第38話 ディレンジド(2)

 初めてバトミントンのシャトルコックをラケットで打ち返した時のことを覚えている。はじめは何度振ろうが標的に当たらなかった。野球のバットなどとはすっかり勝手が違うのだ。

 もう駄目だと観念した瞬間、ラケットの網目にシャトルコックが当たった。それ以来面白いぐらいに打ち返せるようになった。その時指導してくれたりんご農家のオッサンは「何事も慣れる。すべては慣れだ」と言っていた。

 スポーツだけじゃない。暑さも寒さも。喜びも怒りも哀しみも楽しさもすべては慣れるもの。

 ――催眠術かけられるのも慣れ?

 同じこと。慣れだ。

 ――俺はこの魔女どもに何度催眠術をかけられたんだろうな?

 夕方目を覚ますと、篤志あつしは古びた病院のベッドの上にいた。

 何でこんなとこにいるんだ? レイコはどこだ? 見上みかみ凛音りんねは?

 あれ、俺の片腕切れてなかったっけ?

 などと一人で自問していると、『以前会ったマブいねーちゃん(しゅう黒江くろえというらしかった)』が現れ、催眠術をかけてきた。

 意識が落ちた。

 周黒江から号令が飛んだ。

 体は号令にしたがった。

 いつもならそこで意識がぶっつり途切れるのだが、思考の深層の部分ではまだ自我を保っていた。

 明晰夢めいせきむ――夢を夢と思いながら見ている夢の中にいるみたいだった。

 付いてこいと言われ、篤志は病院の屋上に連れて行かれた。夕闇が迫っており、空は濃いダークオレンジ色に染まっていた。

 屋上には二本の丸太を組んで作られた十字架が設置されていて、篤志はそこに縛りつけられた。

 凛音の姿が見えた。やつは部屋に侵入してきた時と同じようにレザーを身にまとっていた。

『催眠術で動けなくできんのに、縛り付ける意味ある? 絶対に逃げ出さないよな?』と黒江。

『アダムの方針です。雰囲気が大事と言っていました』

 美人だが、篤志の好みの基準からすると少し幼すぎる顔立ちの女が言った。この女は仲間からあざれと言われていた。変な名前だ。

『いかにもあいつが言い出しそうなことではあるな』

『暗くなってきたね』

 ミリタリ姿の黒人女が言った。

 この人は知ってる。篤志とは大学一年生の時同じゼミにいたはずだ。ヒップホップ好きを前提に話しかけたらすごく嫌がられた。名前は確か善川よしかわ杏菜あんな。魔女の一味だったのか。

『あざれ、凛音。お前らは帰っていいぞ。不死身とは言ってもさ、わかるだろ? あいつらに捕まったらそれもそうじゃなくされちまう。ミジンコ以下の微生物に変えられてしまうかもしれないよ』

『あんたたち二人が負けるわけはないと思っていますけど――』

 あざれがいった。

『――その通り』

 黒江は微笑した。

『どの道二人が死んだら私も付け狙われますからね。一蓮托生いちれんたくしょうの身です」

『なんだよ、せっかくほめられたと思いきや皮肉で混ぜっ返しやがって』

 黒江は言った。

『私はここに残る』

 凛音は言った。

『篤志といなきゃいけない。彼のことを守らなくちゃ』

『守るって誰からだよ。こいつの妹か? それともうちらからか?』

 黒江が言った。

『どっちもかな』

『ハハッ』

 黒江は乾いた笑いで返した。

 ――こいつらはなんだって俺をモノみたいに扱っているんだ?

 ――いつから俺はお前らのモノになったんだ?

 催眠術にかかってさえいなければ猛烈にツッコミを入れに行ったのに。テレビに出たての若手お笑い芸人のごとく猛烈に。催眠術のせいで今は感情の回路みたいなものが遮断されている。喜怒哀楽も湧いてこないのは幸いか。

 しかし、凛音の態度は特筆すべきと脳が語りかけてきた。この女はお前を心憎くからず思っている。

 音が聞こえた。

 キーン。

 飛行機みたいな音だ。

 何かがこちらに向かってきている。

 あっという間の出来事だった。

 視認できないうちに、その『 何 か 』が病院の屋上に落っこちてきて轟音を立てた。『 何 か 』は天井のコンクリート片や木材を散らして、魔女の何人かの体を切断していった。

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