第35話 インベーダー(2)

 ドライヤーの熱い風を浴びながら、凛音りんねはさっき自分の仕掛けたことが正解だったのか不正解だったのかを考えていた。

 無人のリビングルーム。さっきまでかかっていた音楽は止まり、壁時計の秒針のチクタクなる音が響いている。カーテンの隙間からのぞく空の色はコバルトブルーで、夜明けが近いことを告げている。

 凛音にとって男子とは初めての性交になったが、そんなに悪くはなかった。向こうもそう思ってくれると決め込んでいたが、行為の後で篤志は泣いていた。

「ごめんね」

 と言うと篤志は、

「悲しんでるワケじゃねえし、お前が悪いっていいたいワケじゃねえ。俺も自分が何で泣いてんのか分からねえ。でもこれだけは言える。お前は悪くねえ」

 二人はしばらく無言でいたが、泣きやんだ篤志は、シャワーを使うよう言った。クローゼットからバスタオルとTシャツとスウェットの半ズボンを渡してきた。くれるのかと聞いたら貸すだけだと言われた。

 凛音と入れ替わりに今は篤志が使っていて、リビングとつながる廊下の向こうから篤志がシャワーを浴びる音が聞こえてきた。

 のどの渇きを覚えて、凛音は冷蔵庫を開け、中を物色する。たくさんのペットボトルが収まっていた。ほとんど中身はペットボトルなんじゃないかというぐらい。名前の書いてないものならどれでも飲んでいいと言われた。アツシの名のほか、レイコと書かれていた。恋人だろうか? いや、だったらさっきまで童貞であったはずがない。きっと肉親だ。さっき廊下を通ってくる途中で香水の上品な匂いのする部屋があった。ホワイトムスクの上品な香りがした。

 ミネラルウォーターを飲む。

 さてどうしよう。

 さっさと帰ってしまってもいいのだが、ちゃんとお別れを言った方がいいような気がした。泣かせてしまったことだし。

 荷物(と言ってもレザーの服だけだが)をまとめていると、レザー服のポケットから口紅が出てきた。唇を蛍光灯にかざしながめる。うっとりするような美しいケースのかたち。返すタイミングを見いだせないまま、いつまでも使い続けていた。

 塗り直そう――キャップを外そうとした。

 その時だ。

 真珠しんじゅ色のケースが映し出す歪んだ篤志の部屋の中に何者かが入り込んでくるのが見えた。そいつは凛音の突破した窓から入ってきた。

「それ盗んだの、オメーだったんだ」

 侵入者は言った。

 直後、凛音の立っていたフローリングの床に穴が穿うがたれた。凛音は身をひるがえし、壁を登る。追って何かが叩きつけられる。今度は壁に穴が空いた。

 天井にへばりついた凛音は襲撃者の顔を見た。刀を正眼に構えた襲撃者。驚愕が喉をめ上げて、凛音は小さく悲鳴をあげた。

「……どうしてここに?」

「あたしのセリフだよ。あたしの“場所”に土足で踏み込みやがって」

 襲撃者は悪鬼の形相だった。目は真っ赤に充血し、眉間にはシワというシワが寄っている。長い髪は乱れに乱れ、一部逆立っていた。どこを走ってきたのか安比山ロックフェスティバルと書かれたTシャツ、ハーフパンツはところどころ破れていた。

「なあ、これ、あたしンだよな」

 床をころころと転がっていた口紅。襲撃者は腰を下げて手に取った。

「ミオコ」

「まいね」と襲撃者は言った。「ミオコの名で呼んでいいのは友達だけ。あんたはレイコでもヤマミネでもいいからさ、でもミオコと呼ぶのは絶対に許さない」

 レイコは日本刀の切っ先を凛音に向けた。

「ただ者じゃないとおもってたけど、やっぱり“使徒”かよ。ディレンジドの使徒だな」

「ミオ――いえ、レイコ。説明をさせて」

 ちっちっちっ。レイコの舌がリズムを打つ。

「あんたと私は敵同士だよ。何を話そうっての? それよりさ、何が目的で私らに近づいたか言えよ。どうして口紅を盗んだんだ。コイコとキネタとアイナとサトに何するつもりだった、私の兄貴をどうする気だ、答えろ見上凛音!」

 レイコは咆哮ほうこうした。

 レイコは山嶺篤志の同居する妹であり、アダムとは違う化身の使徒であり、かつて凛音の友達だった。

 そこに凛音に優しい笑顔を向けてきたミオコはもういない。カラオケで伸び伸びとした声で『ハッピーシンセサイザ』を歌っていたミオコはもういない。キネタのことに感謝を伝えてきたミオコはもういない。一緒に『青葉城恋唄あおばじょうこいうた』を歌ったミオコはもういない。

 泣きたくなった。大切なものが失われる悲しさに打ちのめされた。もしかしたら、さっき山嶺篤志も同じ気持ちだったのだろうか?

「 ハ ギ エ ル ・ ア ル デ ィ ナ ク ・ ル シ フ ェ ル ! 」

 レイコは叫んだ。上半身の筋肉が安比山ロックフェスティバルのティーシャツを引きちぎらんばかりにふくれ上がった。

「殺してやる、見上凛音!」

「――レイコ?」

 修羅場にうっかり足を踏み入れた湯上がりの篤志は目をひんむいて妹を迎えた。悪鬼の形相をして日本刀を構えた妹を。

「何でここに。岩手に行ったんじゃ。てか床も壁も穴だらけなのなんで?」

「走ってきたよ。兄貴の危機だもん。ねえ、何かされなかった、この女に」

「そんなことよりお前その刀」

「――いいがら何かされながったがしゃべれ!」

 妹のただならぬ剣幕に、篤志は身を震わせた。

「俺はまあ、その子と。えーと、ロックンロールしたというか」

「はっきり言え!」

「凛音と、え、エッチした」

 赤らめた篤志の顔を目にした直後、レイコの手から刃が天井に向かってぶん投げられた。天井に大穴が空き、動物のあばら骨のような建材がむき出しになった。すかさず天井に飛び上がったレイコは刀を取り、床に降りた凛音を見据える。

「見上凛音、お前だけは刺し違えてでも殺してやる」

「一体何が起きてんだよ!」

 人が飛び、人が天井に貼り付き、人が壁に穴を開け、人が人を殺そうとしている。片方は血を分けた実の妹なのだ。驚愕の光景に篤志は頭を抱えている。

「兄貴は寝てろ!」

 一喝した直後、レイコは天井から凛音に向かって飛びかかる。凛音は爪を伸ばして刀を受け止めた。

 凛音はもともと闘争に向いた人間ではない。戦闘機械のごときレイコの猛撃に防戦一方を強いられる。

 玄関先にはわらわらと人が集まり始めているようで、ドアにはノックする音や安否を尋ねる声が聞こえてくる。これだけ大きな音と怒鳴り声を上げていれば当然だ。

 ――レイコ、目立つべきではない。

 ぼんやりとどこかで声が響いた。

 レイコの背後から一人の女が現れた。

 この女がフィルシーハーツかと凛音は知った。フィルシーハーツはレイコの背中に潜んでいたのだ。アダムと同じぐらいの背丈で、瀟洒しょうしゃなドレスを身にまとっていた。

「私達の、“使徒”の存在が明るみになってはいかない。ここは引いて」

 イヴは言った。

「いえ、この一撃で終わります」

 レイコは弾丸のごとく飛び出した。狙うは凛音の首。あまりの速さに防衛の身動きが取れなかった。

 ――ヤバっ。

 そう思ったときにはもう手遅れだった。

 血がほとばしった。

 散らかったフローリングの床をキャンバスに大量の血が噴き上がった。

「痛ってぇええええっ」

 凛音とレイコの間に立ちはだかった男。

 今や赤く染色された無地のシャツ、スウェットハーフパンツ姿の男。

 レイコに向かって白鳥の翼のように両手を広げた格好だが、その片翼は今や失われていた。

 篤志は二の腕の先から分断された自分の右腕を見やる。

「これじゃギター弾けねえじゃねえか」

 真っ青な顔をしてよろめく篤志。その体を凛音が支えた。

「どうして」

 凛音が言った。

 篤志は何も答えず静かに両目を閉じた。

「いやっ」

 レイコはくずおれた。刀は床に転がって乾いた音を立てた。

「嘘だろ、あたし、兄貴を」

 茫然自失の体だ。

「しっかりしてよ、篤志!」

 凛音は叫んだ。切り口から流れる血液はとめどない。まるで壊れた水道管だ。切断面に手で触れて最大限の治癒を試みる。血は止まったが、篤志の顔色は戻らない。

「あたし、糞、畜生」

 レイコは背を丸め全身を震わせていた。

 凛音は息をのむ。

 逃げるチャンスだ。凛音が思った瞬間、アパートの玄関の扉が開いた。アパートの住人たちが十人ばかりなだれ込んでくる。

 誰が鍵を開けたのか。

 扉の前に立っていたのはアダムだった。

「アダム、お前!」

 イヴが叫んだ。

「凛音ちゃんの背中に隠れていたんだ」

 アダムはさわやかな笑顔を見せた。

「おい、部屋めちゃくちゃじゃないか!」

「血を流している奴がいるぞ!」

 土足の野次馬たちの手にはスマートフォンが握られている。スマートフォン背面のカメラレンズが物見高い視線を向けてくる。

 イヴは背中越しにレイコを抱き締め、透明化した。忽然こつぜんと姿を消す。

「急いで!」

 そう叫んだアダムに呼応するかのように、凛音は腕に抱いた篤志ごと透明化した。

 ざわめく人々の間を抜けて、凛音はコンクリートの外廊下を走った。空は明るかった。お日様が天に昇り始めている。凛音の長い一日が始まった。


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