2

    ミツバチとしかめ面 ③

〈2〉


 ひとしきり泣いたあと、イェリコは男に連れられて国際線の出発ゲートにいた。

 初めて手にしたパスポートには、小学校の入学式で撮った集合写真が用いられていた。

「パスポートの顔写真って」とイェリコは英語で言う。「何ヶ月以内に撮ったものに限るって決められてなかったっけ?」

「大丈夫」男は息を漏らした。大きな手でイェリコの背をリュックサックの上から叩く。「子供の成長は早いから、問題ないよ。それにボクは」男は自分のパスポートの表紙を指す。「世界一強いパスポートを持っているんだ。同行者であるきみが出入国に手間取ることはないよ」

 男のパスポートには、真っ白いカバーが掛かっていた。中央には正六角形を三つ連ねたマークがメタリックな緑色で記されている。そして国名が記されているべき場所には〈Hiems〉という見たことのない綴りがあった。

 国際的なドローンレースに参加してきたイェリコはさまざまな国旗や国名を目にしてきた。けれど六角形を三つ連ねた国旗やHiemsなどという国名は記憶にない。

「それ、どこのパスポートですか?」

「ヒエムスだよ」男はさも当然の口調で答える。

「ヒエムス……初めて聞く国です。どこの地域にあるんですか?」

「どこの地域にも、大抵あるよ」

 ふっと男は短く息を吐いた。笑ったのだろう、と思ったが、男の口元は相変わらず生真面目に引き結ばれたままだった。

「国じゃなくて組織なんだ。大きな、どこの国におもねることもない、公正な組織だから」

「組織なのにパスポートがあるんですか?」

「そう」男は大きく頷いて、保安検査場の長蛇の列を当たり前の顔で追い抜く。行儀よく並ぶ人々の視線を気にかける素振りもなく〈closed〉の札を立てているブースへ入っていく。

「ミツバチたちは、世界中の戦場を飛び回るからね。出入国で時間をとられているほど暇ではないんだよ」

「ミツバチ?」どうして国だの組織だのにミツバチ昆虫がかかわっているのだろう、とイェリコは首を傾げる。「なにかの隠語ですか?」

 男は唐突に足を止めて、振り返る。危うく男の背に突っ込みそうになり、イェリコも慌てて急停止した。まじまじとイェリコの顔を見下ろし、男はゆっくりとサングラスを外す。

 色素の薄い、ともすれば銀色にも見える瞳があらわになる。不愉快そうに刻まれた眉間のしわに、イェリコはいささか怯む。

「きみは」口を開いた男は、ひと呼吸置いてから「ああ」と自らの額を指でこすった。「勘違いしないでほしいんだけど、別に怒っているわけじゃないんだ。昔の怪我で顔の筋肉が動かしづらくてね。おかげでみんなからは『マルグッド』と呼ばれている。きみも、そう呼んでくれてかまわないよ」

「マルグッドって、どういう意味なんですか?」

「怒り顔、しかめ面。ボクの故郷の言葉だよ」

「それって悪口ですよね?」

「そうでもないよ。ただの愛称だ」

「本当はなんて名前なんですか? なんて呼べばいいの?」

「マルグッド」

 男はにこりともせず言い切った。つまり、本名を教える気がないのだ。

「……あなたの故郷って、どこ?」

「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」

「連邦? 共和国じゃなくて?」

「確かにボスニア・ヘルツェゴビナは共和国だけど、共和国の中にはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国があるんだよ。連邦とスルプスカの境界は首都のサラエヴォの道路の真ん中にも引かれているんだけれど……そういうことは日本では習わないのかな?」

 習わない、と答えかけて、やめた。小学校三年生から学校に通っていないイェリコが習っていないだけで、日本の子供たちが授業で教えられている可能性はあるのだ。

 イェリコは「さあ?」と誤魔化す。それ以上、どう反応してよいのかわからなかった。

 イェリコの知るボスニア・ヘルツェゴビナは共和国で、イェリコが生まれるずっと前に民族紛争があり、今では美しい街並みや世界遺産となった橋を目当てに観光客が訪れる国、という程度だ。それもインターネットで調べた情報にすぎない。

 ひとつの国の首都にふたつの国の境界線が存在する土地など、うまく想像することすらできなかった。

「ボクは」男は──マルグッドはうっとりとした抑揚で呟く。「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦にあるトラブニクの出身でね。坂の多い……川沿いに長く延びた美しい街なんだよ」

 へえ、とイェリコは再び曖昧に息を漏らした。故郷を懐かしむ男を少しだけ、妬ましく思う。イェリコは奈良を──家族と十一年間過ごした山に囲まれた街を、到底同じように語れる気がしなかった。

 マルグッドはサングラスをかけ直す。姿勢を正し、確かな歩みで出国審査へと向かう。端のブースはいつの間にか〈closed〉の札が外され、係員が待っている。

「さっき、なにを言いかけたんですか? 怪我の話の前」

「ああ。いや、この国の子供たちは『戦場のミツバチ』を知らないのかと思ってね」

 失望しているようにも聞こえる声音だった。イェリコはリュックサックのサイドポケットに手を伸ばし、スマートフォンを取り出す。インターネットアプリを起動させ、検索サイトに『戦場のミツバチ』と入力する。

 傘をさした子供の画像が何枚も表示された。

 子供と傘? と首を傾げたものの、画像に触れて検索内容を確認するより先に、マルグッドに呼ばれて顔を上げる。

 はっとした。

 金属探知機のゲートの奥から保安検査場の係員がイェリコを睨んでいる。イェリコを知っているのかもしれない。なにしろイェリコの顔写真はインターネットで世界中にばらまかれている。見知らぬ他人にとってのイェリコはドローン爆弾で民間人を無差別に殺害したテロリストなのだ。

 咄嗟にパーカーのフードを被った。指先でフードを引っ張り、顔を伏せる。

 奈良での日々が──小学校のクラスメイトの冷笑や近隣住民の視線、警察官たちの事務的で低い声。そういうものがイェリコの体の中で渦巻く。

「オレの、せいじゃ、ない」

 イェリコは渇いた口のなかで、そう言い聞かせる。誰にも聞こえない声で、何度も自分に言い聞かせる。

 自分はただドローンを操縦していただけなのだ。操縦する機体は選べない。テロリストは爆弾を載せたドローンを準備した連中なのだ。自分は巻き込まれたにすぎない。

 イェリコは俯き、マルグッドの靴だけを見て検査ブースの前に立つ。背負っていたリュックサックを下ろし、パスポートとともにカウンタに置く。

 係員の視線が怖くて、顔が上げられなかった。フードを取ることもできない。自分とマルグッドの靴先を凝視して、体が震えてしまわないように全身に力を入れる。

 不意に肩に熱を感じた。マルグッドの分厚い掌がイェリコを支えるように置かれている。

「ボクの助手なんだ」マルグッドは自らの白いパスポートの表紙を示す。「彼も、ボクと同じ扱いで頼むよ」

 係員からの返答は聞こえなかった。

 彼の手に押されるまま、イェリコは保安検査場を抜ける。下ろしたばかりのリュックサックを肩にかけ直す。

 いつの間にかイェリコのパスポートはマルグッドの手の中にあった。飛行機のチケットも彼が持っているのだろう。俯いているだけで、保安検査が終ったのだ。

 横目にそっと検査場を窺えば、荷物や身につけているものを外す人たちが見えた。金属探知機で引っかかっている人も多い。検査場前の行列は遅々として進まない。けれどイェリコはベルトを外すこともなく、リュックサックをX線検査にかけることもなく、あっさりと通り抜けた。ふたりが通った金属探知機は電源すら入っていなかったように思う。

 初めて飛行機に乗るイェリコですら、これが特別扱いなのだと理解できた。

 ──きみは、ボクのものになった。

 そう言ったマルグッドの仏頂面を思い出す。さきほども、助手だと紹介された。

 どんな仕事に就いていればこんな待遇になるのだろう、とマルグッドの横顔を仰ぐ。サングラスのつるの下、こめかみの辺りに白い傷痕があった。

 顔の筋肉が動かしづらくなるほどの傷とは、きっと一カ所ではないのだろう。

「マルグッドは」

「ん?」と彼の視線が落ちてくる。

「兵士なの?」

「違うよ」

「どうして怪我をしたの?」

「戦争があったからだよ」

「兵士じゃないのに、戦争で怪我をするの?」

「するよ。きみだって……」マルグッドは言い淀み、緩く頭を振った。「いや、そうだね。きみは、知らないんだ」

 マルグッドはイェリコの肩から手を離す。歩幅の差のせいで、たった二歩でふたりの距離が離れる。

「戦争ではね、兵士じゃない人たちのほうが傷つくんだよ。だからボクは、ボクのような子が出ないように、世界を飛び回るっているんだ」

 イェリコは握ったままのスマートフォンを見る。戦場のミツバチという言葉を検索したときに出て来たのは、子供の写真だった。

 傘をさしたあの子は、イェリコといくつも変わらない歳に思えた。マルグッドは戦争を知らないイェリコの肩から手を離して、通路の先を歩いている。

 イェリコはゆっくりとパーカーのフードを外す。世界がぱっと明るくなった気がした。

 広く明るい通路を、マルグッドの大きな背が堂々と進んでいく。

 雷に打たれたように背筋が伸びた。彼の大きな歩幅に、小走りで追いつく。隣に並び、精一杯大股に歩く。

 どこへ行くの? とは訊かなかった。母にも、家族にも捨てられたことを、胸中で噛みしめる。拾ってくれたマルグッドだけが、今のイェリコにとって全てだった。

 イェリコはマルグッドの歩調に必死に着いていきながら、リュックサックにスマートフォンを仕舞い、背負い直す。

 戦場のミツバチを知らない子供のままでいたくはなかった。

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