第29話 奇跡 【編集者:矢作 彰人】


〈泉千花のフォロワーぽいの見つけたw よければ読んでみ〉


 スマホの画面を見て、思わず数秒思考が止まってしまった。

 そのLINEが来たのは、草木も眠る丑三つ時。

 時間も時間。差出人は懐かしの薄情者。

 しかし、そんなことの全てがどうでもいいと思えるほど、文中に書かれた先生の名前に俺は意識を持っていかれたのだった。


 泉千花。

 俺が初めて受け持った作家。

 大好きで、だからこそ一番思い出したくない名前。


   ◇◇◇


 俺が泉先生と出会ったのは、俺が新卒ほやほや、社会の右も左もわからない頃。

 二流私大卒で、出版社に就職できず、それでも編集の夢を諦められなかった俺が、何とか派遣編集になることができて、安心と焦りの両方を抱えている時分だった。


『んじゃ、矢作君。とりあえずこの先生よろしく』

 当時はまだ副編集長だった小出編集長が、出力した原稿の束をバサリと俺に渡してきた。

『泉先生には担当変わる話もしてあるから。アポ取って顔合わせしといて』

 丸投げっすか!? 口には出さないけど、そう思った。作家の先生と会うのは初めてなんですけどと思いながらも、当時からバリバリで十人以上を受け持ってた小出さんの忙しさは出会ったばかりでも感じていたので、不承不承はいと頷くしかなかった。

『大丈夫。泉先生できた人だから。ホントなら俺が受け持ちたいくらいよ』

 調子よく笑う小出副編集長に本当かよと陰ながら疑った。


 泉千花。

 ネットで調べてみれば、一応作品は幾つかヒットするものの、wakiにも名前が載ってなかった。いわゆる売れてない作家だ。まあ、新卒派遣編集に任せるんだからそんなもんだよな。

 どこか予定調和な初仕事に、俺は微かな落胆を抱きながらも渡された原稿を読み始めた。



 顔合わせの日。

 待ち合わせ時間の三十分前にブースに入った俺はこの上なく緊張していた。

 初仕事だから、というだけではない。仕事でありながら、俺は作家に会うファンの心境になってしまっていたから。

 

 先生の作品を読んだ。

 数は少ないながらも、他社で出ていた分も含めて全部。

 ジュブナイルとファンタジー数作。

 ジャンルを跨ごうと、根底にある作品の朴訥とも言える優しさ、穏やかさ。田舎育ちならではかのどこか自然にあふれた田園風景を思わせるような作品に、都会育ちの俺はどうしようもなく魅了されていた。


『あれ? ごめんなさい! お待たせしました!?』

 ブースに入ってきた先生は、開口一番慌てて頭を下げてきた。

『い、いえ! 俺が早く来すぎただけですから!』

 俺は両手と首を振った。時間まではまだ十分以上ある。謝罪される理由がない。

『でも、お待たせしちゃいましたから。すいません、編集さんが早く来てるの珍しくって』

 先生、後のは言わない方がいいんじゃ? そう思って内心笑う。

 それが俺と先生の出会いだった。



 泉先生は、なんというか不思議な人だった。

 年上。十は離れていないけど、五以上は離れてる。けど、作家になってからはまだ日が浅い。社会人を経験してからからの脱サラ組。

 しかし、そのせいか作家には珍しいくらいにできた人で面倒見がいい。打合せの中で雑談をしてれば俺の相談に乗ってくれたりもして、どっちが担当なのかわからなかった。

 ただ初対面の時も思ったけど、どこか抜けている。


『ん? なに?』

 ある日、ぼんやりと先生の顔を見てると、先生は不思議そうに首を傾げた。

『いえ。泉先生、オシャレとかされないのかなと思って』

 失礼ともとれる発言だけれど、そんな軽口を叩けるくらいには俺は泉先生を信頼していた。

『なによ。藪から棒に』

 案の定、先生は怒った様子もなく笑う。

 そんな先生はいつもメガネで髪もボサボサだ。服も昔の着古しで毛玉がついてる。

『いや、せっかく元は悪くないんですから、もっと身だしなみに気を遣えばいいのになと』

『それって褒めてるの? けなしてるの?』

『もちろん褒めてますよ』

『調子いいんだから』

 そう言って呆れたように先生は苦笑した。そんな顔もやっぱり悪くないよな、と思っていた。仕事の付き合いじゃなければ、惚れてしまいそうなくらいには。


 だから、先生の作品が売れないことに焦った。

 何とかしようと近隣の書店を回った。

 そして、出版社から続作を出せなくなった時は何とかしようと奔走した。

『矢作君。気持ちはわかる。けどな、うちも営利企業なんだよ』

 俺も悔しいけどな。そう言って背を向けた小出副編集長の姿に、俺は絶望した。


『うちの出版社では、先生の続刊を出せなくなりましたっ!』

 先生の顔を見ることもできず、俺は頭を下げた。

『矢作君。まずは落ち着いて座って』

 そんな俺に、泉先生はいつもの調子で言った。

 そして何でもないことのように新作の売り上げを聞き、挙句お礼を言った。先生の作品を売ることも守ることもできなかった俺なんかに。

『ありがと……その読者の感想だけが、私の誇り』

 そして、最後に似合いもしない格好の付け方をして。俺が好きだった笑顔を残して。

 彼女は、永遠に俺の前から去ってしまった。


『なにやってんすか』

 先生の訃報を知り、俺は声を漏らした。俺が、俺が先生を守れていればと吐き気とめまいがした。

 ただ、すぐにトラックに轢かれそうな子どもを助けて代わりに死んだと聞いて。

 バカなくせに、抜けてるくせに。

『本当に、どこまでお人好しなんですか。先生は』

 俺はどうしようもないくらい。本当に心の底から、嗚咽おえつした。


  ◇◇◇


 それが全て。

 泉先生と俺の、楽しくも儚く、温かくもどうしようもない記憶。

 だから、どうしようもないから。思い出したくないから。

 俺は封印したかのように、彼女のことを思い出さないようにしていた。

 この八年余り。

 先生の作品に触れることはなかった。思い出すことはなかった。

 それを今さら。


 そんな風に思って、フリーズして。

 ふいに、おかしくて笑ってしまった。

 八年余り。

 思い出すことがなかったと言っておきながら、すぐに泉先生が死んでからの月日をわかってしまう自分に。


 その記憶に手を付けたくはない。

 でも、俺は編集だから。多くの作品に触れることは絶対に悪いことじゃない。

 だから、俺はその作品をクリックした。


    ◇◇◇


 チュンチュン甲高い鳥の鳴き声に、我に返った。

 呆然として頭を仰向けて、天井を見た。

 とめどなく頬を伝ったものが乾いていた。

 泣いた。泣いていた。どうしようもなく。


 これは奇跡だ。

 文章の中に、あの人を見た。文章の中でなら、あの人を思い出せた。


 届いてた。

 あなたの、あなたと私の作品は、確かに誰かに届いていましたよ。


 生きていた。

 泉千花は小さくても確かに小説の世界に存在していて、こうして今も生き続けているんだ。


 そのことがどうしようもなく嬉しかった。

 そのことがどうしようもなく誇らしかった。


「ありがとう」


 どこの誰とも知れない、画面の向こうの誰かに言った。


「本当にありがとう」


 そうだ。

 こんな話を。こんな優しい気持ちにさせてくれる作品をあの人は書いていたんだ。


 だから思う。

 どうか一文字でもいい。

 少しでも書き続けてほしい。

 趣味でもいい。なんでもいい。

 ただただあなたに。泉千花の影を追うあなたに書き続けてほしい。


『泉先生、申し訳ありません!』

 でも、思う。

 未熟だった自分を。

 もっと言うべきこと、するべきことをできなかったどうしようもない後悔を。


 

 だから、その両方を届けるために、俺はキーボードに指を置いた。

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