第39話 ディレンジド(3)

 ひどく痛む額に触れると手のひらにべっとりと濡れた。手のひらには――想像した通り――黒ずんだ赤い液体がへばりついていた。

 見上げれば、天井に空いた穴の奥にまた穴の空いた天井。吹き抜けの先では、すみれ色の夜空を背景に月が輝いていた。

 襲撃を受けた。少し様態は変わっているけど、間違いなくレイコだった。

 レイコは空中を隕石のごとく飛んできて、仲間たちをふっとばし、切り裂いて月夜の照らす廃病院の天井の上に降り立った。

 凛音りんねは宙に浮かぶ。腹に右腕大みぎうでだいの木片が刺さっていた。引き抜く。激痛。あふれ出す血流。浮遊しながら、“力”で傷口を塞ぐ。

 濃密な争いの気配が屋上に充満しており、天井を突き抜けるとそこにはやはりレイコがいて、杏菜あんな対峙たいじしていた。

 互角な争いとは言えない。レイコの一振り一振りが凄まじい勢いで、杏菜は一方的な防戦を強いられている。

 レイコはただならぬ姿だった。ほぼむき出しとなった肉体は増強されたと思しき筋肉でふくれ上がっている。腕は丸太のように太く、もともと高かった背丈は今や二メートル半にまで達しようとしている。凛音が驚いたのは両の側頭部から生えている羊のような角だ。まるでグリモワールに描かれる悪魔のような姿だった。

「凛音ちゃん、加勢してあげて。みんなやられちゃったから」

 アダムがいた。給水塔の上に立って下界の様子を見渡している。変貌したレイコを見ても顔色ひとつ変わっていない。口元にはなぜなのか一輪の赤いバラを加えている。

 アダムが指さした先をみると、そこには誰かの腕や脚が落ちていた。と言ってもあざれか黒江くろえのどちらかだ。あるいはどちらのものかもしれない。みなレイコの最初の一撃にやられたのだ。

「させないわよ」

 女の低い声が響き渡った。レイコとアダムをはさんでちょうど真ん中の位置にイヴとその使徒たちがそろっていた。使徒たちは一様にダークスーツに身をつつみ、刀を構え蛇のような狡猾な視線を凛音に向けていた。

「レイコひとりいれば貴方達をツブすのに足りるけど、念には念よ。ハエ一匹といえど全力で潰すのが私達のポリシーです」

 イヴは体の前方に片手を伸ばした。これが合図となり、十九人の剣士たちは秋の公園のトンボのように一斉に飛び立った。

「狙うは見上凛音。その心臓よ」

「凛音!」

 杏菜が叫んだ。

 よそ見したのが悪かったのだろう。瞬間レイコに切り込まれ、彼女は片腕と片足を同時に失って叫び声を上げた。

 杏菜を思いやる余裕は凛音にはなかった。十九もの刃が雨のように降り注いできたからである。回避の態勢をとるが、避けたところにも刃が降りかかる。それらは額をかすめ、右肩に突き刺さり、左太ももに食い込んだ。

 がむしゃらに降った爪の先に確かな手応えを感じる。一人が顔を押さえ地面に横たわっていた。無力化した。それでもまだ十八人。

 転がりながら、飛行しながら、やり返しながら、凛音は攻撃の手を逃れる。相手方が余裕なのに対し、凛音は精いっぱいだ。

 逃げた先にレイコがいた。

 怒り狂う肉食獣のまなざしが凛音に据えられていた。

 最早杏菜は打ち取られたらしい。もうこちら側の使徒は凛音だけしか残っていない。

「レイコ!」

 凛音の呼びかけに、レイコは何の反応も示さない。心を失っている状態にあるのだ。

 レイコは刀を握った刀を天に向け、凛音へと躍りかかる。

 ――だめだ、やられる。

 観念した時、

「ちょっとお邪魔するよ!」

 漂々した声が戦の中に割って入った。アダムだ。

 十字架の横に立ち、篤志の首元に割れた木片の鋭い部分を向けている。

「レイコちゃん、大人しくしないと篤志あつしくんの命はないよ。さあ、武器をすてて――」

 一瞬気を取られたレイコだったが、すぐに凛音に視線を向け、刃を振るう。すんでのところで爪でガードはしたが、凛音は背骨が折れるくらい強く地面へと押し付けられる結果となった。

「あれ、人質作戦が効かないな」

 頭をひねるアダム。

「浅はかな奴ね」イヴは笑った。「レイコには教育を施してある。もはやレイコにお兄さんなど必要ないのよ」

「ふうん、君の力をずい分と与えたんだね、イヴ。いくらレイコちゃんが強力な力の持ち主とは言え、君の力に耐え切れるのかな」

「減らず口を言っている場合? もう貴方を守るものはいなくなったわよ」

 アダムの周りを十八人の少女が囲む。十八本の刀で描かれた放射線の中心にアダムは置かれた。

「イヴは僕を殺すつもりなのか?」

 アダムは質問した。コーヒーにミルクや砂糖が必要か尋ねるかのような気さくな聞きぶりだった。

「生かす気はないわね」

 イヴは握った手の親指を下にして、首のあたりで横線を引いた。

「相変わらず勇ましいなあ。ローマで総督をやっていた頃の君を思い出すよ」

 十八の切っ先が突き出された。円の中心にいた悪魔の化身は膝から崩れ落ちた。

「ありがとう。私もサンクトペテルブルクでの貴方の乱行ぶり、決して忘れはしないわよ。悪い意味で」

「あの頃は楽しかったね。女王はセクシーだったし、王女たちは可愛かった。言いそびれていたが、君の好きだったあの次女ちゃんだけどさ、今も生きているよ」

 地に伏して口の端から血を流しながらも、アダムはさわやかな声色で言った。

「あっけなかったわね。今世紀でのあなたは終わり。次に会うのは? 百年ぐらいあとかしら」

 勝ち誇っていたイヴの顔が突如歪んだ。

「貴方」イヴはアダムをめ付けた。「てっきり幻術で逃れるかと思っていたら本当に刺されたわね。なぜ?」

「シンプルな理由だよ。幻術を使うことができなかったからさ。他のことに集中していたんだ」

 アダムが口元をゆるめた瞬間、イヴの十八人の使徒のうち三人が銃弾の音と共に倒れた。その他も無事とは言えない。機銃掃射を食らったのだ。

 瓦れきの中から立ち上がる影があった。黒江だ。全身血まみれで両手でサブマシンガンを構えている。鋭いまなざしが使徒たちに据えられている。

「傷の治りが早いんだ、うちの子たちは」

 アダムは喀血かっけつしつつ笑った。

 イヴの使徒たちはそれでも十五人のうち十五人が立ち上がった。よほど訓練されているのか、銃には屈しないということだ。その立ち上がった群れの中に飛び込んでいった影がある。長く鋭い爪が次々と顔面を切り裂いていった。

 長い髪を振り乱したその姿は狩りをするライオンそのものといった体だが、それよりいささかサディスティックな趣きであった。それもそのはず、その人は怒っているからだ。

「てめえら残らずぶっ殺すぞ」

 あざれだった。

 いつもはきれいに整えられた髪はちりちりに乱れ、服もほとんど破れている。化粧なんて一切が落ちていて、顔には怒りの表情しか残っていなかった。

「陰毛一本残らず切り裂いてやるよォ!」

 すぐには倒さない、素早く手際良く必要以上に無惨に攻撃を繰り返す。敵が刀を振るってきたならば寸前で身をよけ、相打ちさせる。敵がバラける。そこに黒江のマシンガンが襲う。

「アタシらは千倍返しでやらしてもらうからヨロシク」

 弾を打ち尽くした銃を投げ出し、黒江は乱戦の中に飛び込む。ダークスーツの一人の髪をねじり上げると、顔面に拳を打ち込み、前歯を割る。次いで腹に打ち込む。

 見る間にあざれと黒江の暴力がイヴの使徒を蹂躙した。

 仲間の助太刀に向かおうとと身構えたレイコの右側頭部に一撃が叩き込まれる。レイコは絶叫し、砕かれたその右の角がコンクリートの上を転がっていくのを見た。

 レイコは機嫌の悪い犬がそうするように、鼻に皺を寄せて、低い唸り声をあげた。

 杏菜は涼しげな笑みでレイコに応じる。切れた手足も元通りだ。

 レイコは剛腕で刀を持ち上げ、杏菜に向かって振り下ろす。銃弾の如き速さで撃ち込まれた一撃は、杏菜の体を一刀のもとに斬り伏せてもおかしくなかった。そうならなかったのは加勢が入ったからだ。

「凛音!」

 横入りした友人を見とめ、杏菜は微笑みを漏らす。

 獣のまなざしは凛音を捉える。

 二対一。

 とはいえ、ふたりでなんとか抑えた攻撃も、レイコにとっては造作もない一撃にほかならない。

 レイコは後方に距離をとり、体勢を立て直す。こちらを狙う黒く鈍い色の剣先はまるで夜空に開いた空隙くうげきのようだ。

「構えろ。どでかいのがくるぞ」

 杏菜が叫んだ。

 直後、烈風を巻き上げ、巨体が襲いかかる。天井の床面に貼られたコンクリートが剥がされて、宙に舞う。重たい地響きが耳朶を打つ。

 目前に迫ったレイコの巨体が刀をふるう。まさにその瞬間のことだった。何かが横様に飛びかかり、レイコを押しやった。横から勢いを加えられたレイコは、フェンスを破って天井から地上まで落下していった。

「レイコ!」

 凛音は叫んだ。

「大丈夫。これぐらいじゃ死にはしないよ」

 黒江が言った。そばにはあざれが立っていた。

「凛音さん、あなたのお友達硬すぎません? 全然死んでくれないんですけど」

「この間にイヴを人質に取ろうぜ。いくら凶暴化してようが、これなら戦意を喪失させられるだろ」

「もうやってるよ」

 アダムがイヴの手を引いてきた。拘束したり、武器で脅したりということはしていない。まるでダンス会場でパートナーをエスコートしているような様子だった。アダムの腹の傷は癒えたのか、出血は止まっているようだ。

「でかした。じゃあどうする、こいつ。とりあえず右腕でも切り落としておくか?」

 黒江が言った。

「そんな必要はないよ。彼女は条件付きで敗北を認めてもらった。領地分割の求めにも応じると言ってくれた」

「条件って?」

 杏菜が尋ねた。

「レイコを鎮めることよ」イヴが言った。「貴方達を皆殺しにするまで彼女は止まらない。あの子に私の能力の半分を与えてしまった。反省しているわ、少しやりすぎだったって。貴方達でも止めてもらうことを祈るばかりよ」

 とイヴは眉尻を下げた。

「そんなに暴れられたら大騒動だ。いくら山の奥とはいえ流石に世間にバレちゃう。そうなったら、にもバレちゃう?」

 アダムは言った。

「おそらく。そうなったら終わりよ。今後ここに現れることができないかもしれない。私達――使徒も含めて――いきよ」

 あいつら? 話についていけなかったが、悪魔が怯える存在もいるのだということだけは分かった。

「そうなる前になんとかできるはずだよ、イヴちゃん」

 アダムはほほえんだ。

「貴方達お得意の精神汚染? 無駄よ。レイコに理性は残っていないもの。心に何を呼びかけようと何を映ししかけようと失敗に終わるわよ」

「それでも彼女の心の隙間を突くような出来事を体験してきた子がいるんだ。その子ならきっとレイコちゃんを止められる。そうだろう、凛音ちゃん?」

 全員の視線が一斉に凛音に降りかかった。

「え、あ、はい」

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