のようだが、少し欠けている気もする。

「……ありがとね、手紙を届けてくれて」

 僕につられて、高い月を見上げながら歩はそう切り出した。僕は小さく「別に」と答える。

「おじいちゃんからの返事は読んだ?」

「いいや。興味がない」

 正直に言えば、読みたくない。想現とのやりとりは思い出したくもない。加えてあの老人のことだ、僕への嫌がらせを手紙に潜ませる程度はやりそうだ。

「あはは……私は読ませてもらったよ。ごくごく普通の、孫の幸せを願った手紙だと思った。あんな素敵なおじいちゃんなら、会ってみたかったなぁ」

「そう、なんだ」

 意外だった。あれだけ癖のある人物が普通の手紙を書くなんて……駄目だ、想像出来ない。

「どうかした?」

「いや、確かに素敵な老人だったね。あんな老人になりたいな!」

 大嘘だ。クソジジイが好きな人はいない。

「やっぱり検査は逃げるべきだったかな……。いや、もっと早く結ちゃんと知り合っていれば会えたんだよね……残念。代わりに今度、結ちゃんからおじいちゃんの話を――」

 歩はよっぽど想現が気になるらしく、ブツブツと呟いている。だが僕としてはこの話題を続けたくはない。あの時の会話を歩に伝える気はないからだ。

 ――仕方ない、話題を変えるか。ついでに嫌がらせもしよう。

「そうだ! おじいちゃんの孫に生まれ変わればいいんだよっ」

「……どうして」

「ん?」

「どうして、あんなに猫の絵を描いたの?」

 暴走する歩に、気になっていたことを訊ねてみた。

「暇だったからだよ?」

「地面の猫は……君自身じゃないのか?」

「えー? どういうこと?」

 いい加減な返事をしながら、歩は周囲を見回した。

「君は全てを忘れるんだろう? 忘れた後、君自身は何一つ残らない」

「そうかなー?」

 遠くに視線を向けたと思ったら、今度は落ち葉を蹴飛ばす歩。話を聞いているのだろうか。

「ああそうだ。例えば君が誰かの記憶に残る。でもそれは、その【誰か】のものだ。

 偉業を残したとする。残るのは君の【名前】だ。君自身じゃあない。

 ましてや君の場合は、肉体すら残せない。子供も無理だ。

 時間が過ぎれば崩れる絵と同じ。それが嫌で、あんなに多く描いたんじゃないか? 自分が消えないように……いや、君の場合は【次の君】に自分を上書きされるのが――」

「あ!」

「……どうした?」

 話を切られて、不機嫌な声になる。

 ベンチの下。誰一人見もしないような、隠された地面を指で示している。

 屈んでみれば。

「一匹……残ってた」

 少しぼやけた輪郭ながら、確かに猫がいた。二日半が経ったのに、恐怖を抱かせる風貌のままだ。

 少女は愛でるように微笑んで、

「うん、暇だったからだよ。難しい話は分からないけど、暇だったの」

「……本当に?」

「すっごくすっごく、暇だったんだ……静夜がなかなか、来ないから。気付いたら、ね」

「少しも、自分を投影したりはしていないってこと?」

「それも分からないけど……別に、私は何も残らなくていいからね」

「なぜ?」

「今持ってる私を全部使い切って、誰かを助けたいんだ」

「……ぷ」

 気付けば、笑っていた。

「ぷはは!」

「わ、笑わなくてもいいじゃない……っ」

「……君は面白い。皆を助ければ、それでいいってこと?」

「うーん……一つ、願いがあるよ」

「どんな願い?」

「世界の……いや! 何でもない、何でもないよ!」

 僕が再度笑いかけたのを読み取ったらしい。それから何度訊いても、拗ねた歩は答えてくれなかったんだ。

 ――意外にも。その願いを本気で知りたいと、僕は思っていた。

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