第一章 壱の羽(4〜6)

    4 下田 ひろ



 あの日から、普段買う事が無かった花束を買いに花屋を訪れるのが、毎月の生活の一部になっていた。何度通ったか分からない。この場所に来るのも1日の流れだ。


 この空き地が事件現場だった。妹のひろは当時二十九歳のジャーナリストで、取材か何かで外に出ていて事件に巻き込まれたものと考えられている。一軒分の空き地に損傷のない、ぞくりとする程綺麗な状態で横たわっていた。

 争った形跡は無く、胸にナイフで刺された跡があったくらいだった。致命傷にとても正確だった為、用意周到な殺人か、手慣れた人間の犯行か。


 早朝のランニングをしていた女性が第一発見者で、人通りの少ない深夜に殺害されたと報告された。


 ただ奇妙だったのは、遺体の耳元に蝶の死骸があった事だ。傷も無く綺麗な状態でそっと置かれていた。この時、同じ地区で似たような事件が相次いでいた。


ひろは温厚な性格で、恨まれるような記事を担当した事も無かった。証拠も残っておらず、謎の多いまま捜査本部は事実上の解散となった。

 花束をそっと置いた時、電話が鳴った。


「もしもしお母さん? どうしたの?」


 電話の奥で息を切らした母の声が、慌ただしく話している。


「何? 荷物がどうしたの?」


 冬花は母の言葉に息を止めると耳の裏がひんやりとするのを感じた。通話ボタンを切ってそのまま来た道を駆け出した。

 走っている最中にまた電話が鳴った。画面を見ると、笹井からだった。一瞬迷ったが一度足を止めた。


「下田です。今急用なので後にしてもらえる?」


 笹井からの電話もかなりの重要案件だ。

 あーもう!と電話を耳から離して頭を搔きむしる。しばらく目を閉じて考えた。


「笹井。いつもの喫茶店に居て。すぐ向かうから」


 静かな住宅街に、軽いヒールの音が耳鳴りの様に響き渡った。



    5 田中



 電話を切ってふと横に目をやると、ここがその“ヒガンバナ ”という喫茶店だ。店内の様子を見てすぐに横の路地に入る。路地にはショートヘアの女性が立っていた。


「情報提供ありがとう。誰情報?」


「私がいつもお世話になっている情報屋の一人からです。よく行く喫茶店に、声が出ない女性をよく見かけるって」


 ポケットから写真を取り出して笹井の顔の前で見せた。


「笹井さんが前にくれた写真の女性だと思います。こんなに目鼻立ちが綺麗な方は早々いないと思いますし」


 喫茶店の扉が開く音がした。


 笹井は路地から顔を覗かせた。


「近江 るりだ。間違いない。こ・・・」


 笹井は言いかけて目を丸くした。


「あれ? 田中さん」


「・・・あの男知ってるの?」


 少し青ざめたように見える笹井の顔をちらっと見ながら、近江 るりの後に出てきた男をもう一度確認する。


「あの人ですよ。情報屋で、私に情報をくれた人です」


 笹井はハッと笑いを吐き捨てて、にやりと笑みを浮かべた。

 その“ 田中 ”という男は喫茶店の前で立ち止まり、暫く近江 るりの後ろ姿を見ていた。何か思いついたように歩き出し、歩いてすぐの路地に入って行った。


「古都ちゃん。悪いんだけど緊急事態だ。近江 るりの後をつけてくれないか?」


 笹井のただならぬ声に直感的に理解した。


「大きい新ネタで引き受けましょう」


 ジャーナリストの静原 古都は、バッグの中から深めの帽子を取り出して被った。そして何食わぬ顔で路地を出た。


「ありがとう」


 笹井の声に振り返ることなく、手を振り立ち去った。


「さて・・・」


 呼吸を整えて田中という男が消えた路地裏にゆっくりと入る。一歩一歩進みながら腰に隠し持っていた警棒に手をかける。


 薄暗い道から“にゃー ”と猫の鳴き声。


 黒い小さな猫を抱きかかえてこちらを振り返る。


「やあ、君か。久しぶりだね」


 笹井は表情を変えず警棒を握りしめる。


「あの時はすまなかったな。殺し損ねてしまって」


 猫がひらりと地面に降りてすぐに田中も右手を後ろに回す。


「おー怖い。何でそんなに僕にこだわるのかねー」


 狭く暗い路地裏に静寂とたまに聞こえる自動車の音。ピリッとした空気の中で、威圧を放ちながら警棒を前で伸ばす。


「お前みたいな異常犯罪者は、この先二度と巡り合わないだろうからな。俺が一生をかけて殺してやるよ」


 田中は腰に忍ばした刃渡り五センチ程のナイフを握り、顔の前で構えた。


「ふふ。警察官の言うセリフじゃないよね。本当面白いわ、笹井君」


 警棒を握りなおして構えた瞬間、甲高い音と共にナイフが落とされた。


「僕さ、今君と殺し合ってる時間無いんだよね。疲れちゃうし」


 後頭部に冷たく硬い物が当たり、押し当てられたままカチャッと音をたてた。気配は無かった。警棒から手を離してそのまま両手を上げる。


「古都ちゃんを巻き込むな。情報を流して何をする気だ」


 地面に転がったナイフを腰に戻す。


「情報を流しているのと同時に、僕にとっても大事な情報源なんでね、彼女。今はまだ殺す予定はないよ」


 にやりとこちらに向いたまま、路地裏から出て行った。


「あいつの仲間か?」


 後ろの人物に声をかけた。頭に突き付けられているのは恐らく拳銃だ。


「まさかあんな弱い奴。借りがあってね。次はちゃんと殺してよ」


 若い男の声に感じた。一歩一歩後ろに下がって行く足音。気配が消えた所で振り返る。


「あーくそ!」


 警棒を拾って、ポケットの携帯を取り出した。首をコキコキと鳴らしながら静原 古都に電話をかけた。





 冬花は母の待つ、実家へ到着していた。


「これよ。さっき突然届いて・・・」


 玄関に置いてあった荷物を差し出した。

 履いていたパンプスを蹴り上げながら脱いで、そのまま居間の椅子に腰かけた。


 宛先は下田 冬花。送り主の記入は無かったが、何となく予想がついている。小さい紙の封筒にノートが一冊だけ入っていた。

 小さく “ 取材ノート ”と書かれた緑色のノートは見慣れた字だ。


「ひろの字だわ」


 ノートのページをペラペラとめくる。


 彼女はよく歩いていた

 これで最後だと思うから聞いた

 実験の事をどこまで知っているのか

 死なない人間っていると思う?

 彼女は私をじっと見て笑った

 悪魔の様な微笑みだった

  

 どういう事?何を言いたいのか?妹は誰の事を言っているのか。

 次のページはもっと意味が分からない。


   蝶 タテハ


「蝶の名前?」


 続けてページをめくりかけた時奥の部屋から母がひょっこりと顔をだした。


「それとね、あんたを訪ねて女の人が来たんだよ。制服を着た・・・高校生かな?」


「高校生? 知り合いに高校生はいないんだけど」


「下田 冬花さんいますかって言われたから仕事でいないって言ったら、なんも言わずに帰って行ったよ」


 色んな人物を思い浮かべたが、確信のある人物は思い当たらなかった。


「あっ! あたし戻るね。このノート調べたら持って来るから」


 急ぎ足で玄関に向かうと、後を追いかけてきた母がおにぎりを渡してくれた。


「ちゃんと食べてね」


 警察という職業に一番理解をしてくれている頼もしい味方だ。


「ありがとう。行ってきます」


 久しぶりに笑った気がした。






    6 事件現場




 ポケットの中で着信音が鳴った。


「はい。今、日女浦公園です」


 近江 るりの後をつけて辿り着いたのは、三年前のバラバラ殺人事件の現場だった。


「・・・分かっています。離れた所にいるので大丈夫です」


 笹井からの電話を切って再び公園を見ると近江 るりの数メートル後ろに人がいる。


「え? 田中さん?」


 背後にいたのは、さっきまでヒガンバナにいた田中だった。


「近江 るりさんだよね?」


 公園の中心で止まった背後で、突然声がしたからか勢いよく振り返る。


「こんにちは。まだ声が出てないみたいで安心したよ」


 何か身の危険を感じたのか、遠くから見ていても委縮しているのが分かる。いつも会っている“ 田中 ”とは雰囲気が違う。ふと目をやると田中の手にはナイフが握られていた。


 嫌な予感がして、震える手で笹井に電話をかけようとした。


 すると、突然ナイフを構えた田中が近江 るりの背後の木を見上げて動きを止めた。


 風と共に散った葉がハラハラと地に着く瞬間、大きな影が降り立った。人だ。高い木の上から人が落ちてきた。

いや、着地して何事もなかったように立ち上がる。

 近江 るりは腰が抜けたように木に寄り掛かった。

田中は青ざめた顔で呼吸を乱す。降り立った小柄な男を見て目を丸くした。


「お、お前! お前は俺が殺したはずだ!」


 公園には田中の怒鳴り声が響き渡った。




「古都ちゃん!」


 笹井の声にハッとして振り返る。


「笹井さん。なんか訳が分かりません」


 呆然とする古都を押しのけて公園を覗く。


「何が起こっている・・・」


 状況の把握に時間がかかった。田中と近江 るりが接触していることに落胆したい所だったが、間に立つ男は誰だ?


「突然男が木から降ってきて・・・しかも田中さんが、俺が殺したはずだって。どうゆう事なんですか⁉」


「俺が殺した? あいつがそう言ったのか?」


 あいつがそんなことを公然の場で軽々しく言うだろうか。それ以上に取り乱す何かがあったのか。

 何か話しているが、小さい声までは聞こえない。とにかく彼女を、近江 るりを救出しなければ。





 一時間前。

 病院の受付を終え、外へ向かって歩くと曇り空から日が差していた。

 三年前の事件を目撃してから声が出なくなった。事件の後から、通院しているがまだ声は戻らない。

 遺体を見つけたあの日、必死の思いで電話をかけたが、恐怖でその場から逃げた。

未だに死体の色や形、匂いは鮮明に覚えていて夢にも出て来るのだ。

赤いショルダーバッグの中から携帯を出そうとした時、前から来た人に気づかずぶつかってしまった。


「あっ!すいません。大丈夫ですか?」


 若い男性が咄嗟に誤ってきた。声が出ないので、手話でなんとか伝えようとした。


「ぼーっとしてしまって。お怪我はありませんか?」


 手話が伝わったかどうかは分からなかったが、こくりと頷いた。

ぶつかった拍子に落としてしまった携帯を拾ってくれた。にこっと笑ってそのまま去って行った。通りすがりに、紅茶のいい香りがした。


 電話は友人の、野山 さきからだった。日女浦公園で待っているから一緒に帰ろうという内容だった。

 さきは私の事情を知ってもずっと近くにいてくれる唯一の友達だ。急ぎ足で公園に向かった。

 病院から歩いて十分程の所にある公園に着くと、そこにさきの姿は無かった。


「近江 るりさんだよね?」


 振り返ると知らない男性が立っていた。


「こんにちは。まだ、声が出てないみたいで安心したよ」


 ひやっとする冷たい視線に身体が動かなくなった。すごく嫌な感じがする。風に乗って紅茶の香りが微かにした。

 さっき病院の前で感じた匂いだ。

男性の手には光るナイフが見えた。声も出ない、身体も動かなくなり、息をするのがやっとだ。

男性はナイフを構えた瞬間、何かを感じたのか私の背後に佇む三メートルくらいの木を見上げた。

葉がひらひらと数枚落ちた瞬間大きな影が落ちてきた。どしんっと音を立てて人が目の前に現れた。着地し、立ち上がった時に真っ白なシャツが所々赤い染みで滲んでいるのが不気味だった。恐らく血だ。

私の前に立ち尽くし、守ろうとしてくれているのだろうか? 背後から見えた田中の顔が青ざめていくのが分かった。


「お、お前! お前は俺が殺したはずだ!」


 田中の様子を見ると、この男に対して言っているようだが、何のことか理解できなかった。男は姿勢を低くし構えた三秒後には、ものすごいスピードで田中に飛び掛かった。

 反応が遅れた田中はバランスを崩したが咄嗟にナイフを握り返して振り下ろした。ナイフを何ミリかの所でかわして、膝と脇腹に二発蹴りを入れた。

 砂場の方へと吹き飛んだ田中は唸り声をあげながらなんとか片膝で立っている。

 男は振り向くと私の手を引っ張って公園の外へと走った。一瞬、公園の外の路地に人影が見えた気がした。声が出ない。誰にどうやって助けを求めたらいいのか分からない。

 顔は怖くて見ることが出来なかったが、何か懐かしい香りがしたような、そんな気がした。

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