第一話 ミツバチとしかめ面
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ミツバチとしかめ面 ①
〈1〉
関西国際空港から出発していくリムジンバスを、イェリコはガラス越しに眺めている。行き交う人々には子連れが多い。もう春休みだっけ? と考えてみたものの、学校に行かなくなって久しいイェリコには三月の半ばの今が春休みなのか否かもわからない。
国際線の入国ゲートの前にあるコーヒーショップの席に座ったのは、ほんの十分ほど前のことだ。白いカップに満ちたカフェオレからは湯気が上がっているが、一緒に注文したホットドッグはすでに食べ終え空の皿だけが白々しく店内照明を反射させていた。
そんなイェリコの前には、母が注文したホットコーヒーが薄茶色い渦を巻きながら鎮座している。母はいない。コーヒーをテーブルに置くやストールを外しもせず「待っててね」と英語で言って店を出てしまったのだ。
おそらくトイレだろう、とさほど気に留めなかった。パーカーのフードから垂れた紐を手持ち無沙汰に指に巻き付けつつ律儀に母を待っている。
昼を少し過ぎた時間のせいか、コーヒーショップにはひっきりなしに客が入ってくる。母の戻りが遅い気もしたが、なにしろ広い空港の中だ。多少時間がかかるのも仕方がない。
とはいえ暇を持て余す。パーカーの紐を手放し、リュックサックのサイドポケットからスマートフォンを取り出す。別段見るべきものも見たいものもなかったがインターネットアプリを立ち上げ──すぐに終了させた。少し迷ってからパズルゲームを起動させる。
あれから──急に中断されたドローンレースの夜からこの二ヶ月の間、イェリコはインターネットに接続することを家族から禁じられていた。
ドローンテロのニュースが流れるせいではない。爆発したドローンの操縦者こそがテロの主導者だという意見が書き込まれたためだ。
イェリコをはじめとする五人の操縦者は居住地から勤め先、通っていた学校から幼少時代のちょっとした悪戯まで、あらゆる個人情報を
イェリコは素直に言いつけを守っている。真新しいスマートフォンで操作するのはゲームと家族間のメッセージだけだ。イェリコだって自分への罵詈雑言など見たくもない。
不意に手元が陰った。ようやく母が戻ってきたのかと顔を上げる。
見ず知らずの男だった。
とっさにイェリコは腰を引く。逃げようとして、椅子が上手く動かせずに尻餅をつくように座り直す。
イェリコの顔は、ワールド・ワイド・ウェブに曝されているのだ。爆弾ドローンの操縦者として──テロリストとして。
瞬間的にインターネット配信者かと思ったが、長身の男の手に配信機器らしきものは握られていない。枯れ草色のジャケットを着て、肩に大きなスポーツバッグを提げていた。ぼさぼさの黒髪と大きなサングラスのせいでひどく威圧的に感ずる。
「ユイ・イェリコ?」
男の低い声が降ってきた。父や祖母のような「エリコ」という日本語的な発音ではないことを、強く意識する。
「はい」と日本語で答えるべきか「Yes.」と英語で応ずるべきかを半秒だけ考え、黙って顎を引くだけにした。
男は大きく頷くと、イェリコの向かいの席に座る。テーブルに残されていた母のコーヒーカップをわしづかみにして、冷め切ったコーヒーをすする。
「チンティアから、聞いている、と思う、けれど……」
チンティアとは、イェリコの母の名だ。とはいえ、その発音で耳にするのは久しぶりだった。父も祖母も、近所の人も母の名はシンシアだと思っているはずだ。
母の名を滑らかに発音したわりに、男の日本語はぎこちないものだった。訛こそ感じられないが、一音ずつ考えつつ発しているような間があるのだ。
イェリコは「
「母の知り合いですか?」
男は驚いたように唇を半開きにしてから「Well……」と英語で言い淀んだ。
「きみは、英語をどの程度話せるのかな?」
「母はほとんど日本語ができなかったので、日常会話は英語で交わしていました」
「うん」男は小さく鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。「彼女はあまり勤勉ではなかったから……」
「母の知り合いですか?」
「知り合いというか、チンティアの弟の結婚相手の母方の祖父の養子の息子で……」
「つまり他人?」
「いいや」男は妙に強い語気で否定する。「遠縁ではあるけれど、家族だよ。少女だったころの彼女を少しだけ知っている」
イェリコは苦笑してから、手を付けていなかったカフェオレを一口すする。とっくに冷めているせいで、舌にざらりとした違和感が残った。
「それで? 母は?」
男はジャケットの内ポケットから赤い冊子を取り出し、テーブルに置いた。イェリコからはその正体がわからない。男の大きく分厚い手が冊子に被せられたままだからだ。
「これを……預かってきた。チンティアは、ここには戻らず、ナラの家にも帰らず、他の場所で暮らす」
ナラとは奈良のことだろうか? ここにも戻らないということは、母はイェリコをこの店に置き去りにしたということだ。
「え?」間抜けな声が出た。「え? なんで? だってこれから東京で、インターナショナルスクールの寮を見学するって……」
言っていたのに、と続けてから、イェリコは自分が日本語を話していることに気がつく。動揺したせいでつい戻ってしまったのだ。
イェリコは大きく息を吐くと、ゆっくりと同じ主張を英語で繰り返す。しどろもどろになっているのを自覚した。男の日本語をぎこちないと思ったのに、今はイェリコ自身が拙い英語を話している。その滑稽さに余計な焦りが湧き上がる。
男は黙って聞いていた。何度も言い直すイェリコに助け船を出すこともなく、そのくせ急かすこともせず、冷め切ったコーヒーをちびちびとすする。
一通りイェリコの言葉を聞いた男はゆっくりと、ヒアリング能力の怪しい子供に伝える速度で「きみは」と口を開いた。
「ボクと、往くんだ。チンティアは、きみを、捨てた。きみは、ボクのものになった。だから、きみは、ボクの助手。いい?」
男の大きな掌がテーブルから離れる。その下に隠されていた赤い冊子が、現れる。
──パスポートだった。
イェリコにはそれを申請した記憶がなかった。受け取りのための本人確認をしたこともない。つまり、これは母が勝手に取り寄せたものなのだ。
パスポートの申請にはどれほどの時間が掛かるのだろう、とイェリコは呆然と赤いそれを見る。数週間はかかるはずだ。母はいつから自分を捨てるつもりで準備していたのだろう。
考えるまでもない。あのときだ。
あの、ドローン爆弾によるテロが明るみに出たときだ。
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