第32話 猫と眠れ(5)

 金網フェンスのてっぺんに登った。屋上よりも二、三メートル高い位置にあって心なし吹きつける風も強くなったように感じた。

 見上げれば空がきれいだった。渦巻く暗雲はいつのまにか消え去り、銀河にあまねく星々が美しい輝きを投げかけてきた。

 死ぬには素晴らしい日だ。女は思った。

 飛び降りた。

 ためらいはなかった。

 いつまでも覚悟のない自堕落な人生を送ってきた自分にとっては驚くべき決断といってよかった。

 ――自分の人生に自分でケリをつけなくてはいけない。

 体は急降下していく。すぐ横をレンガ張りのビル壁が高速で流れていく。落ちていく。落ちていく。黒々としたアスファルトの地面が急速に目の前に迫ってくる。

 ふと地面と女のあいだに何かが割りこんできた。

「怪我はないですか?」

 おかっぱの髪、黒いゴム製のマスクに覆われた目元。あの懲罰者の一人だ。

 女は地面に下ろされた。

「かまわないで欲しかった」女は乾き切ったと思っていた涙管から液体があふれてくるのを自覚した。「私は罰を受けるべきなの」

「別に死ななくてもいいでしょ。私たちだって誰も殺してないよ」

「でも殺すぐらい酷い目には遭わせているんでしょう」

 少女はしばらく考え込んだ。

「不慮の事故はまああったけど。ねえ、あなたはどうして死ななくちゃいけないの? 悪いことはしたみたいだけど反省もしているんでしょう」

「これがけじめだから」

「けじめ?」

「たくさんの女の子を地獄みたいな目に遭わせてきて泣き寝入りさせてきた。それを楽しいとも思っていた。でもある日から――」

「――罪悪感を覚えるようになった?」

 そう、と女は言った。

「もしあなたがこんなふうに死んだと知っちゃったら杏菜あんなちゃ……友達が落ち込んじゃうと思う。だから死なないで欲しい」

 女は頭に血が昇るのを感じた。

「そんなのあなたの都合じゃない。知ったことじゃないわよ。死なせてよ」

 涙がとめどなくあふれ出てくる。死にたい自分に涙が出る。

「やっぱこれしかないよね」

 少女はつぶやいた。

 これしかない? なんのこと? この子は私に何するつもりなの?

 疑問に答えるかのように凛音の両目が輝いた。瞳の中にすみれ色の炎が巻き起こる。

 瞬間、女の意識が空白になった。

 ――ねえ、聞こえてる?

 少女の声が響いた。脳に直接話しかけられていると思った。

 ――あなたが死にたいと思った時、あなたは、えーっと……猫のことを考える。 

 猫? 猫は飼っていない。

 ――飼ってなくていい。とにかく猫のことで頭がいっぱいになる。死のことなんか考えられなくなるくらいに頭の中がいっぱいになる。OK?

 少女の目の輝きが消えた。

 女は少女をながめる。幼い顔つきだ。中学生ぐらいに思えるが、それ以上の年齢であることはなんとなくわかる。化粧っ気はなく、露出度の高い外見とチグハグな感じがした。

 少女は飛び上がって、瞬く間に女の視界から消えた。

 女もアパートを目指して舗道を歩き始めた。無人の市街地でパンプスがアスファルトをノックする音が響き渡った。

 空を飛ぶ女の子が視界から消えた瞬間、今日のことが全て幻想だったように思えてきた。

 深夜二時、うし三つ時。狸か狐に化かされたのかもしれない。あの女の子たちも自分の妄想だったのかも。

 頭がぼんやりしている。

 後ろを振り返ると例の高級マンションが見えた。あの場所で起こった出来事のひとつひとつがよみがえる。

 楽しかった。

 薬局の受付係の給料では手も出ないような高級酒を湯水のように飲み、ウーバーにデリバリーさせた二つ星レストランのディナーをジャンクフードのように食べあさった。

 違法薬物もそこにはあった。警察の人間も裁判所の人間もお寺の人間もそこにはいたらしいが、何のお咎めもなかった。治外法権だった。パラダイスだった。

 ただし、そこにいるために人を陥れたり、踏みにじったりしたけれど。

 それに、忘れてはいけない。

 ――私自身だって元々はあの食中植物の棲家すみかに連れてこられた哀しき羽虫だったんじゃないか。

 暴力のかぎりをされ尽くしてきたんじゃないか――男の嘲笑。

 足が歩く力を失う崩。また精神の均衡がおかしくなった。

 死のう。

 意を決して立ち上がった時、動物の鳴き声が聞こえた。

 女は声のした方を振り返った。

 猫は確かにそこにいた。

「ウソ」

 歩道と車道をへだてる埋め込みの隙間から青白い光を浴びた白い生き物がはい出てきた。つぶらな黒い瞳を向けて、にゃあにゃあとなにかを懇願こんがんするように鳴く。

 この子はわたしに何を求めているの?

 それを聞くまでもなかった。 

 猫は抱きしめられたがっていた。

 女は抱きしめた。持ち上げた時体重が感じられないほどに軽かった。それなのに火傷しそうなくらいの熱を体に宿していた。

 ニャアニャアニャア。腕の中で猫はしきりに鳴いていた。

 精神安定剤のせい? 幻覚を見ている? 現実感がおかしくなっている。何が正しいのかわからない。

 確かなのは、この腕にあるこの温もりだけだ。

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