第十六談

 翌朝、真昼は何事も無かったかのように学校へ登校した。


 桃香には昨晩の内にSNSで無事を知らせておいたが、教室へ到着するなり当人から弾幕のような謝罪と質問を浴びせられ、どう答えたら良いものかと返答に窮した。


 そばにいた恒美が会話を聞きつけると、その時の様子を誇張しながら身振り手振りを交えてドラマティックに語り始めたため、桃香の注意がそちらに移ったことは真昼にとって幸いであった。


 恒美が熱弁をふるっている最中、席に座っていた義丸と一度目が合ったが、すぐに義丸の方で目を背けてしまい、その後も積極的に話をするようなことはなかった。



 午前の授業が終了し昼休みを迎えると、恒美から話を聞いたのであろう花音が興味津々で真昼のクラスを訪れた。


 詩音は今日も一緒ではなかったが、花音は気にする様子もなく矢継ぎ早に昨夜の出来事を真昼に問いかけた。


 やはりここでも恒美の援護射撃は大きな助けとなっていたが、「ぶっちゃけ、大野君に変な事されなかった?」という問いには、真昼が口を開くよりも早く「あいつは二次元の女にしか興味無いから大丈夫だ!」と自信満々に語る恒美を、義丸が怒りとも悲しみともつかない顔でにらみつけていたのが印象的だった。



「じゃぁ、また明日ね」


 放課後、座りながら窓の外に目を向けていた真昼に声をかけると、桃香は教室を後にした。


(気にしてないフリしてるけど、やっぱり相当辛いんだろうな……)


 他人から見れば普段と変わらない桃香だったが、長い付き合いの真昼には何気ない仕草や声のトーンなどから吾藍に対する心労が手に取るように分かっていた。


(……とても言えないよね)


 真昼は机を覆い隠すように突っ伏した。あれは一体何だったんだろう?あれほど真昼の心を濃密に満たしていた恐怖感が、一夜明けて登校するころには、まるで大量の水で薄められたように希薄なものとなっていた。


もちろんあの場所の様子やそこで感じた事を今でも克明に思い返す事はできるが、それでも記憶に薄い膜を掛けられたような、どこか他人事のようにさえ感じていた。


 とは言え、真昼にとって思い出したくもない事実である事に変わりはなかった。


 そろそろ帰ろうかと机から顔を上げると、めずらしく義丸が1人で教室に残っていることに気付いた。


 特に何かをしている様子もなく、机の上でしきりに手を組み替えながら何事かを考えているようだった。真昼は立ち上がると、義丸の席へと向かって歩き出した。


「昨日の事、誰にも話してないんだ?」


「話したところで誰も信じちゃくれないでしょ」


 義丸は真昼を横目で確認すると、再び机の上に目を落とした。


「そうだよね」


 真昼は近くの椅子を引き寄せると静かに腰を掛けた。


「日向さん、結局、昨日のニワトリは何だったの?」


「うん――」


 真昼は事の次第を包み隠さず義丸に話した。義丸は真昼の語る不思議な体験談に驚いた様子も見せず、終始落ち着いた様子で耳を傾けていた。


「何か、まるで夢の中の話みたいだね」


 一通り話を聞き終わると、義丸は優しげな笑みを浮かべながら言った。


「ここんとこ自分でも信じられないことばっかり起きるんだよね」


「でも天照大御神なんて、随分とビッグネームから声がかかったもんだ」


「――信じてないでしょ?」


「いや、信じるよ。天照大御神かどうかは知らないけど、実際に昨日助けられてるしね。何か超常的な存在なのは間違いないでしょ」


「うん……」


 超常的、確かにその通りかもしれないと真昼は思った。


 持っているだけで相手の声が脳内に届く勾玉、人の言葉を理解して話すニワトリ。冷静に考えてみればどちらも日常的にはあり得ない代物だ。


「何にしても無事に帰ってこれたんだから、今度その神様と話すことがあったらお礼言っといてよ」


「そうだね」


 そういえばまだお礼を言っていなかったことを真昼は思い出した。しかし、それよりも真昼には義丸に伝えなければならないことがあった。


「……あのさ、失踪した栄谷君って……もしかしてあそこに」


 義丸は何も答えなかった。


「もちろんそんなこと無いって信じたいけど、あの神社で何か調べていたんでしょ?だったら――」


「栄谷君はそんなドジじゃないさ」


 真昼の言葉を遮るように義丸は言った。


「きっと、“手持ち5千円でどこまで行けるかチャレンジ”とか、そんなノリで無茶なことやってるんだよ。あの人、そういうの好きだから……」


 真昼も義丸もあの場所が死に直結していることを十分に理解していた。


 理解しているからこそ真昼は自分の抱えている不安を打ち明けてしまいたかった。理解しているからこそ義丸はその可能性を拒絶したかった。重苦しい雰囲気の中、時間だけが静かに過ぎていった。



「そろそろ帰るね」


 そう言うと真昼は椅子から立ち上がった。


「うん――気をつけて」



 7月9日土曜日、吾藍の失踪から1週間が経とうとしていた。


 3日ほど前に吾藍が家庭の事情でしばらく学校を休むということをクラス担任から聞いた。しかしそれが事実でないことを真昼は承知していた。


 吾藍はその容姿と持ち前の明るさからクラス内でもそれなりに存在感を示していた。

 不真面目というわけではないが表立って勉強をするタイプではなく、漏れ聞くところ剣道部にも所属しているらしかったが、そちらもそれほど熱心に取り組んでいる様子ではなかった。


 一見すると何事にも注力できない移り気な半端者の印象を受けるが、それでも周囲の評価は決して悪いものではなかった。


 気恐じすることなく誰とでも会話ができ、そのトゲの無い口ぶりや要領を押えた人付き合いの良さは、これまでの人生で培われてきたというよりも天性の才能さえ感じさせた。


 そんな吾藍がしばらく学校に来ないという話が出ると、初日こそ多少のざわつきがあったものの翌日からはその話題も鳴りを潜め、今では吾藍の休学に関心を示す生徒は事情を知る者を除いて誰一人いなかった。


 夏も本番に入り、連日の猛暑は生徒達の学習意欲を容赦なく削ぎ落としていった。


 それでも目前に迫った夏休みに希望を託しつつ日々の学校生活を邁進する。そんな平凡な日常が当たり前のように過ぎていく中、桃香に立ち込めた暗雲はその濃度を日ごとに増していた。


 憂いを含んだ目でぼんやり外を眺めていることが多くなり、真昼が話しかけても気付かないことが多々あった。


 そんな桃香の姿を見るたびに、不吉な憶測を抱える真昼の心は茨のツルで締め付けられるような耐え難い痛みを感じていた。


 吾藍の親友である恒美もまた心中を鉛色の雲に覆われていた。


 失踪当初は「あいつのことだから、突然ひょっこり帰ってくるだろ」と強がる素振りを見せていたが、日を重ねるにつれて、一を聞けば十を話すようなその饒舌ぶりが勢いを失い、四六時中顔に張り付いていたニヤケ面もいつの間にか悲嘆に暮れる詩人の表情へと様変わりてしいた。


 その落胆ぶりには流石の花音も心配になったようで頻繁に声をかけてはいたが、帰ってくるのは気の無い返事ばかりであり、会話は長く続かないようだった。


 教室内に溢れる活気とは裏腹に、真昼は日々やり場の無い陰鬱とした空気に押し潰されるような思いがした。



「それじゃね」


 午前の授業が終わり、桃香は部室に向かっていた。形だけの挨拶が真昼の痛んだ心に突き刺さる。


「ももちゃん!」


 真昼は勢いよく席から立ち上がると、去り際の桃香を呼び止めた。驚いたように振り返る桃香に真昼は精一杯の笑顔を向けると、努めて明るく語りかけた。


「もう地区予選すぐでしょ、がんばって歌わないとダメだよ!」


 呆然と真昼を見つめる桃香だったが、すぐに乾いた笑顔を作ると「ありがとう」と言い残し教室を後にした。


 桃香の後姿を見送る最中、何か大切なものを失ってしまいそうな漠然とした悲しみが胸中に湧きあがり、真昼はわけもわからず泣きそうになっていた。



 昇降口を出ると正午の熱気が心労極まった真昼を容赦なく襲った。真昼は噴き出す汗に嫌悪感を感じることもなく、ただ無気力に裏門を目指した。


「真昼ちゃん」


 不意の呼び声に真昼は後ろを振り向いた。そこには最近疎遠となっていた詩音が元気に右手を振りながら立っていた。


「あー、しおちゃん。今帰り?」


「うん、丁度帰るとこ。――真昼ちゃん辛そうだねー、まぁこれだけ暑いんだから仕方ないか」


 どこか影を落とした真昼の表情を暑さからの倦怠感と判断した詩音は、笑顔を浮かべながら無邪気に言った。


「そういえば、最近、お昼に花音と一緒じゃないけど、何かあった?」


「何もないよ。今週はたまたま都合が合わなかっただけ」


「それならいいんだけど――じゃぁまた月曜日ね」


 心身の疲労から1人になりたかった真昼は、早々と会話に区切りをつけて学校を後にしようとした。


「あ、ちょっと待って。私、真昼ちゃんに聞きたいことがあったの」


「え?」


 予想外の言葉に真昼は振り返った。詩音は真昼のそばに駆け寄ると、連れ立って日陰へと移動した。


「昨日花音に聞いたんだけど、月曜日に栄谷君って人を探しに諏訪神社へ行ったんだって?」


「あぁ、うん。結局何も見つからなかったけどね」


 真昼は疲れたように笑った。


「でも、本殿の奥のほうで迷っちゃったって聞いたけど?」


「……私がちょっと奥まで行き過ぎちゃってね。それで同じクラスの大野君って子に助けて――」


「どうしてそんな奥まで1人で行こうと思ったのかな?」


 詩音は話を遮ると、幾分か強い口調で問いかけた。


 驚いた真昼は顔を上げた。すると先ほどまでの温和な表情からは一変し、高圧的に刺すような視線を向ける詩音の姿がその目に映り込んだ。


 真昼は暑さとは別の何か嫌な汗を背中に感じた。


「どうしてって……」


 真昼が返答に窮していると詩音は更に距離を縮め、その整った顔を真昼の目の前まで近づけた。


「――ねぇ」


 冷淡な笑みを浮かべながら詩音は続けざまに疑問を投げかける。


「真昼ちゃん、あそこへ行ったの?」

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