第十三談

 真昼が再び隣室をのぞき始めると義丸は腰を屈めたまま立ち上がり、一番右側に置かれているディスプレイの下まで歩いていった。


 義丸はそこから部屋の中央を確認しようとしたが、ディスプレイの左側にはアームの付いた書見台のような物が置かれており、それが丁度目隠しとなってこちらからの視界を遮っていた。


 やれやれといった面持ちで義丸は再び腰を落とすと、今度は中央のディスプレイに向かってアヒルのように歩き出した。



 ――それは僅かな時間の出来事だった。


 真昼が中央の女性を観察している最中、女性はため息を吐いたかのように大きく肩を落とした。


 そして、今までは隠れていた女性の右手が肩の位置まで持ち上がると、手にはめている白い手袋を反対の手で下に引っ張るような動作を行った。


 恐らくは、ずれ落ちて気になった手袋をはめ直すための行為だと思われるが、その白い手袋が何かの液体によってべっとりと変色している様子が真昼の網膜に焼き付いた。


 真昼は体の中心から急激に熱が失われていくような感じがした。


 手袋に付着していた赤い液体がどうしても人間の血液にしか見えなかったからだ。


 いつの間にか台の脇に立っていたもう1人の女性が、気味の悪い笑みを浮かべながら奇妙な身振りを交えて中央の女性に指示を出しているような様子が見えた。


 中央の女性は更に上半身を前に屈めると、左手で何かを懸命に押さえつけるようにして右腕を小刻みに前後させ始めた。


 真昼は人形のように硬直したまま、その光景から目を離せなくなっていた。



 義丸は中央のディスプレイの陰から部屋の通路側に誰もいないことを確認すると、真昼の話から察するに、奥の部屋にいる人物は2人だけなのだろうと見込みを立てた。


 しかし部屋の右奥にまだ誰かが隠れている可能性も否定できない。義丸はかすかに舌打ちをしながら再び右側のディスプレイの下へと移動しようとした。


 義丸が腰を屈め始めたのとほぼ同時に、真昼は吊られていた物体が落ちるようにその場へストンと座り込んでしまった。


「日向さん?」


 驚いた義丸は真昼の隣へと駆け寄った。


 真昼はうつむき気味に虚ろな目を潤ませながら床を見つめており、血の気を失ったその顔には、何か見てはいけないものを見てしまったかのような、恐怖や苦悶、嫌悪や忌諱きいといった悲観的な色が浮かんでいた。


「日向さん!」


 真昼の右肩を揺すりながら義丸は再度呼びかけた。しかし真昼はその場に座り込んだまま動くこともなく、か細い声で「やだ……やだ……」と呪文のようにつぶやき続けているだけであった。


 常軌を逸した真昼の様子に困惑しつつも、義丸は真昼の体を優しく支えながら近くの壁にもたれさせた。


(大きな動きはなかったはずだ……一体何を見たんだ?)


 動揺する精神を無理やり落ち着かせながら義丸は隣室をのぞき込んだ。


 そこに見えたのは先ほどとあまり変化の無い光景だった。


 大きな台の前に立つ白衣を着た異形の女性、脇に立っているのは真昼が見たと言っていたもう1人の女性だろうか?楽しそうに手を叩きながら高笑いをしている姿がうかがえる。


 義丸はその女の首元で何かが妙に揺らいでいることに気付いた。女の高笑いに合わせて肩が上下する。すると首元の何かも不規則に揺れ動く。それは肩の上でのたうち回る大きな芋虫の集団のようにも見えた。


(なんなんだ、一体……)


 今一つ判然としないまま義丸の注意は台の前の女に移っていた。


 女は右手で何かを持ち上げながら憮然ぶぜんとした顔つきでその何かをにらみつけている。


 それはへの字に折れた棒のような形をしていた。女はせわしなく右手をうごかしつつ、様々な角度から“への字の棒”を観察しているようだった。


 次に義丸は台の上で何かが動いている様子に気付いた。


 前に立つ女と台の縁によって具体的な姿は見えないが、時折縁から見え隠れするそれは、水飛沫のようなものを周囲に飛散させながらジタバタと抵抗をしているように見えた。


 女が左手を台に沈めているのは自身の体重を支えるためではなく、あの醜く跳ね回る物体を押さえつけるためであろうか?


 しかし当人はそんなことに気にかける様子も無く、ただ、“への字の棒”へのみ意識を集中しているようだった。


 それにしてもあの女が持っているアレは何なのだろうか?何やら弾力性のある棒のように見えるが、棒の両端で太さも違うようだ。しかも細い方の先には複数の小さな枝まで生えている。


 あれではまるで――


 義丸は呼吸も忘れて目を見張った。氷の塊を胸部に打ち込まれた気分だった。


 意図せず前歯が踊り、ガチガチと不快な音が骨を伝って全身へと広がっていく。


 飛沫によって赤く濡れる横顔、その視線の先にある無残に切り取られた人間の腕。傍らで笑い続ける背の高い女。その全てが現実離れした光景であった。


 突然、女は持っていた腕を勢いよく台の上に叩きつけた。鮮血の飛沫が宙を舞う。左腕に力を込めながら激昂して台の上の何かを罵倒しているようだった。


 もう1人の女は冷笑を浮かべながらその様子を見つめていたが、突然、興味の無い物を見るような冷たい目を台に向けると、腕組みをしながら何かを宣告するように口を動かした。


 その後、台に向かっていた女は急に背筋を伸ばすなり天を仰いだ。美しい頭髪が青いカーテンのように宙へと垂れ下がる。


 それからもったいぶった様子で隣にいる女の方へ顔を向けると、その美しい横顔からは想像もできない醜悪な笑みを鮮血にまみれた青白いキャンバスに描き出した。


 体中の筋肉が一気に脱力したかと思うと、義丸は自重に耐え切れずその場にへたり込んだ。


 最後に見たあの女の笑みがまるで自分に向けられたかのように心に焼き付いて離れない。


 先ほどまで窓の向こう側で演じられていた醜態は本当に現実で起きていた事なのだろうか?義丸は力なく真昼の方に顔を向けた。


(俺たちも生きたまま解体される)


 義丸の思考がそれ以上先へ進むことは無かった。


 確実に訪れるであろう死への実感が、逃れられない絶望感と共に義丸の心を包囲していた。



 無慈悲に人の腕を切り落とし、嬉々とする異形の女。どれだけ意識の内から消し去ろうとしても脳内の深淵からよみがえり、まるで不死の怪物のように真昼の精神をそぎ落としていく。


 真昼もまた死の気配に取り付かれていた。


「やだ……やだ……」


 真昼はうわ言のように言葉を重ねたまま動くこともできず、恐怖で満たされた底無し沼へと静かに沈み込んでいた。


 その暗闇の中にあって、まるで線香花火のように見知った顔の数々が鮮烈に現れては消え落ちていく。


(お父さん、お母さん、ももちゃん……嫌だよ、もう、嫌だよ……誰か、助けて……神様……)


 真昼は震える手で上着のポケットをまさぐると、指先に当たった小さな塊を取り出した。涙で滲む目に歪んだ浅葱色の勾玉が映りこむ。


 真昼はその勾玉を両手で握り込むと、すがるような思いで呼びかけた。


「あまてらす……さま……あまてらすさま……」


 真昼の声にならない声が暗く冷たい床に吸い込まれていく。


 すぐ隣では義丸が生気を失った顔でうなだれていた。彼もまたあの惨状を見てしまったのだろうか?それまで真昼の内にあった何かが決壊し、大粒の涙が音を立てて床に降り注いでいく。


「あまてらすさま……おねがい……」


『――はーい、聞こえてますよー』


 突然、脳内にあの優しげな声が響き渡った。


「あ……」


『どうしたんですか?――あ、ひょっとして良い返事を聞かせてくれる気になりましたか?』


 状況の分からないアマテラスはどこまでも明るく語りかけてきた。


「アマテラス様!」


『は、はい?何ですか?』


「私達を、私達を助けて下さい!」


『な、何が、え?どうしたんですか真昼さん?』


「私、木の周りを歩いていたら、本当に歩いてただけなんです!――そしたら、いつの間にか知らない場所で、怖い人が2人いて、誰か知らない人が……」


『ちょっと落ち着いて下さい真昼さん。何がどうしたんですか?』


「分からないんです!スマホも使えないし……大野君も使えないって……」


 真昼は懸命に状況を説明しようとしていたが、早く伝えたい気持ちと、詳しく伝えたい気持ちが互いに発言権を奪い合い、発する言葉は全く意味の分からないものに変容していた。


『よく分かりませんが、道に迷って困っているという事ですか?』


「道とかじゃないんです!場所がおかしいんです!」


『……あのですね真昼さん、私は神であってGPSではないんですよ?」


「そういうことじゃないんです!だって、このままじゃ……私達死んじゃう……」


 混乱しながらも必死に訴える真昼の声に、アマテラスはしばらく考え込んだあと大きなため息をついた。


『仕方ないですね、今回だけですよ。――全く、前代未聞ですよ、神をGPS代わりに使うなんて』


 呆れたように話すアマテラスだったが、その声はどこかうれしそうだった。


「ごめんなさい、ごめんなさい……たすけて……」


『そんな泣きそうな声出さないでください。大丈夫ですから。すぐ場所を――って、なんですか家からそう離れていないじゃないですか』


「でも、こんな場所……」


『そこは――ああ、タケミナカタさんの神社ですね。山林に迷い込んでしまったという事でしょうか?」


「最初は森でした!でも今は違うんです!白い、白い壁や変な物が沢山……」


『しっかりしてください真昼さん。今あなたがいる場所は――』


 喋りかけていたアマテラスの言葉は突然途切れ、脳内は再び静寂に包まれた。


 真昼は掴んでいた命綱を突然切られてしまったかのような恐怖感に襲われた。


「アマテラス様?アマテラス様!」


『……どういうこと?』


 脳内に再びアマテラスの声が届き、真昼は胸を撫で下ろした。だが、その声は先ほどまでの明るい声とは違い、明らかにトーンダウンしていた。


『真昼さん、あなた……どうしてそこにいるの?』

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