ミツバチとしかめ面 ④
始終しかめ面ではあるものの、話してみればマルグッドは気さくな男だった。
出国審査を抜けた先に並ぶ免税店で持ちきれないほどの菓子を買ってくれた。航空会社のラウンジでもシャンパンを呷り、仏頂面のまま冗談を言っては、顔なじみらしい地上勤務員を笑わせたりもしていた。
乗り込んだ飛行機の席は、ビジネスクラスだった。大きな座席に身を委ねるマルグッドはどこかの大金持ちだか社長のように落ち着いている。
「マルグッドはお金持ちなの?」
「まさか。違うよ、我々はいつだって貧乏なんだ」
「嘘だよ。貧乏ならもっと後ろの」イェリコは大きすぎる座席の上で体を捻って、通路の奥を見る。ちょうどエコノミークラスの乗客たちの搭乗が始まっているのか、ビジネスクラスと搭乗口との間に垂らされたカーテンが揺らいでいた。「狭い席に座るだろ?」
「そうだね」とマルグッドが頷くと同時に、「どうなさいました?」と柔らかい女性の声が降ってきた。
フライトアテンダントの女性がイェリコの席の真横で膝をついている。イェリコが席から身を乗りだしたせいで、用があると勘違いさせたらしい。
「あ、いえ、すみません、なにも……」
「酔い覚ましの水を頼みたくてね」
用はないのだ、と続けるイェリコを、マルグッドがおっとりと遮った。女性はすぐに「かしこまりました」と下がっていく。
彼女を無駄に働かせてしまったことに罪悪感を覚え、イェリコは大人しく座り直す。その膝に、マルグッドの大きな手が載せられた。
「用がない、などと言ってはいけないよ。そう言ってしまえば、きみはただの落ち着きのない乗客になってしまうし、彼女も勘違いをした接客係になってしまう。本当の気遣いとは、その人にちゃんと仕事をさせてあげることだよ」
覚えておきなさい、とマルグッドは窓の外に向かって言う。
うん、と頷きながらイェリコは彼の視線の先を追う。関西国際空港へとつながる長い橋が海上に横たわっている。ちょうど自動車道の下を列車が走ってくるところだった。
白い大きな影が併走していた。荷物搬送用のドローンだ。いくつものドローンが渡り鳥のように群をなしている。
「
覚えておきなさい、とマルグッドはフライトアテンダントに対する態度を教えるのと変わらぬ抑揚で言う。穏やかに、そのくせ『無意味に』と強い言葉を選ぶ。
うん、とイェリコは声もなく頷く。荷物を運ぶ機械のハチは本当に無意味だろうかと考えながらも、再び「うん」と頷く。
乗客たちを飲み込んだ航空機は、ドローンたちより遙か上空を飛ぶ。仄かに宇宙の明度がわかる高度だ。ミツバチはいない。
花がないからだ、と閃くように思ってから、自身の平和な思考に顔をしかめた。
戦場のミツバチたちに、花は必要ない。
イェリコは自分の手を見る。空っぽの手だ。もうずっと、ドローンの操縦コントローラを触っていない。きっともう飛べない。国際的なレースに求められる速度に、イェリコの眼と手は追いつけない。
ドローンは、自分自身の延長にあるべきものなのだ。自らの手が翼となり、視界はドローンカメラと同調する。本体から送信される映像とVRゴーグルで受信再生される映像との一秒以下のタイムラグを考えながらの操縦が必要なのだ。
イェリコはもう、その感覚を忘れかけている。
広い座席に身を沈めると、背中からかすかに航空機の振動が伝わってきた。瞼を下ろして、ドローンのモータ音を思い出す。低く始動し、甲高く唸る雄ミツバチだ。奈良の家から押収されていったイェリコのドローンたちは、どうなるだろう。たとえ警察から返却されたとしても、家族は彼らを飛ばしてはくれないだろう。
自分が、彼らの翅をむしってしまったのだ。
イェリコは愚鈍な航空機の中で、彼らの感覚を忘れ始めている自分の手を強く握りこむ。
チェンマイ国際空港での入国も実にスムーズだった。
マルグッドが白いパスポートを出すや、人気のない通路へ案内されるのだ。空港ロビーへ出るまでに足を止めたのはパスポートに入国スタンプが押されるときだけで、マルグッドのスポーツバッグはもちろんイェリコのリュックサックさえ調べられることはなかった。
自動ドアを出ると湿気た熱風が押し寄せた。
「あっつ……」思わず呻きが漏れる。「え、暑。なんで? 三月なのに?」
「タイの北部だからね」
マルグッドは平然としている。枯れ草色のジャケットの下は半袖なのかもしれない。
「え、でもチェンマイって北半球でしょ? 日本と季節は変わらないはずじゃ……」
「うん。春だね」
「これ、夏の暑さじゃない?」
「冬の寒さに耐えた花が一斉に咲く季節だから、春だよ」
気温ではなく植物たちの芽吹きこそが季節を示す、というのがマルグッドの主張らしい。
「そうかもしれないけど……夏の暑さだよ」
口の中で不平を転がしながら、イェリコはパーカーを脱ぎリュックサックへ押し込む。薄手のセーターの下は下着なので、袖を肘まで押し上げるだけにする。
リュックサックを背負い直そうとして、空港の周囲がやけに開けていることに気がついた。高い建物がないのだ。所々に深い緑色の木々が茂り、舗装された道路の薄茶色が夕日で燃えるように揺らいでいる。
どことなく奈良を彷彿し、束の間イェリコは立ち止まる。
マルグッドは、そんなイェリコを大股で数歩置き去りにし、慌てて引き返してきた。
「どうしたんだい?」
「タイって……もっと混雑しているイメージがあって……」
「偏見だよ」わずかに語気を強めて断言したマルグッドは、そっとイェリコの背を押す。「
うん、と頷いて、イェリコは歩き出す。奈良の田舎町に似ていると思ったものの、空気の匂いが違った。ここは熟れて乾いた土の匂いがする。あの家は盆地の底に停滞する陰湿さが臭っていた。
空港前のロータリを横目に、マルグッドは迷う様子もなく空港建物の脇を目指す。
いくらも行かずに駐車場に出た。
歩行者用通路に設置された屋根の下で、ふたりの女性が手持ち無沙汰そうに体を揺らしながら待っていた。蒸し暑い気候に似合いの麻の半袖シャツとタイトなロングスカートを身につけ、体には緩く長い布を巻き付けている。
ふたりともが閉じた傘を手にしていた。雨が降る気配もないので日傘だろう。
「サワッ・ディー・クラッ」とマルグッドが片手を挙げる。
「サワッ・ディー」と女たちの声が重なった。
タイ語の挨拶だ。イェリコも小さく「サワ・ディー」と真似る。
ふたりの女性は目を輝かせてイェリコに近づくと「マルグッドの子?」「候補生?」と訛のある英語で尋ねてくる。ふたりともがイェリコより少し背が低い。歳は二十歳に届くかどうかだろう。日焼けした肌に映える大きな瞳が好奇心でくるくるとよく動いていた。
「助手だよ。あまりいじめないであげて」
ふたりの女性はクスクスと笑い合いながら身を翻す。駐車場に駐められた灰色のピックアップトラックに駆け寄り、手招きをする。
「彼女たちが」イェリコの背を押しながら、マルグッドが言う。「
太った夕日に照らされて、ふたりの纏う布が風にふわりと膨れては、しぼんでいく。花から花へと飛び回り、脚の付け根に花粉を丸く帯びるミツバチを想像する。
ピックアップトラックに乗り込む彼女たちはミツバチというよりも、萎れていく蕾に似ていた。彼女たちの色彩のせいだろうか。
「先に乗ったほうがプロイ、後から乗り込んだのがノーンだよ」
そう言われても、ふたりのミツバチの顔をまじまじと見る余裕はなかった。確認しようにも、ふたりとも車の中に隠れてしまっている。
「……ミツバチって、戦場のミツバチ?」
「そうだよ」
「ここは戦場なの?」
「これから往くところが、戦場かもしれないんだ」
怖いかい? と訊かれ、イェリコは黙って首を横に振る。そんなイェリコの頭に分厚い手を載せて、マルグッドは「大丈夫だよ」と囁く。
「ミツバチは、ボクたちを守ってくれる兵器なんだ。ボクらが怪我を負ったり死んだりするのは、彼女たちよりあとだよ」
それのどこが大丈夫なのだろう、と思ったものの、イェリコは黙って俯いた。
マルグッドの力強い腕が、イェリコをピックアップトラックの荷台に放り込む。マルグッドは自力で荷台に跳び乗って来た。
「きみ」マルグッドは悪戯を企む子供の語調だ。「寝袋で眠ったことはあるかい?」
ない、と答えるより先に、一抱えもあるふわふわとした塊が投げて寄越される。丸められた寝袋だ。
え? と戸惑うイェリコに、マルグッドは足下を──ピックアップトラックの狭い荷台を指し示した。
「今夜のホテルへようこそ。朝にはメーソートだ。ゆっくり眠るといい」
つまり、これから夜通しこの荷台に揺られることになるのだ。寝袋を使うのも初めてなら、荷台に乗ることもそこに横たわることも初めてなのに。
「眠れる気がしないんだけど……」
「寝ておかないと体がもたないよ」
「……メーソートって、どこなの?」
「中継地だよ」
イェリコは目眩を覚える。抱えた寝袋の柔らかさに顔を埋めて、無意味な呻きを漏らす。頭上から、低いモータ音が降ってきた。
条件反射で顔を上げるが、ドローンらしき影は見当たらない。
んーん、ん、と切れ切れに響くモータ音はドローンの飛行音よりも、ハチの羽音に似ていた。実際にミツバチが彷徨っているのかもしれない、とイェリコは街の所々に茂る緑に顔を巡らせる。
ピックアップトラックのエンジンが始動した。雨風に似た排気ガスのにおいが漂う。ミツバチも、雨と夜の気配を嫌って巣に帰るだろう。
ふたりの〈ミツバチ〉とし
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