第十二談

「伏せて!」


 真昼は反射的に屈めていた上半身を更に押し込むように沈ませた。


 義丸も身を屈めながら急いで真昼の方へ駆け寄ると、真昼の肩を軽く叩きながら急き立てるように廊下側の壁へと向かった。


「どうしたの?」


 真昼が困惑気味に義丸の顔をのぞき込むと、義丸は真っ青な表情で必死に呼吸を整えていた。


「見えたんだ、奥の部屋の窓から……」


 床を見つめながら怯えるように語る義丸を心配しつつ、真昼は次の言葉を待った。


「ドアが、通路の突き当たりのドアが開くとこ――誰か来る」


 真昼は息を飲んだ。誰かがいることは予測していたが、改めてその存在が確認されると心臓を圧迫されるような衝撃を受けた。


「どんな人だった?」


「分からない。ただ、ドアが開くところが見えただけだから」


 2人は息を殺しながら聴覚だけを頼りに周囲の様子を探った。


 だが、どれだけ耳を澄まそうと聞こえてくるのは「シィー」と静かに響き続ける異音と先ほど動き始めた換気ファンの駆動音だけであり、何者かの行動を推察できるような音は一切聞こえてこなかった。


 しかし、変化は突然訪れた。


 部屋を仕切る窓から明るい光が漏れ込んでくる。どうやら何者かが奥の部屋の照明を点灯させたらしかった。


 2人は申し合わせたように奥の部屋に面した窓の下に移動した。


「隣に来てるのかな?」


「たぶん――」


 息苦しいほどの緊張の中にありながら、真昼の心中には恐怖とは別の感情が芽吹いていた。


 それは、隣の部屋にいるであろう何者かによって、この理解できない状況を打破できるかもしれないという淡い期待感であり、過度のプレッシャーに耐えかねた精神が生み出した希望的観測だった。


「ちょっと……のぞいてみようか」


「いや、気付かれるからやめといた方がいいよ」


「でも、ひょっとしたら優しそうな人かもしれないよ?」


「悪いヤツだったらマズイよ、もう少し様子を見よう」


 義丸としてもできるだけ早く相手の正体を確認しておきたかったが、窓から隣の部屋をのぞくということは、当然相手にもこちらの存在を知らせてしまう危険性がある。


 しかも、相手の人数やそれぞれの動向さえ分からないこの状況では、おいそれと頭を上げることなどできようはずもない。


 ましてや相手が自分達に害意を持つ存在だった場合、武器も地の利も無い2人には為す術も無く最悪の結末を向かえるしかなさそうだった。


(くそっ、どうしたらいい?)


 恐怖に委縮した頭でどれだけ考えてみても妙案は浮かばなかった。その上、義丸にはもう一つ無視できない懸念があった。それは隣室にいるであろう何者かが、“奥のドアを開けてこちらの部屋に入って来たときにどう対処するか“である。


(さっきの小部屋まで戻るか……駄目だ、ドアが開くところを見られかねない。通路にも誰かがいる可能性だって……キャビネットをこじ開けて中に隠れる、いや、ドアが派手に開くところを見られるかも。そもそも防犯装置が付いているかもしれないし……)


 窮地に陥ると望まない結果にばかり気を取られてしまう癖が義丸にはあった。そしてそれはどこまでも悲観的な考えに陥り、自らを八方塞がりの袋小路へと追い込んでいった。


 今の義丸にとっては不利な状況へと続く可能性のみが信じられる現実であり、有利に至る可能性などは現実を直視できない人間の絵空事でしかなかった。


 絵空事に賭けて行動を起こす気などは毛頭無く、かといって自分の思い描く現実も受け入れ難い。答えが出せないまま自己問答を繰り返し、気が付けば良くも悪くも事態が進展している。


 要するに“何も選択しない”を選択してしまうことが常であった。


 長い沈黙の末、先に口を開いたのは真昼だった。


「ねぇ、やっぱりちょっとのぞいてみようよ」


「いや、でも」


「それじゃずっとこうしてるつもり?」


「そういうわけじゃないけど、気付かれずにのぞく何かいい方法があれば」


「でもほら、この窓のところ――向こう側に何か置いてあるみたいだから、それに隠れながら顔を上げれば見つからないんじゃないかな?」


 真昼の言葉を聞き、義丸は先ほど見た奥の部屋の様子を思い出していた。


「そういえばこの窓の前には机が並んでた。机の上にはディスプレイっぽいのが置かれてて、他にも小さな箱みたいな物が置いてあったような」


「でしょ?大丈夫、注意してやればきっと気づかれないよ」


 義丸は上半身を仰け反るようにして上の窓をのぞき見た。やはり矩形をしたディスプレイらしき物体の上部分が見える。


 確かにこれをうまく利用すれば気付かれにくいかもしれない。しかし、同時にもう一つの可能性が義丸の内に浮かび上がる。


(もしこれがディスプレイなら、机の前に誰かが座ってるってこともあるんじゃないか?)


 次々と浮かび上がる負の可能性が義丸の精神を取り囲む。(やめた方がいい)と誰かがささやく。(お前は慎重で思慮深く賢明な人間だ)別の誰かがささやく。(きっと他に何かいい方法があるはずだ)(もう少し様子を見よう)・・・


「俺、やってみるよ」


 義丸は険しい顔つきで軽くうなずきながら言った。


 他にもっと良い手段があるかもしれない。しかし、いたずらに時間を費やしても事態が好転するとは限らない。ならば今考え得る最善の方法を選択してさっさと行動を起こすべきだ。


 珍しく義丸はリスクを受け入れて行動する道を選んだ。とは言えその決断の根底にあったものは、“日向さんに頼りない姿を見せたくない”という強い思いだったのかもしれない。


「日向さんは入口の方を見ててくれる?」


 真昼は軽くうなずくと通路側の窓に注意を向けた。


 義丸は軽く首をのけ反らせると、眼球をせわしなく動かしながらゆっくりと顔を上げていった。左右の視界が大きく広がると同時に自身の心音も高まっていくのが分かる。


 3つあるディスプレイの内、義丸が遮蔽物に選んだのは一番左側のものだった。


 ここならば机のすぐ左側にキャビネットが置かれており、そこから通路側の壁までL字型に同型のキャビネットが並べられているため、余計な空間が少ない分発見されるリスクが少なそうに思えたからだ。


 幸いにも周囲には誰もいないようだった。義丸は一旦顔を下げると、今度は少し右にずれた場所から先ほどのディスプレイの正面側を慎重にのぞき見た。


(よし、近くには誰もいない)


 義丸は元の場所に戻ると、再びディスプレイに隠れながら顔を上げた。


「どう?」


 真昼は不安そうに尋ねたが、返事はなかった。


「何か見えた?」


 真昼は振り返り再び問いかけたが、義丸は何かを凝視したまま無言で硬直していた。


「――いる」


 少し間を置いて義丸が答えた。


「白衣の女――女か?人?でも肌の色が――首が――どうなってるんだあれ?」


 義丸は食い入るように一点を見つめながらブツブツと何事かをつぶやいている。真昼は義丸に近づくと腰の辺りをポンポンと叩き、「ちょっと見せて」と言った。


 複雑な顔をしながらしゃがみ込んだ義丸を押し退けると、真昼はディスプレイの横から注意深く室内の様子をうかがった。


 限られた視界に映し出されたものは、部屋の中央に立つ白衣の人物の後ろ姿だった。


 それは170cmほどの背丈に女性的な曲線を主体とした細身のシルエットであり、幻想的なグラデーションを描く紺色の頭髪はローポニーで結ばれ、腰辺りまで垂れ下がった毛の束が毛先の少し上あたりで再度まとめられていた。


 その人物は若干前屈みになりながら流し台のような物の上でしきりに作業をしているらしく、全身を白く覆うタイトなワンピースがその動作を投影し、艶やかなボディラインを隠すことなく映し出していた。


 一見すると後ろ姿の美しい女性が何らかの作業をしているだけの光景ではあったが、真昼はその人物が備える人間とは全く別の特性に釘付けとなった。


 まず、時折見える頬や、スカートから伸びる両脚が異常に白いのだ。それは色白というより蒼白といって差し支え無い色味だった。


 さらに真昼を困惑させたのは、その人物の首元にある肌と同質の白いコブだった。


 この場所からは明確に見えないものの、それは首筋から生えた2本の注連縄しめなわのようでもあり、体の動きに合わせて時折うごめいているようにも見えた。


 真昼が食い入るように首元を観察していると、やがてその人物は顔だけを右側に向けて誰かに話しかけるような仕草をし始めた。


 その横顔は鼻が妙に低く顔全体にのっぺりとした印象を受けるが、嫌味のようなものを一切感じさせない温和で美しい顔立ちであった。


(何か、妙に肌が白いのが気になるけど、あの人なら助けてくれるかも)


 いつの間にか相手の容姿に不思議な安心感を抱き、徐々に心が温まるような希望的活力を感じ始めていたとき、突然視界の右端からもう1人の白衣を着た人物が中央の人物に歩み寄ってきた。


(もう1人……)


 真昼は新たな警戒心を抱きながら、再び注意深く観察を続けた。


 その人物も中央の人物と似たような容姿をしていたが、髪は中央の女性よりも全体的に短めであり、背丈に関してはこちらのほうが幾分高いようであった。


 窓の向こうの2人は親しげに何かを話しているようだったが、右側の人物は中央の台をのぞき込むような動作をしたあと、再び視界の右端へと消えていってしまった。


 真昼はその人物がこちらに向かってこないことを確認すると、その場にしゃがみ込み、自分が見たことを義丸に伝えた。


「よく見えなかったけど、もう1人の人も優しそうな女の人だったよ。わけを話せば助けてくれるんじゃない?」


「いや、でも何か普通じゃないよアイツら――肌の色が有り得ない色してたでしょ?なんだあれ」


「よく分からないけど、光の当たり方で妙に白く見えるんじゃないかな……」


「光の加減であんなに青白く見えるもんかな?それにあの首元にあるアレ、俺には首から何か生えてるように見えるんだけど」


「それは私にも分からないけど……」


 興奮気味に語る義丸の気持ちも理解できるが、真昼としては直感的にあの2人が害のある人間のようには思えなかった。


「とにかく一度話してみようよ、きっと大丈夫だよ」


 義丸は返事に窮してしまった。色々気になるところはあるが、正直なところ悪い人物には見えないという点では義丸も同意見であった。とは言えそれだけで無防備に出て行ってしまって良いのだろうか?


 しばらく考え込んだ後、「もう少しだけ動向を見守ってみよう」と神妙な面持ちで真昼に告げると、真昼はしぶしぶと「わかった」と答えた。

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