幕間 妹

     妹

〈二〉


「どこかの国の男に嫁ぐためでもなく、売春宿でもなく、〈ヒエムス〉という組織に売り払ったことこそ、母の愛の表れなの」

 プロイがそう語るたび、ノーンは苛立ちを新たにする。

「将来、わたしがひとりでも生きていけるように、飢えないように、ミツバチという職を選んでくれたの」

 プロイは同じ意味合いの話を何度もする。「だから給料の七割を母に送るのだ」とまるで自慢するように続ける。

 実際に自慢話なのだろう、とノーンは心の中で舌打ちをする。宝石プロイというその名を聞くだけで彼女が愛されて生まれてきたことがわかる。

 ノーンなどという適当な名前とは全然違うのだと、思い知らされる。

 ノーンはミャンマーの──住人たちはミャンマーではなくビルマだと言い張っていた──タウンジーという町で生まれたらしい。イギリスの統治下にあった時代には南シャン州の州都だったこともありそれなりに発展し賑わっていたはずだが、僅かばかり記憶に残るタウンジーは妙に薄暗い。

 今ならドローン爆弾でできたクレータめいた町だと評するだろう。周囲を山脈に囲まれ、空ばかりがやたらと広い町だった。見所といえば無数の仏塔が並ぶカックー遺跡くらいのもので、観光客よりもヤンゴンから避暑にくるミャンマー人のほうが多い。

 けれどノーンは自分の子供時代を覚えていない。ノーンと名付けられていたからには姉がいたのだろうが、その姉はおろか親の記憶すらない。

 ノーンの記憶はミツバチ候補生として、脳に杭を──生体コンピュータだとあとから教えられた──打たれた瞬間から始まっている。おおよそ七歳くらいのときだ。

 首の後ろ、頭蓋骨と首の骨との隙間から冷たい感触が脳へと侵入してくる不快感と吐き気、本能的な怖気がノーンの最初の記憶だった。

 局部麻酔のおかげで杭を挿入する注射針の痛みは感じない。にもかかわらず脳の表層に寄生虫が根を下ろす感触がはっきりとした。

 ──なにかに侵される。自分が変質する。もはや人間ではない。

 そんな言い知れぬ恐怖が、感ずるはずのない痛みとして脳を締め上げた。とはいえ、混乱したのは杭を打たれて数日のことだ。

 杭が脳に馴染み、ミツバチとしての訓練が進むにつれ、ノーンの世界は劇的に変化した。

 共同生活を送る仲間たちが、はるか遠方で羽音を立てる顔も知らない仲間たちが、まるで我が身のように感じられるようになったのだ。

 家族だった。いや、家族よりずっと親しく愛おしい存在に思えた。

「ミツバチの巣は」と教育係が言う。いや、ミツバチ仲間の誰かがそう考えたのかもしれない。「それ全体がひとつの家族なの。ひとりの女王蜂から生まれた、ひとつの血統で成り立つ、共同体。わたしたちの血統は脳に打たれた杭だよ。みんな同じ規格の杭を持っているの。だから操る言語が違っても、羽音だけで意思の疎通ができるようになるの」

 昆虫としてのミツバチの生態を語っていたのか、対ドローン兵器としてのミツバチの、あるべき姿を語っていたのかは定かではない。どちらにしろ同じことだ。

 ──ミツバチは言語ではなく、羽ばたきで意思の疎通をする。

 ミツバチHoneyBeeは、ミツバチの羽音を鼻歌で奏でる。血液が体内を巡る音、骨密度、軟繊維。鼻歌の音程に個体差こそあれ、脳に根を張った杭は全て同一規格だ。鼻歌がミツバチたちの全身を震わせ、杭が周波数を調節し、金属繊維で編まれた日傘の内張が振動を増幅する。

 ノーンの羽音は隣の仲間の羽音と同調する。隣の仲間はその隣の仲間と、またその隣の仲間と同調し、同じものになっていく。ノーンの視る光景は隣の仲間にも視える。隣の仲間が考えていることはノーンにも伝わる。

 ヒエムスという組織で作られたミツバチたちは、各国へ散っても家族だった。常に仲間たちの脳へとアクセスできる。誰もが自分の持つ情報を仲間に開示している。敵味方識別装置IFFは存在しない。ミツバチであるという事実だけでノーンはノーンたちなのだ。

 理論値ではあるものの、日傘が増幅する羽音の届く範囲に仲間がいれば、それを中継点として、どこまでも知覚を広げられる。

 だからノーンは、イェリコの顔を知っていた。

 空港から出てくるマルグッドの──ミツバチを管理監督する立場である大人の──隣を歩く少年を見た瞬間、なにが起きたのかわからなかった。

ミツバチフューン殺しの」プロイが呆然と呟いた。「スズメバチトゥァ・ターじゃない……」

 ミツバチはみんな家族であり、同一個体だ。仲間の死は、自分の体の一部をえぐり取られるようなものだ。

「どうして」とプロイが頬を強張らせた。

「仕方ないよ」ノーンは、声ではなく鼻歌で伝える。「マルグッドはミツバチじゃないんだから。わたしたちの苦しみなんてわからないよ。でも」

「うん」とプロイは頷いた。「これが大事な任務だってことはわかるよ」

 知らされていない、ということは、知る必要がない、ということなのだ。

 マルグッドは平然と少年を──仲間殺しの少年を自分の「助手」だと紹介した。

 その言葉でノーンは理解した。彼は正当な、マルグッドの助手なのだろうと。つまりノーンではなく、ノーンの仲間なのだ。

 案の定、彼らとともにピックアップトラックに乗り込んだ夜、給油に立ち寄ったガソリンスタンドでマルグッドはそっと、ノーンだけに耳打ちした。

「あの子を、知っているよね?」

「トゥァ・ターでしょう?」

 うん? と首を捻ったマルグッドに、ノーンは「スズメバチのこと」と答える。

「ミツバチを食べる、肉食の蜂」

「ああ」マルグッドは「タイ語か」と頷いた。「事実は少し違うんだけど……まあ、そうだね。あの〈血のカパル・チャルシュ事件〉の関係者だね」

 ガソリンスタンドの明りがピックアップトラックの荷台を照らしていた。仔犬のように身を丸めて眠っている少年が見えた。確かに、トルコの旧市街を壊滅させるテロが起こせるようには思えない。話してみた印象も母犬とはぐれた仔犬というイメージが近い。

「アレを、どうするの?」

「ボクの助手にしたいと思っているんだ」

「助手って、どっちの?」

 マルグッドは「ボクのだよ」と繰り返す。「ヒエムスの助手は間に合っているからね」

「そう」とノーンは頷く。ピックアップトラックの後部座席で口を開けて眠っているプロイの横顔を見る。

「……プロイには?」

 マルグッドは太い指先を口元に当てた。おそらく彼の表情が動いていれば、薄く笑っていたのかもしれない。

「内緒だよ」彼は声にはせず、唇の動きだけで言う。「ボクときみとの、秘密」

 うん、とノーンは顎を引く。

 プロイは家族だ。同一規格の杭を持つ、ノーン自身でもある。だからこそ恵まれた環境のプロイが妬ましかった。

 けれどプロイはヒエムスの助手だ。マルグッド自身の助手であるノーンとは違う。マルグッドの助手は、マルグッドの家族も同然だった。

 それだけがノーンにとって心の支えだ。たとえ本当の家族の記憶がなくとも、妹という雑な名をつけられていようとも、ノーンはマルグッドに選ばれた助手なのだ。

「あの子も、家族になるの?」

「そうだよ」

「あの子と一緒に、なにをすればいいの?」

「ミツバチらしく、花から花へ蜜を集めて飛び回ってくれればいいんだよ」

 ボクだけのミツバチ。そう呼ばれて、ノーンは俯く。誰にも知られないように、ひとりではにかむ。

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