ミツバチとしかめ面 ②

 不自然にドローンレースが中断された翌日、イェリコはテロを知った。インターネットを駆け巡るニュースに青ざめた。

 けれどまさか、自分が関係者として捜査線上にいるとは思いもしていなかった。レースの運営者から連絡もなかったために油断していたのだ。

 イェリコは家族の誰にもドローンレースの件を相談しなかった。相談できなかった。

 インターネットに、イェリコの個人情報が書き込まれ始めたせいだ。情報だけではない。幼少期の写真や小学校の入学式の集合写真、母の隠し撮りから父の勤め先まで、次々に曝かれていったのだ。

 家の前で見知らぬ大人が騒ぐようになった。母も父も首を傾げるだけで、理由はわかっていない様子だった。

 だから表向きは何事もなく二週間が過ぎた。

 そして二週間後の早朝に、何台もの白いワンボックスカーが家の前に停まった。

 ──警視庁

 そう書かれた車に、田舎町は騒然となった。

 そのくせ近隣住民は誰もイェリコたちに直接事情を問うことはなかった。イェリコの家から〈警視庁〉と記された段ボール箱がいくつも運び出されても、イェリコ自身が父に付き添われて警察署に入っても、周囲の人々は黙って見ているだけだった。

 そもそも、彼らは端からイェリコと白人である母とを好奇の目で見ていたのだ。余所者を観察し、ちょっとした行動を監視し、「これだからガイジンは」とせせら嗤うネタを探していたにすぎない。

 ひょっとしたら、イェリコを学校から「追い出した」せいでテロなどにかかわったのではないか、という憶測が流れていたのかもしれない。彼らは単に、自分たちの行動がテロの一因だと噂されることを恐れたのだろう。

 だからマスコミが町に押し寄せても、野次馬たちがわざわざイェリコの家の前からインターネット配信を始めても、黙って静かに眺め続けたのだ。

 母はそれに耐えられなかったのだ。

 結局、イェリコたちドローンの操縦者は爆破テロのことを知らず、ただ爆弾を積んだドローンを操縦させられていたに過ぎない、と結論づけられた。

 だからこそ警察も、イェリコがあの家から余所へ移ることを許したのだ。

「インターナショナルスクールに、行ってみない?」

 そう囁くように提案した母は、すでにイェリコを捨てることを心に決めていたのだろう。

 壁や天井に飾っていたドローンは全て、警察に押収されていた。学習机に置いていたパソコンもディスプレイごと持ち去られ、ランドセルの中からは落書きした教科書からノートまで抜かれていた。

 そんな空っぽの部屋を戸口から見回して、母は独り言のように小さな声で続けたのだ。

「全寮制のところなら、ここよりずっと静かに過ごせるから……小学校を卒業するまで、もう一年もないけれど、行ってみない? 小学校を卒業するころには、みんな忘れているはずだから。ね? 誰も知らないところで、やり直してみない?」

 思い返せば、母はインターナショナルスクールの話をしている間、一度もイェリコを見なかった。そのときは気づかなかった。なにしろ小学校に通えなくなってから母の瞳をまっすぐに見つめた記憶がないのだ。学校へ通えないことが後ろめたくて、クラスになじめない自分自身が恥ずかしくて、いつからか母の視線を避けていた。

 おそらくあの一件以来、母もイェリコを見ることを止めたのだ。

 イェリコは真っ赤なパスポートの縁に触れる。足下に置いたリュックサックに視線を落とす。インターナショナルスクールの寮を見学しに行くのだと言われていたために、荷物はこれひとつきりだった。コーヒーショップから出て行く母の顔すら見ていなかった。今日、母がどんな洋服を着ていたのかも思い出せない。

 目の前には枯れ草色のジャケットを着て、サングラスで表情を隠した男が座っている。

「さっき、オレがあなたのものだと言ったけど、オレはもう二度と、母さんに会えないの?」

「会いたいのかい?」意外そうな抑揚だった。それでも男の表情は変わらない。不機嫌そうに頬が引きつっている。「チンティアは、家族に嫌気がさしているのはきみの方だ、と言っていたけれど?」

 家族に、ではない。イェリコは自分自身に嫌気がさしていたのだ。今さらそう気づく。クラスメイトからの冷笑や近所からの眼差し、そういうものに怯えて家から出ることもできなくなった自分自身が、いやだったのだ。その苛立ちを家族に向けていたのだ。

 その結果が、これだ。

 鼻の奥がつんと痛んだ。唇の端が勝手に引き下がる。泣きそうだった。それが身勝手な涙だという自覚はあった。

 イェリコはテーブルに顔を伏せる。両腕で顔を囲って、涙を隠す。

 後頭部が重たくなった。男の掌だ。じんわりと熱を感ずる。イェリコの髪を撫でる手は男の話す日本語に似て、妙にぎこちない。

 子供が苦手なのかもしれない、と考えてから、そうだった、とイェリコは嗤う。自分はまだ十一歳で、子供なのだ。

 どれほど大人のふりをしてメールを書こうと、大人と遜色なくドローンを操ろうと、母に捨てられれば泣いてしまう。そんな弱い子供なのだと、イェリコはようやく認める。

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