第40話 ディレンジド(4)

 学校机に突っぷしていたレイコの肩を誰かが揺さぶった。

「ねえねえ、寝てんの? ウケる」

 コイコというクラスメイトだった。

 最初は、

 ――ウザい。

 と思った。

 それでも屈託のないコイコの顔を見ていると悪気は吹っ飛んだ。

「なんか用?」

「ヒマそうにしてたからおしゃべりでもしたいなって思っただけ。どう?」

「まあいいけど」

 放課後、もう帰ってもいい時間だ。今帰っても篤志あつしは大学の集まりがあって留守にしているので帰る意味はない。ヒマつぶしに話してもいい。

「難しい名前だよな。なんて読むの? ミオコ?」

 キネタが聞いた。

「レイコ。レイコって読むんだ」

「ウケる。キネタって馬鹿だよな」

「うるせえ。じゃあお前だったら読めんのかよ」

 キネタはぷんぷん怒った。

「ウケるから、レイコのことミオコって呼んでいい? あだ名だよ」

 コイコは尋ねた。

「好きにして」

「じゃあミオコ。ミオコは弘前からきたの? どうして仙台に?」

「兄がこっちの大学にいる。一人じゃ心配だから私も高校をこっちにしたの」

「へえ、ブラコンってやつ?」

 コイコは言った。

 いきなり失礼なやつだ。ミオコは睨みつけた。この遠慮のない女と長い付き合いになるとはこの時は予想していなかった。

 レイコは夢を見ていた。

 仙台に越してきて高校に入学したばかりの頃の記憶を夢で見ていた。

 記憶の中のコイコたちを前にしながら、意識の半分は剣戟けんげきの音を聞いていた。夢見る精神とは裏腹に、肉体は戦っていた。廃病院の屋上で、敵を全滅させるというイヴからの命令だけを胸に。

 ちょうどギリシア神話のヤヌス神のように、顔の後ろにもう一つ顔があり、前面で夢を、背面では現実の光景を同時に見ている感じだ。

 建物から落下したレイコは、一息で屋上まで飛び上がると再びアダムの使徒たちを強襲した。使徒たちが総出で出迎える。

 ――甘いコイコたちとの思い出の裏で、繰り広げられるのは血で血を洗う死闘。

 ああ、コイコ、キネタ。

 私どうなっちゃうんだろう。

 悪魔の化身と取引したばかりにこんなことに――。

 夢の場面が唐突に変わった。

 コイコたちは消え去り、レイコは3LDKの古びたアパートの一室にいる。

 この場面は記憶に残っている。きょう忍び込んだ見上凛音の家だ。

 兄を連れ込んだ痕跡がないか真っ先に調べに来たのだが、収穫はなかった。

『どこいったのよ、もう』

 部屋の外から張り詰めた声が聞こえてきた。耳をそばだてる。発達したレイコの聴覚は部屋の向こうにいる人物のおおよその年齢・身長・心拍数まで聞き取る。どうやら凛音の母親のようだった。

『こんなこと初めてよ。事故に巻き込まれてなきゃいいけど』

『お母さん、元気出して。きっと無事だよ』

『大丈夫です。今友達の連絡網に聞いて回ってますから。きっと居場所は分かりますよ』

 聖歌せいかの声だ。友人の突然の失踪しっそうを聞いて駆けつけたのだろう。

 家に帰っていないことが分かり、早々に後にした。

 窓から屋根を伝い、雨の滴る中を渡りながら、凛音はそう悪い人間でもないのかも知れないと思い始めていた。

 口紅を盗み、兄を盗んだ、敵対する使徒。

 だが、キネタを救い、家族や友人から好かれる女。

 ――分からなかった。

 断ずるべき悪人が許すべき善人か分からなかった。

 スマートフォンの着信音が聞こえた。いつのまにか片手にスマートフォンがあった。表示を見ると、見上凛音の名前があった。

「もしもし」

『私』

「知ってるよ。お前らお得意の精神感応だな。あたしを止めようとしているんだろ。無駄だよ。この肉体はコントロールが効かない」

『可能性はある。アダムによるとね、やはり肉体と精神は分かち難く結びつきあっているんだって。だとしたら、精神に強いショック与えれば肉体を止めることも可能になる』

「止められるのか?」

『うん。でもそのためにはレイコにすごくすごく辛いものを見せなくてはいけなくなる。本当に辛いものを』

「やってくれ」

 レイコは言った。

「今みたいに手足を乗っ取られる以上に辛いことはないよ。悪魔の求める秩序、それは悪魔に全てを委ねることだった。そんなの失敗だったよ。自分にとっての秩序は自分で作らなきゃダメだったんだ」

『じゃあやる。くり返し言うけど、本当にゴメン』

 急に場面が変わる。レイコは自分のアパートの部屋にいた。

 天井も床も傷ひとつない。

 レイコが暴れて壊す前の状態だ。

 レイコはソファの上にかがみ込んでいた。その下には篤志の姿があった。レイコの視点はこわばった篤志の顔面に肉薄していく。

 ――ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待てぇぇぇぇ!

 何が見せられているのかすぐに分かった。これは凛音と篤志とのだ。

 凛音と篤志との記憶を夢の中で再現させられているのだ。ここではレイコは凛音となり、今まさに篤志に口づけしようとしている。

 前にアダムに性的なイメージを見せらこともあったがそれとは比較にならないリアルさ――何せ実体験なのだから――だった。

『何度も言うけどゴメン。イヴさんのパワーをはねのけるだけのショックはこれ以外にないんだ』

 ――やめぇぇぇぇっっっっ……!

 篤志とレイコの唇が重なった。

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