第一章 壱の羽(1〜3)
1 日女浦交番
静まり返った空間で大きく溜め息をついた。この交番はわりと街中にあるのだが、古い建物だからかあちこちから隙間風が入ってくる。
奥の休憩室から出てきた後輩の水裡 健(みずうち けん)に缶コーヒーを渡す。
「うい。ブラックな」
ありがとうございます。受け取って錆びたパイプ椅子に腰掛けた。もう一本買ったコーヒーの蓋を開けて机に寄り掛かった。
「昨日のおばあちゃんの件どうするんすか?」
昨晩、七十歳くらいの女性が交番に訪ねて来た。毎晩九時頃になると家の前に人の気配がして怖くて眠れないと相談を受けた。
街中から離れたこの辺の地域は、平和で事件なんて滅多に起きない為、二つ返事でパトロールを引き受けたのだった。
「気のせいじゃないですかね~」
「お前もいるし、今日からしばらく俺が巡回するから」
缶コーヒーを飲み切ろうとした時に電話が鳴った。
「はい。日女浦交番(ひめうらこうばん)です」
電話の内容を聞いて言葉が詰まった。頭が真っ白になるとはこの事かと初めて思った。
交番から五分くらいの所にある公園で人が死んでいるという通報だった。
この日女浦交番に配属されて事件という事件に遭遇した事が無く、硬直した身体を何とか動かして電話の声に答えようとした。しかし電話はすぐに切れてしまい悪戯の可能性もよぎった。通報があったならしっかり確認しなければと水裡に説明して、交番前の自転車に飛び乗った。
自転車を漕いでいると思考が上手く働かず、ただ自分の息遣いだけが耳の奥で響いた。
公園は見えたが、公衆電話に人の気配は無かった。
自転車を止めて荒い呼吸を整えながら、公園に目をやった。暗闇の中に電灯の明かりがチカチカと照らすダンボールが目に入った。自然ではないその情景に背筋がひんやりとした。
手に持った懐中電灯で中を確認する為、じりじりと近づく。直感で様子がおかしいと感じた。目を薄く開きながら勢いよく蓋を開けた。
「うっ」
思わず声が出る。ダンボールには、バラバラに切断された人間の遺体が詰め込まれていた。遺体の上には不自然に、大きな羽の蝶の死骸が置いてあった。
2 下田 冬花
水の流れる音、鏡に映る自分の顔を見つめてふと息を吐く。首元に光るロケット型のペンダントを握りしめて目を瞑った。
「ひろ・・・もう少し待っていて」
悲痛な表情を浮かべて蛇口を捻る。ネックレスをブラウスに隠し、下田 冬花(しもだとうか)はヒールの音を響かせて颯爽と歩き出した。
「冬花さん!」
背後から聞き慣れた声がした。足を止めて声の主を睨みつけた。
「下田さんって呼びなさいって何度も言っているわよね?」
部下の笹井 圭(ささい けい)が胡散臭い笑顔で歩み寄ってきた。
「いや~下田さんって呼びにくいんですよね」
冬花は眉をぴくっと上げ、無言のまま足早と去っていく。
笹井は頭を掻きながら冬花の後を小走りで追いかけた。
眉間に寄ったしわを伸ばしながら、どさっと音を立てていつものディスクに座る。手には何度も開いて節々が傷んだ捜査資料が握られていた。
後から来た笹井は毎日の冬花の日課を見ながら、いつも通りにコーヒーを二杯注いだ。
「うっす。またその捜査資料見ているんですか?」
手渡したコーヒーは、冬花には渡らず横から伸びて来た手にさっと持って行かれた。
「おはようございます。妹さんの事件、明日で一年が経ちますね」
失礼は毎度の事だが、毎朝うるさくやって来るのが、三課の望月 達巳(もちづき たつみ)だ。
毎日の事で慣れたのか、冬花も軽く返事をする程度だ。
その捜査資料は勿論見た事があった。見ていなくても一年前に騒ぎになった事件だ。
当時、日女浦町の空き地で下田 ひろと言う女性ジャーナリストが遺体で発見され、目撃者は見つからなかった。
姉である冬花は元々警視庁の刑事だったが、妹の事件も別の捜査中に知らされた。事件後に、妹が殺された場所にも近く、不可解な事件も多く担当していたこの深山警察署に移って来た。
丁度その頃、笹井は冬花のいる一課へ配属になった。
あの頃の冬花は憔悴というよりも、寝ることを忘れてひたすら聞き込みに出て捜査をしていた。一度身体を壊してから、しっかりと休みながら行動するようになった。
未だに空いた時間は全て妹の事件に注ぎ込んでいる生活だ。
「あれ? そういえば笹井君も日女浦の交番勤務していた事なかった?」
望月が捜査資料を覗き込んで言う。
「ああ。でも俺はその頃には隣町の勤務になっていたから」
冬花が一瞬笹井を見てから席を立った。
「係長、ちょっと出てきます。」
鞄に携帯と資料を入れて望月にじゃあねとだけ言って立ち去った。
「あ! 係長、俺も出てきます」
飲みかけたコーヒーを飲み干して、望月に手渡す。急いで支度をする姿を見てふっと笑う。
「いってらっしゃい」
にこりと笑いカップを受け取った望月に笹井はムッとした表情で舌を出した。
3 笹井 圭
大きな道路から抜けた細道を行くと、日本離れした石畳と建物が繋がる静かな住宅地に出る。猫も度々見かけると、アニメに出てきそうな風景が広がる。地図に記された建物の前で足を止めた。
看板にはLich Traume(リッチトラウム)と書かれている。窓から中を覗くと、レトロな内装だが新しい作りだ。
店内に客の姿が無い事を確認して扉を開けた。カランという音と共に奥から足早とストレートヘアの女性が現れた。
「いらっしゃいませ」
声をかけられたので反射的に少し笑みを見せながら、カウンターに座る女性に目をやった。
「探したよ」
隣に座って顔を見る事なく声をかけた。
「隠れたつもりはありませんよ。笹井さんなら自力でここに来るって分かっていましたから」
綺麗な顔立ちをした女性は、少し癖のある髪を束ね直して席を立ち上がった。カウンターのすぐ横の二階に繋がる階段を、何も言わずに登り出した。
笹井も後に続いて古びた音のする階段を登った。上がってすぐの部屋の扉には、カウンセリングと書いたプレートが掛けられていた。
部屋に入った瞬間、柑橘系のいい香りが広がっていた。
「お久しぶりです。笹井さん」
「みとちゃん。どうして何も言わずに姿を消した?」
柔らかい表情が急に“ 無 ”になる。
「分かるでしょう? 彼女を守る為よ」
「警察の俺に頼るくらい出来ただろ」
みとは窓の外をじっと見つめた。
「笹井さんが探しているあいつが来たの。私の所にね」
笹井は目を丸くして、みとの肩に掴みかかった。
「いつ⁉ 何故知らせなかった?」
荒げた態度に動じること無く、みとは笹井を見つめ続ける。
「二か月くらい前です。あなたと同じで探して欲しい人がいると」
赤く滲んだ瞳には、煮えたぎるような怒りを感じた。
「探している人は? 誰と言っていた?」
「近江 るり。あの事件の目撃者よね」
怒りを飲み込んで、しっかりと呼吸を整える。みとから離れて、本棚にある古そうな本に手をやった。
「それで? その後は」
「彼女の存在を知られている以上は隠せないと思ったけど、今は警察に保護されているから、いくら私でも情報は入手できないと言ったわ」
そう。とだけ言って本をパラパラとめくった。
「私の言う事を疑った訳じゃなさそうだったけど、また訪ねて来るだろうと思って、すぐここへ移って来たの。あなたも会いたい彼女は、私しか知らない所で保護しているからどっちみち誰にも協力出来ないわよ」
「いや、いいんだ。みとちゃんが安全だと言うなら、俺は何も言わないし聞かないよ」
意外な返答に、肩の力が抜けてほっと表情を緩めた。
「ありがとう。あの・・・ここへ来る前に、彼女から近江 るりの居場所を聞いたの」
「うん。早急に保護する」
真剣なその目に、みとは最大級の信頼を寄せている。
「お願い。必ず助けてね」
笹井はしっかりと頷いて、部屋を出た。
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