序……(1)

十三年間生きてきて誰も面と向かって言うことはしなかったが、僕は自覚していた。ひょっとしたら生まれた時から気付いていたかも知れない。

 自分が《悪党》だと。

 昔、ラブレターを貰ったことがある。相手を呼び出して、僕は目の前で手紙を燃やした。 僕に話しかけたら殺す。誰かに密告したら殺す。僕と目を合わせても殺す。そう伝えた。確実に伝えた。

 残念ながら彼女は転校して、僕に殺されることはなかった。心底がっかりしたのを覚えている。

 そんなことを自然と行うくらいには、僕は《悪党》だった。

 両親は普通だと思う。進んで他人を助けたりはしないが、傷付けもしない。救いを求められたら、出来る限りは手を差し伸べる。息子が生まれたなら、幸福に育って欲しいと願う。そういう人間だ。 

 だが、僕は母親が矛盾症候群(パラドックス)を患っても、何とも思わなかった。残り数ヶ月の命だと知って、喜んだくらいだ。

 誰かが死ぬのは好きだった。苦しむ姿は、楽しい。

 日が沈んだ病院の庭で、ベンチに腰掛ける。ちょっとした広場なのだが、この時間に人影はない。

 最近、母親は寝たきりになっていた。僕は毎日病院まで見舞いに来て、悲しそうな表情を張り付けながら夜まで話を聞く……うんざりだ。

 多少見飽きたとはいえ、死に絶望した表情は悪くない。だけど他愛もない世間話を死に損ないがするなよ。残り少ない命の無駄遣いだろう。

 ……いっそ殺してやった方が彼女のためじゃないのか? 入院費だって安くないし。いや、僕の手を汚す価値はないか。入院費を払ってるのは父親だ。そもそも、もうすぐ死ぬ。

 せいぜい苦しんで、僕の暇潰しになってくれ。他に使い道もないし。

 そんな、おそらく最低の部類に入る思考を進めていると、


『紡げ』


 確かに響いた。

 とっさに辺りを窺うが、相変わらず人影はない。周囲の林だろうか。広場を囲む木々は全て枯れ、一面に落ち葉を敷き詰めている。

 枯れ木なのだから、林にいれば姿くらい見えそうだが……残念ながら光源は月明かりしかなかった。

 ――まずいな。

 恨みは大勢から買っている。傷害、恐喝、強盗……心当たりが多すぎる。復讐の類なら殺されてもおかしくないだろう。

 僕はそっと制服の懐に小型のナイフがあることを確認した。違法ではないが、十分に殺傷能力があるものだ。本来は中学生が持ち歩くものじゃない。

 ……だが、このような状況のために準備してある。


『一人の英雄がいました。彼は多くの人を救います。

 困っている人、貧しい人、誰でも助けます。

 罪を犯す人、皆を苦しめる人、全てを懲らしめます。

 誰もが彼に感謝しました。

 ですが――彼は悪い人間でした。誰かを懲らしめたいだけだったのです。何人も、何十人も、何百人でも、彼は笑いながら罰を与えました』


 僕は声が聞こえる方向を探る。女の声だ。幼い印象を受けるが……声は林を反響して、大まかな位置すら掴めなかった。

 後手には回るが様子を見よう。幸い、林からここまでは距離がある。注意を払えば見逃すはずはないし、広場に入れば落ち葉を踏む音が聞こえるはずだ。


『そんな英雄が出会います。それはそれは美しい桜の林と、その精霊でした。

 彼は一目で恋に落ちてしまいました。

 ――君が好きだ。

 英雄は言いました。彼の求愛を拒む女性など、これまでに一人もいません。

 しかし、桜の精霊は首を横に振りました。彼は理由を訊ねます。

 ――貴方は優しくありません。貴方が優しくなれたなら、必ず一緒になりましょう。

 英雄は一つ頷いて、世界を何度も救いました。

 ですが、彼は悪い人間のままでした。救うことよりも苦しめることが楽しいのです』


 しかし、意味が分からない。無駄話をする前に僕を不意打ちで殺すべきだ。

 それに――英雄? 桜? 精霊? 何を言ってるのか、さっぱり理解出来ない。何かの物語だろうか。だとしたら、今語る意味は?

 ……駄目だ、答えが出ない。方針は変わらず、相手が動く瞬間を待つしかないわけだ。

 そして、落ち葉が鳴った。

 意外にも正面から。それも淀みなくリズムを刻んでいる。月明かりの下へ、ゆっくりと歩み出たのは少女だった。

 大きな瞳に笑みを浮かべながら、セミロングの黒髪を足取りと一緒に弾ませる。右手を幼い胸に乗せ、左手は物語に合わせて揺らしていた。纏った白い病院服は質素で何も飾らない。だからこそ、月の光を余さず受け止めていた。透き通る肌と合わさって、まるで月がスポットライトのように見える。

 一目で分かった。少女は楽しくて仕方がないのだ。

 僕はというと、動くことが出来なかった。少女から目を離せない。たった一つの感覚に、否、願望に僕は囚われていた。

 ――殺したい。


『ある日。

 桜の林で火事が起こります。

 彼は懸命に燃え盛る炎と戦いました。英雄の力で桜の林を守ろうとしたのです。

 それでも業火は広がり続け、彼と桜の精霊を飲み込もうとします。

 戦って戦って、ついに彼の力が尽きた瞬間のことです。膝をついた彼の耳に怒号が届きました。

 ――英雄を助けるんだ!

 数えきれない人々が火事を消そうと炎の中に飛び込んできました。

 彼らは身を挺して、英雄と桜を守ります。

 その姿を見て、英雄は初めて気付きました。自分が救ってきた者の存在に。なにより、誰かが救ってくれる喜びに。

 自分がどれほど素晴らしいことをしてきたのか。

 その時、初めて彼は優しくなれたのです。

 ――ありがとう。

 小さく漏らして、英雄は目を閉じました』


 奇跡的にも今まで僕は人を殺さず生きてきたけれど、今日で終わりだ。

 他に誰もいないし、完璧に処理するだけの自信はある。なら何も問題はない。存分に楽しもうじゃないか。

 ――さて、どんな苦悶を見せてくれるのだろう?

 僕の考えを知らないであろう少女は、左手で巧みにこの話を表現しているようだ。いや、違うな。左手だけじゃない。表情、強弱、視線、速度、動作、呼吸、あらゆる要素でこの物語を表している。

 まるで、全身が語っているようだった。


『火事が収まり、残ったのは英雄の亡骸と桜の木が一本だけでした。

 皆が英雄の死に涙を流します』


 やがて、少女が立ち止まった。僕の二メートルほど手前、二秒あれば喉を切り裂いてみせる。そんな距離。

 ベンチから僅かに腰を浮かせ、機を待つ。少しでも僕から意識を外したら、その瞬間に肉塊へと変えてやろう。最高に楽しそうだ。

 だが少女はニコニコと笑いながらも、中々隙は作らない。

 僕が痺れを切らして飛び掛かろうと――少女が左腕を大きく広げた。


『奇跡は、そんな時に起こりました。桜が輝き始めたのです。

 そして光は英雄へと集まり、彼を名もない野花の精霊へと生まれ変わらせました。

 残った桜の根本で、野花は小さく揺れます。

 誰もが奇跡を祝福しました。

 桜の精霊は微笑んで、

 ――貴方は優しくなれました。約束を覚えてますか。

 ――もちろん。今でも君が好きだ。

 ――よかった。私もです』


 少女も敵意を抱いていたなら、僕は逆に殺されていただろう。

 不覚にも、息すら止まっていたから。

 この話に表情があれば、きっとこんな笑顔だった。それほどに儚くて優しい、幸せそうな微笑み……僕には少し、眩しかったのだと思う。

 そして、少女は題名を口にした。


『桜の英雄』


 変化はゆっくりと、しかし劇的だった。

 少女を中心に小さな風が起こった。やがて風は逆巻き、強風となって僕の横を駆け抜ける。手で覆った顔を驚愕に歪ませた。風で落ち葉が舞い上がり、消え去ったのだ。後には緑が芽吹いてゆく。風が通り過ぎた地面に色とりどりの野花が咲いていった。

 広場を抜けても風は衰えず、林を走る。途端に枯れ木の枝が桃色を帯びる。次々と。

 気付けば春。広場は一面の花畑で、林は満開の桜だった。

 それはまるで、今聞いた物語そのものだったから僕は――

「ねえ、面白かった?」

 認めたくないが、見惚れたんだろう。

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