第二話 土とミツバチ

3

    土とミツバチ ①

〈3〉


 メーソートに到着したのは朝方だった。

 片側一車線の道路沿いを僧侶たちが列をなして歩いている。家々の前には住人らしき人々が並び、オレンジ色の布を肩から垂らした彼らが持つ鉢に米や果物を入れていく。砂だらけの道路に体を投げ出し、彼らのサンダルに恭しく触れる人も多い。

 イェリコはピックアップトラックの荷台の縁にもたれ、しょぼしょぼとする目を擦りながらその光景を見る。

 硬い荷台と馴染みのない寝袋、そして三月とは思えぬ暑さ。うとうととしては走行中の振動で目を覚ますという長い夜だった。

 運転が荒いわけではない。単純に、道の舗装が悪いのだ。

 ピックアップトラックの運転席には、女性が着いていた。畳んだ日傘を持っていた女性の片割れだ。もうひとりの女性は後部座席に体を横たえて眠っている。運転席の彼女も、後部座席の彼女も、体のすぐ横に日傘を置いていた。

 ハンドルを握っているほうがプロイ、眠っているほうがノーンという名だと、舌を噛みそうな悪路をひた走る長い夜にマルグッドが改めて教えてくれた。

 ちなみにチェンマイ国際空港を出発したときにハンドルを握っていた男性は、メーソートに着くや車を降りてどこかへ行ってしまった。今、助手席に座っている男性は、入れ替わりに乗ってきた雇いの運転手だ。

「もう少し往くと山岳地帯だからね」とマルグッドは言う。「彼女たちには本来の仕事に戻ってもらわないと」

 ──ミツバチは兵器なんだ

 マルグッドの言葉を思い出す。それなのに到底、彼女たちが武装しているようには見えない。手にしているのは畳まれた日傘だけだ。

 僧侶の列を横目に、ピックアップトラックは砂埃を巻き上げて北へと進んでいる。

 ごとごとと揺れる荷台で、マルグッドは器用にペットボトルのミネラルウォータを掌に出し、その少ない水で顔と首筋とを拭った。イェリコもまねをしてみるが、ボトボトと腕を伝った水が薄手のセーターを濡らすだけだ。

 思いがけない暑さのせいで、すでにセーターは汗を吸って湿気ている。不快感に舌打ちをして、リュックサックから肌着代りのTシャツを引きずり出した。

 荷台に身を屈めて、なるべく運転席のプロイから見えないように配慮しつつ、セーターを脱ぎTシャツを着る。湿気たセーターをぞんざいにリュックへ突っ込んでいると、「この先」とマルグッドの声がした。

「セーターはあると便利だよ」マルグッドはイェリコではなく、街並みへ話しかける。「山岳地帯は涼しいんだ」

 イェリコも周囲を見回す。片側一車線の道路に面して、金色の装飾が施された門が口を開けていた。寺院だ。白い壁で囲まれた敷地の中には金色の円錐状の屋根がいくつも生えている。通り過ぎる際に門の中を覗いてみると、金色のトラの像と、やはり金色の巨大な大仏らしきものが鎮座していた。

 日本の寺とは随分と趣が違う。僧侶たちが列をなして托鉢をしていた光景と寺院の豪奢な造りとは、あまりにもちぐはぐに思えた。

 イェリコは黄金の寺院から視線を逸らし、街並みを眺める。木造の二階建てや倉庫のような建物が木々に埋もれるように並んでいた。ビルなどの高い建物がないために、すでに街を脱して山中を走行しているような錯覚を抱く。

「山岳地帯ってここより山なの?」

「ここはまだ平地だよ」ニコリともせず、マルグッドは生真面目な口調で答える。

「……山に登るんですか?」

「行けるところまでは車だよ。ちゃんと舗装されている道が続いているからね」

 ほら、とマルグッドが指さす先で、片側一車線の道路が片側二車線の大きな道と交差していた。

 プロイの運転するピックアップトラックは片側二車線の幹線道路に入るとスピードを上げた。草の茂った中央分離帯が緩やかなうねりを描いてどこまでも延びている。

 幹線道路といっても、道沿いにあるのは塀や緑ばかりだ。ときおり自動車販売店や自動車修理工場の倉庫、珍しいところではコンビニエンスストアセブン-イレブンなどが現れては、木々の隙間に消えていく。どの建物も飾り格子のついた塀や茂った植物の奥に引っ込んでいるのだ。武装強盗が車で乗り付けてこないように、道路と距離をとっているのだろう。


 コンビニエンスストアで軽食とミネラルウォータを購入する他は、休憩のない旅程だった。

 厳しい日差しのせいで頬が熱を帯び始めていた。きっと翌日には真っ赤に腫れるだろう。母に似て白人よりのイェリコの肌は、日に焼けると炎症を起こすのだ。日焼け痕にはそばかすだかシミだかが散るだけで、肌の色が褐色に変わることもない。

 マルグッドのまねをしてミネラルウォータを掌に出し、熱を持った頬に当ててみる。ひやりとした感触はすぐに生ぬるくなり、腕を伝って肘から膝へと滴るばかりだ。

 リュックサックからセーターを引っ張り出し、頭上にかざす。風に煽られ、日陰が安定しない。生地を透過する陽光で目がチカチカとするばかりだ。

 そういえば本物の日傘があったな、と荷台から後部座席を覗き込む。横たわるノーンと目が合った。

 てっきり眠っているものだと思い込んでいたので、驚いて大きくのけぞってしまった。

 後部座席と荷台とを隔てる小さな窓にノーンの顔が現れる。大きな黒目を眠たそうに瞬かせて、口をぱくぱくと動かしている。おそらく「なにか用?」とでも言っているのだろう。残念ながらピックアップトラックの走行音と窓とに遮られて彼女の声は聞こえない。よしんば聞こえていたとしても、イェリコには彼女の言葉がわからない。

 イェリコはリュックサックの中からスマートフォンを取り出す。日本を出るときに仕舞ったままにしていたので充電にはまだ余裕があった。

 翻訳アプリを起動させて、日本語からタイ語への翻訳を選択してみる。数秒の沈黙があり、電波が拾えない旨の表示がでた。

 イェリコが頼りにしていた翻訳アプリは、通信環境のないここでは機能しないのだ。

 ただの機械の板と化したスマートフォンをリュックに放り込みかけて、思い留まる。

 起動させたのはメモアプリだ。小学校三年生までの授業と、これまで参加してきたドローン大会での記憶とを総動員して英単語を入力する。いまいち自信が持てず、入力した文字列を消しては入力し直す。

 イェリコの母は英語で話す人だったためイェリコが英会話で困ったことはない。けれど母に手紙を書く機会などなかった。英単語や文法などはすべて翻訳アプリに頼り切りだった。

 イェリコが画面を睨んでいる間、ノーンは根気強く後部座席と荷台との境にある小さな窓で待ってくれていた。単純に他にすることもなく暇を持て余していただけかもしれない。

 たっぷり二分も経ってから、イェリコはたった二単語を記したスマートフォンの画面を後部座席の窓に押しつけた。

 ──parasol日傘 jelaous

 ノーンは自らの日傘を胸の前に掲げてから、首を傾げた。少し考え込む素振りを見せてから、薄く唇を開く。

 むーん、と虫の羽音がした、気がした。咄嗟に顔を巡らせたものの、幹線道路を軽快に走行するピックアップトラックに追いつける羽虫などいるはずもない。

 急に環境が変わったことによるストレス性の耳鳴りだろう、と深く考えることなく視線を戻せば、ノーンの指先が窓越しにスマートフォンを叩いている。

 窓ガラス越しに操作ができるはずもないのに、と苦笑しつつスマートフォンを手元に引き戻す。

 新たな言葉を入力しようと画面に視線を落としたとき、妙なことに気がついた。イェリコが書き込んだ二単語の下に、新たな単語が入力されていたのだ。

 ──jealous羨ましい

 え? と声が漏れた。

 後部座席と荷台との間の窓ははめ殺しだ。ノーンがスマートフォンに触れることはできない。それなのに、イェリコのスペルミスを問う単語が出現しているのだ。

「え? なんで?」と呆然と呟いたイェリコに、マルグッドが四つん這いで近づいて来た。

「どうかしたかい?」

「触れないはずなのに、入力されてるんです……」

 スマートフォンの画面を示すと、マルグッドは「ああ」とさも当然のように頷いた。

「ミツバチだからね」

 また、ミツバチだ。

 イェリコの知るミツバチは花から花へと飛び回り、体に花粉の玉をつけて巣に帰っていく昆虫だ。

「ミツバチって……あなたの言うミツバチって、なに? 戦場のミツバチって、兵器って、どういう意味なの?」

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