第41話 ディレンジド(5)

 レイコの手から刀の柄が離れた時、その場にいた誰もが凛音りんねの精神攻撃が有効に働いたことを理解した。

 レイコは倒れ、転げ、頭を抱えている。煩悶はんもんのうめき声が大きな口の端からこぼれる。

 全身いたるところ汗にまみれ、痙攣けいれんし、瞳に宿っていた狂気の炎は消失し、見開かれた目は血走っていた。

 杏菜あんなは構えていた手の力をゆるめた。ジャックナイフの長さに伸ばしていた爪は指先からはがれ落ちた。黒江くろえもあざれも成り行きを見守っていた。

 悪魔のパワーが急放出されている。暴れるごとにレイコの身体は縮んでいき、やがて標準の体格へと元通りになった。

「レイコ」

 近づくと、レイコはにごったまなざしで凛音を見返してきた。

「お前、なんてものを――」

「ごめんなさい」

 レイコはまだ呼吸を荒げさせている。凛音は近寄り、膝の上にレイコの頭を乗せる。その時レイコのもう片方のツノは、色あせた椿の花びらのようにぽろりと地面に落ちた。

「眠る」

 そう言ってレイコは両目を閉じた。宣言通り本当に眠りについた。凛音はかつて友人だった少女の髪を綿雲に触れるようにそっとなでた。

「さてさて、こっちも契約は完了だ。この町はアダムとイヴの共同統治となる。少なくともあと三十年の間はね」

 アダムは一枚の紙をぴらぴらと振ってみせた。そこには悪魔の言語で契約が書かれていた。

 イヴは面白くなさそうに腕を組んでいる。

「楽しくやろうよ。ベルリンの時みたいにさ」

「つまらない話をしないで。ダラスでやられたことは忘れないわ」

「さて、契約ではレイコちゃんの身柄もいただいた訳だけど。僕としては愛人ラ・マンとして迎えたいところだな」

「ちょっと待ってくれ」

 男の声が割り込んだ。篤志あつしだ。

「やあ篤志くん。どうかしたかい?」

 アダムは篤志を見た。篤志は一連のバトルとは離れた場所にいたらしく怪我一つ追っていないが、催眠術がまだ効いているのかフラフラの体だ。

「うちの妹についてあれやこれややってるみたいだが、やめてくれねえか」

「ふうん?」

「自由にしてやって欲しい。あいつの望む通りに」

「僕たちはリスクを冒してレイコちゃんを手に入れたんだ。みすみす離せと言うのかい?」

「代わりに俺がなんでもやるよ。あいつに変われることなら」

「美しい兄弟愛だ。好きだよ、そういうの。でも君とレイコちゃんじゃ価値ってものが釣り合わないな。君は特段に異性運が悪い星の元に生まれているようだし、できればそばにいて欲しくないし」

「私からもお願いします」

 篤志に並び立ったのは他ならぬ凛音だ。

「私と篤志が埋め合わせをします。レイコを解放してください」

「凛音ちゃん。ならいいよ」

 アダムは口の端を広げた。どこまでも広がる口だった。無数の牙が垣間見えた。

 凛音は篤志の手のひらを握った。お互いの指を絡めるようにして。篤志はぎゅっと強く握り返した。

「ただ、ぼくの正体を知っているよね? 地獄の公爵こうしゃくベルゼブブの化身アダム・ディレンジドだ。悪魔に借りを作るということがどういうことか身をもって知ることになるよぉ」

「かまわねェ」

「私も」

「やめとけ、凛音。使徒になるのとはワケが違う。奴隷にされちまうぞ」と黒江。

「そうだ。今みたいに好き放題はやれない。全てアダムのために生きることになる。それでもいいのか?」と杏菜。

「悪魔の奴隷なんて。未来永劫魂を奪われてしまう。そんな生き方、あなたには辛すぎると思います」とあざれ。

「それでもいいの」

 凛音と篤志の目の前に手のひら大の暗闇が広がった。それはやがて黒い羊皮紙の形をとった。悪魔の契約書だ。腐乱死体の皮膚のような汚らしい黒色の紙面には、ずらずらと文言が記され、一番下段に署名欄があった。

「決意したなら書いてくれ。悪魔との奴隷契約に調印すると」

 二人の手元には羽ペンが突如現れた、これもまた契約書と同じくらい真っ黒だった。

 篤志は署名した。凛音は署名した。二人が書き終えた瞬間、契約書もペンも黒い煙となって姿を消した。

 契約書はいつの間にかアダムの手にあった。

「これにて汝らの魂もらい受けた。早速奴隷としての汝らの本義を果たしてもらいたい――ところではあるけれど。まあ、今は使徒として僕に力を集めておくれ。あと百年は自由にさせておくよ」

 凛音にとってはありがたい話なのかそうでない話なのか判然としなかった。

「あと百年って想像もつかねえよ。その前に死んでるんじゃないか、俺?」

 篤志は腕を組みつぶやいた。

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