第37話 ディレンジド(1)

 午前中降っていた雨は上がり、青空には筋雲が棚引いている。病院を囲む見渡す限りの緑は雨水を浴びて生き生きとして見える。あざれは陽光に目をひそめ、カーテンを閉めた。

「あんたってやっぱり図々しいところありますよね」

 そういうあざれの声は困っているようでも、どこか面白がっているようでもある。

「ごめん。また頼っちゃったね」

 凛音りんねの視線はベッドの上の篤志あつしに置かれていた。血を流したせいか顔色は土気ばんでいるものの、安眠している様子からは朝方自分に起こったことなどまるで覚えていないかのようだった。

「いいの。ここは昔の廃病院です。誰も使っていません」

 それにしても、とあざれは言った。

「あなたもよくやりますね。再生の呪文なんて面倒くさいこと」

 あざれはバニラ色のブラウスに、ミントブルーのミニスカート。髪は三つ編みにしていた。胸につけた陶製のブローチが窓からこぼれた光を反射している。

 篤志の切り取られた右腕は再生した。使徒の力をもってすれば血液さえあれば腕などいくらでも作れるのだ。凛音は自分の血を使った。まだ骨は生成の途中にあるが、夕方にでもなれば完治するだろう。

「彼からギターを奪うのが心もとなかったの」

「その男、弾けないですよ」

 あざれは言った。

「……本当?」

「見てください、右手の先も左手の先もつるつるしていてタコがありません。私もクラシックギターをやってましたけど、こんなギターリストの指なんて見たことも聞いたこともないわ。エッチの時気がつかなかったの?」

 とあざれは言った。

篤志あつしと私のこと、あざれちゃんに言ったっけ?」

 幾分声が上ずった。

「言わなくてもそれぐらい察するわ。あなた、いつになく慌ててたんだから」

「嘘だ」

 じんわりほおの辺りが熱くなった。

「本当」

 あざれは口角を上げた。さっきまで凛音が座っていたパイプ椅子に腰かけ、凛音に視線を注いだ。

「この方があなたの欲望ということなのですね」

「自分でもよく分からない」と凛音は言った。「彼のことは好きだと思うけど、すぐに冷める気持ちなのかもしれない」

「一時期私に抱いていたような気持ちですか?」

 凛音はうなずいた。

「あなたは私の愛を欲しがっているのが明白でした。愛など私は与えません。何人にもね。私の欲望はあなたの欲望ではない。私の欲望はひたすらに性欲をむさぼること。あなたの欲望は――その男からの愛でしょう?」

「……そうなのかな」

「考えている時の凛音さんの顔はかわいいですね。欲情します。どうですか、彼の目の前でいたすというのは?」

「あなたはそればっかり」

「だって、私はそれに支配されているようなものですから」

 扉が開いて、二人の人間が姿を現した。黒江くろえ杏菜あんなだ。黒江は今日も全身赤尽くめ。杏菜はミリタリだ。

「アダムによると、敵がここを嗅ぎつけた。斥候スパイ一人を見つけて精神汚染したらゲロったらしい。夜には敵総出で襲撃してくるみたいだから準備しとけ。返り討ちにしてやるぞ」

 黒江が言った。

「準備って何したらいいの?」

 凛音が尋ねた。

「私は銃とかナイフとかそろえる。まあ使徒相手には気休めだけど、使徒のほとんどは一般人だからビビらせるには有効なんだよ。一般人にとって銃弾で撃たれるなんて恐怖でしかないだろ?」

 と黒江。

「私もブーツナイフぐらいは仕込んどくかな」

 と杏菜。

「あんたらはやらないの?」

「私、そもそも戦いたくないのですけど。アダムがくれたものでもあの爪だけはキライ。美しくないもの」

 とあざれ。

「やれやれ、お嬢様のわがままが出たぜ。まあ好きにしろや。相手の使徒は二十人くらいいるらしいけど、あたしと杏菜がいりゃ十分だろ」

「二十人も?」

「平気だよ。まあ、戦闘はあたしと黒江に任せておいて」

「そうだね」

「それにしても」黒江は篤志を見た。「こいつなんか人質にとる必要あるのか? アダムはなんて言ってた?」

「レイコのウィークポイントは篤志だって」と凛音。「篤志を解放する代わりにレイコをうちの使徒にさせたいって言ってた」

「趣味悪いやり方だな、相変わらず。まあ、そのレイコってやつはこの男にゾッコンみたいだしな。まあ、好きにさせとくか」

「ねえ、黒江は篤志に見覚えがない、彼に?」

「見覚え? ないな」

「そう、篤志から黒江の匂いがしたから」

「あたしが男の顔なんていちいち覚えているわけがないだろ。まあこうしてじっくり見てると思い出すかもしれないけど」

 篤志を凝視する黒江。

「私は知ってるよ。同じ大学にいる。一年の時同じゼミだった」

 杏菜は言った。

「本当? それならレイコのことも?」

「そこまでは。まあ世の中せまいもんだ。あんたが篤志をパートナーに選ぶことになるとは想像もしなかった」

 パートナーという呼び方に違和感はあったが、口ははさまなかった。

 篤志を見つめる。

 この男は私のなんなんだろう。

 本当に分からない。

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