第34話 インベーダー(1)
下足棚の上の花びんには新たな花が生けてあった。レイコのやつが替えておいたのだろう。小さい頃からマメなやつだ。
音を立てないように恐る恐る渡り廊下を進む途中で、レイコが留守にしていることを思い出した。そうだ今頃、あいつは岩手か。
篤志はキッチンの冷蔵庫を開けてビールを探す。レイコが作り置きしたきんぴらごぼうだとかポテトサラダだとかが残っており、まったく手をつけていないことに後ろめたさを覚える。普段から健康に気をつかってもらっているのだが、どうにも食指が動かない。こいつらで一杯やってもいいっちゃあいいんだが。
――きんぴらごぼうとポテトサラダってあんまりロックっぽくないんだよなぁ。
ロックはポップコーンやビーフジャーキーを
などといえばレイコには偏食の言い訳してない?と ツッコまれる。
まあ、実際はそういうことなんだが。
ビールを一缶取り出し、コンビニで買ってきたアーモンドを肴に飲み始める。
エコー・ドットにいつも聞く曲をかけるよういうと、BLACKPINKの「キル・ディス・ラブ」が再生し出した。妹のやつめ、どうやら俺のガジェットまでフル活用しているようじゃねえか。あいにくもっと男臭いのが好みでね。
「アレクサ、例のプレイリストをランダム再生してくれ」
『例のプレイリストをランダム再生します』
スピーカーから流れ出すのは耳馴染みの力強いギターリフ。お、いいね。ディープ・パープルの『紫の炎』。篤志は腰でリズムを取るとビールが吹き出さんばかりの勢いで缶のプルタブを開ける。赤革のカウチソファに腰を沈め、缶に口つけて一気にビールを流しこむ。
「うまいっ」
うまいビールにはイカした音楽。これが不可欠だ。
今日の飲み会は不守備に終わった。大学生同士の集まりというのはどうも面白くない。
友人の
まったく飲んだ気にならなかった。あんな場所は二度とゴメンだ。あんな意味不明な広告宣伝研究サークルの連中と飲むのも二度とゴメンだ。達良には悪いけど、どうせなら焼肉の方に誘って欲しかった。
篤志はエコー・ドットに命じてスピーカーの音量を少し上げる。近所迷惑にならない程度に小さく、レイコがいたら怒り出しそうなくらい大きく。
「ビールがうめえや」
色々世話を焼いてもらっている身で申し訳ないが、やっぱり一人でいる方が気楽だ。
好きな時間に寝起きして好きな時間に好きなものを食う、これが俺には合っているんだ。
だいたい妹がいたんじゃ、女を連れ込むのだって難しい(相手はいないケド)。
レイコには高校を出た後は部屋を出て行ってもらわなければ。そうすれば寝室の壁に貼っている沢口愛華の水着ピンナップだって堂々とリビングに飾ることができる。
曲が変わり、スピーカーからはギターウルフの『インベーダーエース』が流れ出す。荒削りでアグレッシブな本物のロックンロールだ。
ふと革ジャンのことを思い出した。きょう大学の先輩が訳のわからないことを言い出したのだ。
――お前革ジャンどうしたんだよ?
革ジャン? んなもん持ってないっすよ。
そこで先輩絶句して、
――お前去年深夜のバイトまでしてたじゃん、俺だってお前のレジで月見バーガー買ってよぉ。
バイト? バイトはしてましたね? あれ? その金どうしたんだっけ? 酒代に消えたかな?
先輩サングラスから目玉が突き破らんばかりに驚く。
――お前! お前お前お前、散々自慢してたじゃネエかよ。今度革ジャン見せてやるって言ってさあ? イカレちまったのか?
先輩アキれて怒って去っていっちまった。
変な先輩だ。
その時革ジャンを買うのはいいアイデアだと思った。
バイトして革ジャンを買おう。メチャかっこよくてシビれるやつを。それで女にモテよう。
「それまで女はお預けかな」
飲み干した缶ビールを片手でにぎりつぶす。冷蔵庫にもう一本残っていたはずだ。今夜はそれでおしまいにしよう。
冷蔵庫に向かって立ち上がった時、変な音が聞こえた。ノックの音だ。窓が外側からこんこんとノックされたのだ。
特段驚くような話ではない。もしここがアパートの三階でなかったらの話だが。
「嘘だろ」
両足が震え出した。ほろ酔いで上気していた顔面が温度を下げる。
窓の向こうには女がいた。ガラスの向こうの闇の中から笑顔がのぞいた。
夢でも見ているのか? 酔っ払っているのか? おれは正気なのか?
女を欲しがるあまり遂に幻覚が見えはじめてしまったとか?
篤志に十分な時間を与えないまま、窓の向こうの女が行動を起こしてきた。女の人差し指が窓を突き破って、窓と窓の留め金をさっくりと切断した。ナイフでも持っているのかと空目したが、よく見ると指先にあるのはそこから伸びたクソ長い爪だった。
開かれた窓の向こうから女の細い脚が伸びてきた。筋肉質とは言えないタイプの細い足。次に体。それから頭。
「久しぶり、山嶺篤志」と女は言った。「変な登場してごめんね。驚かせちゃったよね」
女はショートボブで、化粧っ気に乏しい割に胸の谷間を大胆に見せた格好。はにかんだ顔はチャーミングと言ってよかった。然るべき場所で然るべき状況であればナンパするレベルだ。
篤志は目と口を開けっぴろげにして、ことの成り行きを見守るしかなかった。
「ぼーっとしてるけど大丈夫?」
女は篤志をじっと見つめる。小首をかしげる。
「ねえ、私のことおぼえてない?」
――女への渇望が生んだ妄想が俺に語りかけてきている?
返事をしてもいいのか? 自分の妄想と会話を始めたらいよいよ症状がヤバくなるのではないか?
デヴィッド・ボウイの曲にあったな、狂気に陥った男が妄想の中の自分と対話する曲が。ニルヴァーナもカバーしてた。たしかタイトルは『世界を売った男』だったか。
「なんか山嶺篤志から
女の目が紫色の光を帯びた。妄想の中の女は目を光らせるくらいのことはするだろう。なんせ妄想なのだから。
目の光は強さを増していき、やがて篤志の視界全てを飲み込んだ。孫悟空の金の輪っかが締め付けるみたいに頭の一部がぎゅうと痛んだ。
痛みとともにさまざまな光景がよみがえってくる。赤レザー女の目の光を浴びたこと。革ジャンのありかを探していたこと。ヒントのパジャマ。トイレで革ジャンを奪われたこと。革ジーンズを奪われたこと。奪った相手が目の前の女で、女の召し物が自分の持ち物であったこと。
「全部思い出したぜ、この野郎。ぜってぇ許さねえからな」
だが、篤志の罵倒は女には効いたようだった。女は眉尻を下げ、唇を引き締める。
「ごめん。なんかあんたを見ていると自分を止められなくて」
「そ、そうなのか」
魔女に謝られた。魔女って素直に謝るもんなのか?
「いやいや、謝ったって許さねえぞ。俺がどんだけそのレザーを愛してたか!」
「悪かった。でもあんたも似合うって言ってくれたよね。その言葉にウソはないでしょ」
篤志は目を見張る。たしかにそうだ。その格好は篤志のストライクゾーンを突いてくる。
「いつかお返しをしたいと思ってたんだ」
ふいに女は目元を赤らめる。
「あのさ、山嶺篤志、あんたって女の子抱いたことないんでしょ?」
「うるせえよ。悪かったな。でもそれとこれと何の関係があるって言うんだよ。俺をこれ以上怒らせる気なのかよ」
篤志は怒気を荒げる。
「だからさ、私。その、あなたの初めてになってあげてもいいよ」
「何だとコラ。俺だって好きでこんなふうにしているワケじゃねえ――いまなんて言った?」
「あなたの初めてになりたいって」
「う、嘘⁉︎」
「本気だよ」
女は篤志の肩を抱いた。女の体が密着した。篤志は知った。世界で一番柔らかいもの、それは魔女の肌だ。
魔法にかけられたみたいだ。何も抵抗できねえ。
足が体を支える力を失い篤志はカウチに倒れ込んだ。女もしなだれかかってきて、篤志の上に身をかがめる格好になる。
「あんたってけっこういいカオしているよね」
女は顔を近づけ、唇で篤志の上唇をついばむようにした。要するにキスしてきた。ミルクみたいな匂いがした。唇だけなのにまるで顔全体をウォーターベッドに押し付けられたような
女が顔を離した。二つの目玉が篤志を見下ろしていた。篤志の唇に残るその感触。いつのまにか『インベーダーエース』が終わり、スピーカーからはビートルズの『ヘルター・スケルター』がかかっていた。
「だめだ。止めよう。俺はお前の名前だって知らねえのに」
「
また女が唇を重ねてきた。今度はさっきより深かった。
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