第三談
輝夫は真昼に促されるまま床に落ちている勾玉を拾い上げた。
「随分きれいな石だね。勾玉かな?これは」
先ほどの真昼と同じように指でつまんだ勾玉を様々な角度から観察してみるが、取り立てておかしな点は見当たらない。
「――10連ガチャが1回できそうな石だな」
「それを持っていると、変な女の人の声が聞こえてくるんだよ!」
真昼は父親の冗談には耳も留めず、興奮気味に訴えた。
「聞こえないのに声がするし、ずっと私を見ていたとか、私が何かに選ばれたとか、もうわけわかんないよ」
「何だかよくわからないけど、まるでゲームかアニメだな」
輝夫は静かに目を閉じると手のひらに乗った勾玉に意識を集中してみた。
「どう、何か感じる?」
しばらくの沈黙の後、輝夫は突然目を見開いた。
「新たなジョブを獲得したぞ!」
「もう、ふざけないで!」
「――うーん、別に何も聞こえないな」
「そんなはずない!」
真昼は勾玉に手を伸ばしかけたが、すぐにその手を引き戻し腕組みをした。
「さっきは確かに聞こえたんだよ、私は神だとかなんとか色々」
「神?」
「女の人の声で、私は天照大御神だって」
「それは……なんというか、凄い神様が出てきたな」
娘のあまりにも常識外れな話に輝夫は困ってしまった。しかし、ここまで具体的に話されると「気のせいだ」の一言で済みそうもない。かといってあまりにいい加減なことを言っても火に油を注ぐのは明らかだ。
(俺には全く聞こえないし、そんな声が聞こえるとも思えない。まさか真昼の頭がどうかしてしまったのか?いやいや真昼に限ってそんなことは……きっと家の外から聞こえた音を誤認したとかそんな所だろう、うん……しかし、この状況をどうしたものか……)
「絶対ヤバいヤツだよそれ!どこかに捨てちゃお」
「そうだなぁ」
手のひらに目を落とすと浅葱色の勾玉は透けるような光沢を放っていた。
「まぁ、とりあえずお父さんが預かっておくよ。ひょっとしたら声の原因が分かるかもしれないしな」
「え?」
真昼は一瞬戸惑ったが、とりあえずはこの気味の悪い物が自分の傍から離れることに安堵すると、「わかった」と答えた。
輝夫は真昼の頭をやさしく撫でると、勾玉をズボンのポケットに入れ部屋を後にした。
(何だったんだろう一体、でもあの声、私が選ばれたとか言ってた)
一時緩和した真昼の心に新たな恐怖心が頭をもたげ始める。
(何か変なのが家に入ってきたらどうしよう……いやいや、ないない)
何とか心を落ち着けようとしてみるものの、寄せては帰す波のような不安感に心を乱され、その日、真昼は勉強に全く集中できなかった。
◇
翌日、真昼は前日の一件をいまだに引きずっていた。
自分が何かに選ばれたという女性の言葉がどうにも心について回る。昨晩は何事もなく眠りに付くことができたが、まだ油断はできない。
真昼は家を後にすると周囲を過剰に警戒しながら学校へと向かった。土曜の朝のためか人通りは少なく、不審者に襲われようものなら誰の助けも期待できそうにない。
(一瞬の隙が命取りだ……)
真昼の警戒心はいやが上にも高まった。
◇
どうにか教室までたどり着くと、安堵からくる脱力のためか真昼は自身の机に突っ伏した。そして顔だけを窓側に向けると、呆然と外の景色を眺めた。
(神様って何処に住んでるんだろう?やっぱり雲の上なのかな)
うっすらと空にかかる白雲を眺めながら漠然と考え事をしていると、突然誰かが頭をつついてきた。
「なんだか大変だったねぇ、まひるん」
そこには登校したばかりの桃香が笑顔で立っていた。桃香は昨日の夜にやり取りしたSNSメッセージでおおよその事態を理解していた。
「もー、聞いてよももちゃん!」
真昼は勢いよく起き上がると、昨日の勾玉事件の顛末を誇張を交えながら再度事細かに説明しだした。
「でも、神様に選ばれちゃうなんてすごいよね」
真昼の横にしゃがみ込み、手だけ机に添えた姿で話を聞いていた桃香は慰めともからかいとも取れるような口調で言った。
「冗談じゃないよ、もう……」
「でも不思議だよね、誰がそんな物机に入れたんだろう」
「わかんなーい」
「今日、持ってきてたりしないの?それ」
「持ってないよ、気持ち悪いからお父さんに預けちゃった」
「そうなんだ。機会があったら今度見せてよ」
桃香はスッと立ち上がると、自分の席に向かって歩き出した。それから間もなく
「ランちゃん、なんだよ昨日の写真」
近くで恒美の声が響いた。何気なく声の方向へ目を向けると、教室に到着したばかりの栄谷
「どうよ、ビックリしたっしょ?」
「いやいや、どう見ても編集だろ、あれ。バレバレだって」
「違うって!マジでいたんだよ」
「ウソくせぇな、どこで撮ったん?」
「山沿いの道路にあるちっさい神社だよ、知ってるだろ?あの、ガキのころによくターザンしてた公園のそばにある」
「あー、分かる分かる、そっか、あれ諏訪神社の石段か」
「そうそう」
「つか、学校休んでそんな所で何やってたんだよ」
「いや、色々あってたまたま通ったんだって」
何やらよくわからない話題で盛り上がっているようだったが、今の真昼にはその悩みの無さそうな陽気さが少しうらやましく思え、軽いため息のあと視線をまた外に向けた。
(諏訪神社ねぇ――そういえばあそこの神社って何の神様を祭ってるんだっけ?)
勾玉事件の影響か、漏れ聞こえた“神社”という言葉に多少なりとも関心を抱いた真昼だったが、そもそも神様仏様にほぼ無関心な生活を送っていたため、それ以上の考察に至るには情報材料が圧倒的に不足していた。
(天照大御神って、確かすごく偉い神様じゃなかったっけ?……それにしてはあんまり偉そうに感じなかったな)
昨日の“会話”について思い出すと、また不安定で嫌な気持ちがぶり返してくる。
しかし、天照大御神を名乗る女性の声は不思議と嫌いではなかった。今思い返してみてもどこか懐かしささえ感じさせる優しい声に思えた。
(特殊詐欺ってヤツだったのかなぁ。それにしたって神様は無いよね、小学生じゃないんだから)
「また撮れたら送ってやるよ」
いつの間にか真昼のそばまで移動していた吾藍は、恒美との会話を切り上げ自分の席に座ろうとしていた。吾藍に視界を遮られ、ばつが悪くなった真昼は面倒くさそうに上体を起こした。
◇
正午を知らせる鐘が北信高校に響き渡る。それは同時に本日の学業終了を意味する鐘でもあった。
形だけのLHR《ロングホームルーム》を終えると、帰宅部の真昼は早々に帰り支度を始めていた。
「それじゃーまたねー」
真昼に声をかけると桃香は足早に教室を後にした。土曜日は部室で昼食をとることを知っていた真昼は、急ぐ桃香に「またねー」とだけ答えて手を振った。
(いつも急いでるけど、場所取りでもあるのかな?)
急ぐ桃香を見送ると、忘れ物が無いか机の中を再度確認し、真昼は解放感に沸き立つ教室を後にした。
2組、1組と教室を通り過ぎ、突き当たりの階段を下りながら帰宅後のスケジュールについて漠然と考えていると、背後から勢いよく階段を下りる足音が聞こえてくる。
足音は真昼の横を駆け抜けるとそのまま階下へと消えてしまったが、その後ろ姿から吾欄であることがわかった。
(なんだか、みんな忙しそうだね)
一階に到着し、昇降口に続く廊下を歩いていると、正面の突き当たりから詩音が歩いてくる姿が見えた。
「しおちゃーん」
真昼は胸元で小さく手を振りながら詩音を呼んだ。詩音も真昼に気付いていたようで、手を振って応えている。
「真昼ちゃんも今帰り?」
「うん。しおちゃんはこれから塾?」
「ううん、土日は休みなんだ」
「そうだっけか?そういえば、かのちゃんは一緒じゃないの?」
「花音は友達とお昼食べに行くって先に行っちゃった」
「しおちゃんは行かなかったの?」
「うん、今日は帰ってすることがあったから」
そこまで話すと真昼は3組側の下駄箱へと向かい、それを見た詩音も5組側の下駄箱へと向かった。
真昼はルームシューズから白のスニーカーに履き替えると、開け放たれた大きなガラス戸の前で詩音を待った。手持ち無沙汰で5組側の下駄箱を覗き込むと、詩音が傘立て側に掛けてある靴べらに手を伸ばしている姿が見えた。
灼熱のような外気が真昼を襲い、帰路に大きな懸念を投げかける。じんわりと湧き出す汗がブラウスをまだら模様に濡らし、無遠慮に肌に張り付く感触はなんとも言えず不快であった。
真昼は無意識に右手をうちわのようにして涼を求めていた。
それから間もなく黒いローファーに履き替えた詩音が真昼の元に駆け寄ってきた。
「お待たせー」
「帰ろ帰ろ」
昇降口から一歩外に出ると天上からの熱線が容赦なく2人に降り注ぐ。コンクリートの地面から湧き上がる熱気と併せてムラ無くこんがり焼き上がりそうである。
「帰る前に脱水症状起こしそう……」
「本当だね」
猫背気味に体を曲げながら激しく顔を歪ませる真昼に、詩音は額に汗をにじませながら愛想笑いで返した。
「それじゃ、また月曜日ね」
「うん、自転車気をつけてね、またねー」
「ありがとう、またねー」
お互いに手を振りながら詩音は正門方向へ、真昼は裏門方向へと歩き出した。
(あ、しおちゃんに昨日のこと話し忘れた)
一瞬、詩音を呼び止めようかと考えたが、この炎天下で話し込まなくても良いだろうと考え直し、真昼は立ち止まることなくその場を後にした。
(まぁ、月曜日でいっか)
正午の太陽が照りつける中、真昼は急速に体力を削られながらも裏門を越え公道に到着した。
まだ昇降口から2分ほど歩いただけだったが、体力の大半を使い果たした気がする。暑い、暑すぎる。いっそ上着を全て脱ぎ去ってしまおうか?「これは水着です」と言い張ればいけるかもしれない。
しかし、どれだけ自暴自棄になろうとも、真昼の精神に重く鎮座する羞恥心がそれを許してはくれなかった。
改めてアスファルトの道の先に目を向けると、徒歩7分の距離がサハラ砂漠の横断を連想させる。登校時に見せた剥き出しの警戒心は鳴りを潜め、ただ暑さだけを感じながら真昼は歩き続けた。
◇
17時半を過ぎたころ花音は家に帰り着いた。門限の18時にはまだ余裕があるが、先週末は19時を過ぎてから帰宅し、母親と詩音にこっぴどく怒られていたため今日は少し早目に帰ろうと心に決めていた。
正直、門限が早すぎるという不満も多分にあったが、また外出禁止令を出されてはたまったものではない。今しばらくは大人しく従い、機を見て門限時刻の交渉をしようと花音は考えていた。
ドアを開け家に入るとハンバーグを焼くいい匂いが玄関まで広がっていた。靴を脱ぎながら「帰ったよー」と言うと、花音はそのまま自分の部屋に向かおうとした。
だが、たった今見た光景に妙な違和感を感じた花音は、振り返り、靴の並んでいる土間を見渡した。
そこには詩音の靴が見当たらなかった。
(あれ?家で用事があるとか言ってなかったっけ)
キッチンに向かうと、母親が夕飯の準備をしている最中であった。
「ママー、詩音は?」
「まだ帰ってきてないわよ。一緒じゃなかったの?」
「いや、一緒じゃないけど」
母親は花音の方を振り返ることなくハンバーグに添える茹で野菜を電子レンジにセットし始めた。ガスコンロの上の鍋はコーンスープだろうか。
花音はその様子をただ呆然と眺めていた。
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