第31話 猫と眠れ(4)

「これが私のしたいことなんだよ」

 杏菜あんなは缶コーヒーのプルタブを開けた。プシュッと心地よい音が地上二十メートルの夜空にこだました。

「アダムの求める欲望?」

「そういうこと」

 高層ビルの屋上のヘリをベンチがわりにして腰かけ、足をぶらぶらさせながら、夜風に吹かれていた。街のネオンはキラキラ青白い光を夜空に投げかけていた。視界の端には先ほどの空中庭園があった。

「黒江が暴力で人を苦しめるのが喜びなら、あたしは暴力で人を助けるのが喜び。毎回変えてはいるけど、SNSのアカウントで助けが必要な人を探している」

 杏菜は缶コーヒーに口をつける。杏菜は無糖、凛音りんねはミルク味だ。

「悪漢どもを罰して気持ちいいこともある」

 でも、と杏菜は言った。

「今夜みたいにすっきりしないことの方が多いね。依頼人が嘘をついていて、存在もしない架空のテロリストを追いかけたこともある。ねえ、凛音はどう思った? もしあんたがこれをいいと思うのなら一緒に来なよ」

「私は」

 凛音は缶コーヒーの飲み口に空いたハート型の穴を見つめた。“使徒”特有の超人的な視力がなかにある灰黒色の液体を認識する。

「悪い気はしなかった。でも杏菜みたいに続けられるかはわからない。ある種の覚悟がないとできないことだと思う」

「私がこうして夜な夜な戦ってるのは正義のためだ。社会には正義がなされないことが多すぎる。こういうの嫌なんだよ」

 分かる気がする、と凛音は言った。

「大き過ぎてツブせない巨大組織の犯罪。権力者や金持ちの誰からも裁かれない犯罪。無抵抗の子供に暴力をふるう親。こういうのにあらがいたいんだよ。私自身ひどい目に遭ってきたわけじゃない。両親は普通の人たちだよ。私が立ち上がってるのは純粋に私自身のため。私の気が晴れないからなんだよ」

「杏菜は正義の人なんだね」

「そうでありたい」

 杏菜はコーヒーを飲み干した。

「今夜はありがとうね、凛音。あんたのことは好きだよ。もし後で気が変わったら声をかけてちょうだい」

 杏菜は笑みを向けた。おやすみ、杏菜は宙に浮いた。見る間に姿を消した。

 空中庭園では動きがあった。

 夜の鳥が一羽飛んできてはまた去っていった。フクロウか。仙台で初めてみる鳥だった。

 ベンチの女が立ち上がった。木張りの地面の上を歩き、ビルの端に行くとフェンスを登り始める。フェンスの向こうは何もない――虚空以外は。

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