承……(3-10)
そうはいかなかった。
昼過ぎだ。注意深く見ていると、看護師達が霊安室の準備をしていることを確認した。医者が誰かの死を予想したことは間違いない。調べていくと、一つの病室に辿り着いた。
名前は、刃間想現(はざまそうげん)。間違いないだろう。
僕は溜息と共に想現の病室へと向かって廊下を歩く。非常に面倒臭い。
「なんで僕が人助けなんか……」
愚痴を零すが、実は悪いことばかりでもない。誰かが死ぬところに立ち会えるのは嬉しい。孫に会えなくなる絶望とかが見れるとなおいいことだ。
「……優月静夜君だね」
突然後ろから声が掛けられた。驚きながら振り向く。
廊下の先に立っていたのは、スーツを着た長身の中年男性だった。全体的に細いがひ弱な印象は受けず、聡明な雰囲気になっている。表情も引き締まっていて、誠実に見えた。
「どちらさまですか?」
僕は細心の注意を払って、返答する。
男性は厳しい表情のまま、
「俺は常無夕人(とこなしゆうと)……常無歩の父親だ。いつも娘が世話になっている」
「ああ、歩のお父さんですか。こちらこそ仲よくさせてもらってます」
警戒は解かず、礼儀正しい応対を心がけた。
「……これからも、よろしく頼むよ」
あまりにも不器用な言葉で驚いた。結果として、反応を返すことすら出来ないまま背を向けられる。そのまま立ち去ってしまった。
「歩とは似てないな……」
朴訥という言葉が似合っている気がした。それでも歩のことを大事に思っていることは分かる――少しだけ、やつれていたから。
目的の病室を前にして、少しだけ緊張した。これからすぐに死ぬと分かっている人間と話すのは、さすがに初めてだった。
僕は大きく息を吸い込んで、二回扉を叩いた。
「……はい」
返事は小さく、静かな声だ。僕は病室の中へと滑り込む。中には老人が一人だけ横たわっていた。
僕の母親や、歩と同じ部屋の造りだ。大きめの間取りにベッドは一つだけ窓の隣に置かれている。内装は白で統一されて埃一つ見当たらない。
他の部屋と違う点は二箇所。テーブルに結の写真が飾ってあること。その写真以外には何も私物がないこと。
「君は?」
肝心の想現はこちらを見つめている。やせ細った体は酷く弱々しいのだが、眼光だけは鋭かった。白状すれば……気圧された。到底、今日中に死ぬ瞳とは思えない。
「僕はお孫さんの代理で来ました」
「ほう」
「下書きですが……手紙を預かっています」
歩み寄ろうとするが、老人の声が速かった。
「これはまた、とんでもない悪党が来たものだ」
「!」
動揺を隠し切れなかったことは自分でも分かった。……仕方ないだろう。まさか見られただけでこんな――読み取れるものなのか?
「だが……殺人は未経験か」
なんだ、この人……殺してしまおうか? どうせ今日の内に死ぬんだから構わないだろう。
「はっ、儂を殺すか。まあ落ち着け。逆に考えろ。放っといても儂は死ぬぞ?」
「あんたは、他人の心が読めるのか……?」
敬語も忘れ詰問する。それこそまさに、この年寄りの言葉が正しかったと証明していた。
「まさか。儂のは経験に過ぎん。貴様のような悪党は星の数ほど見てきたからなぁ」
「……」
「丸わかりだ……丸わかりなのだが、どうにも人生は面白い。貴様ほど大きな《悪党の器》は儂でも見たことがない」
「だろうね。自覚はあるよ」
「……この調子なら、貴様はそのうち数え切れないほどの人を殺すだろう。そして儂でも想像出来ない次元の大悪党になる。誇りに思っていいことだ。誰にでも出来ることじゃない」
「へえ、でも僕は今日まで人を殺したことがないけど?」
「だから面白いのだ。貴様にはまだ、大悪党にならない道があるかも知れない」
そして老人はくくく、と笑った。
何が可笑しい、と訊きそうになった。でもきっと老人の思惑通りな気がしてやめた。
「そろそろ可愛い孫の手紙をくれないか」
想現が皺だらけの手を伸ばす。僕は少しだけ近付いて手紙を渡した。
手紙を読み終えるまで、静かに待つ。やがて全てに目を通したのだろう、想現はしわくちゃの顔で微笑む。――用は済んだ。
「それじゃ僕は――」
「待て。返事くらいは書いてもいいだろう?」
来なきゃよかった。この老人は死など露ほども恐れていない。苦しむ姿を見ようなんて、甘かった。
十五分ほどで書き終わった返事の手紙を僕に渡しながら、
「待たせたな。孫によろしく頼む」
振り返りもせず、僕は病室を出て行った。少しでも早くここから離れよう。そう考える僕に、意味不明な言葉が投げられた気がした。
「……この借りは、きっと返そう」
この時から一時間と経たずに、刃間想現は息を引き取った。
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