第29話 猫と眠れ(2)
部屋の前には、しかめ面の男が立っていた。タンクトップ姿で肩幅は広く、両肩には矢で射抜かれたハートのタトゥーが刻まれていた。
「何か御用でしょうか?」
外見とは裏腹に、その物腰たるや高級ホテルのドアマンを思い起こさせた。一方で視線は監視カメラのように杏菜と凛音に冷然とすえられている。
「どうする?」
「紳士的に鍵を開けてもらうよ」
ドアマンは杏菜の催眠術にかかった。ドアマン氏が二人のためにドアを開けてからも、
「最近はどこに行ってもカメラがあるんだよね。一回だけ失敗して姿を撮られちゃったんだよ。全部壊しておかないと」
いつの間にか杏菜の手のひらには人差し指がさしこめるほどの穴があき、中から黒々した重たい煙が絶え間なく噴き出し、建物のエントランスの中へと忍び込んでいく。
「黒い気体はすべて虫だよ。ごく小さな甲虫がより集まって煙に見えているんだ。こいつらが部屋の中のありとあらゆるカメラ機器に入り込み、
凛音もこのような術が使えることは黒い本で知っていたが、こうした工夫は発想になかった。なお、ドアの上方からコチラをのぞいているカメラには既に大きな一匹が覆いかぶさっている。
頃合いをみて、杏菜はそろそろ行こうかと言い、凛音は頷いた。
ロールスロイス一台は入りそうな広いエントランスには男女の靴が並べられていた。ざっと十足ほどある。杏菜と凛音は土足のまま踏み込み、長いフローリングの廊下を進んだ。
廊下の突き当たりは部屋になっていた。照明は落ちていたが、杏菜と凛音としては夜目が効くのでお構いなしだ。
扉の向こうはサッカーとまではいかないが、フットサルができるぐらいに広かった。天井は高く、
暗闇の中で裸の男女が立ち尽くしていた。彼らは目が見えず
「おい、ブレーカーまだか」
金髪の口髭の男が言った。眉根を寄せ、忙しなく足の裏をフローリングの床に打ち付けている。肩には刺青の桜吹雪が舞っていた。
「ブレーカーは下がってます」
遠くから男の声がした。
「だったら暗いはずねえだろ。いい加減にしろよ。ちゃんと見てんのかこの野郎」
女たちは暇そうにしていた。髪の毛をいじったり、ぼうっとしたり。
やがて明かりがついた。甲虫が役目を終えて無に帰ったのだ。
悲鳴が上がった。杏菜と凛音。目の前に目元を隠した見知らぬ女たちが増えていたのだから無理もない。
「誰だてめえらは」
そう言いかけたスキンヘッドの男は直後フローリングの床に崩れ落ちた。杏菜の筋肉質な長い足が脳天に叩きこまれたのだ。
女たちが絶叫し、男たちは色を成して立ち向かってくる。1メートルくらいの警棒を持っていた男三人は、ちゃんと服を着ている。どうやら外にいるやつと同様、用心棒として雇われている人間のようだった。
二人は杏菜に、一人は凛音に向かってきた。
――うわ、こっち来た。
誰かに襲われる(それも入れ墨の入った男に)経験はこれまで一度もなかったから、凛音は軽くパニックになった。男の警棒が凛音の右腕を強く打ち据えた。ちゃんと痛い。きゃっ。凛音は小さく悲鳴を上げた。
「誰の差し金だ!?」
警棒男は怒声を響かせた。二度三度警棒が叩き付けられる。その度に凛音は悲鳴を上げた。
男の放り投げた警棒が床を叩き固い音を発した。男の野太い両腕が伸びてきて、凛音の喉を食いしめる。喉から空気が奪われる。
――く、苦しい。
凛音は恐怖した。
「大丈夫、やっちゃっていいよ」
杏菜は叫んだ。
首が一段と強くしめられる。使徒は不死身だと言うけれど、このまま死んじゃうんじゃないだろうか?
――立ち向かわなくちゃ。
凛音は勇気を奮い起こす。
両手の指先がちりりと熱を帯びる。爪が両刃のナイフのような形に伸びた。
凛音は自分の首を絞める腕に、全ての指を突き立てた。肉をさいて爪が食い込む。ぶちぶちと筋繊維が千切れていく感触を爪の先に感じた。
男は絶叫を上げ、手を離した。
その瞬間凛音は反射的に手を振り上げてしまった。爪の先っぽが何か柔らかいものを切り裂いた。
目の前の男は顔を押さえてうずくまっている。顔を押さえる指の間から、アケビみたいにパックリ裂けた傷口がのぞいた。
「アッ。ごめんなさい」
凛音は謝罪した。――そこまでやるつもりは。
男は転げ回って、ローテーブルに体を打ち付けた。テーブルの上の灰皿が床に落ちた。丸型の灰皿は中身をぶちまけ、灰を巻き上げ、ごろごろ転がっていくと壁の巾木のところにぶつかって止まった。
杏菜に目をやれば、相手がアーミーナイフを構えたところだった。
「ぶっ殺してやる」
相手は何度も殴られ蹴られたのだろう、たんこぶやあざで顔をいっぱいにしていた。天井の照明を跳ね返してナイフがきらりと光る。
ナイフを持って男が突進する。迎えたのは杏菜の爪だ。三十センチはあるだろうか。長い爪はナイフの金属部分ごと男の指を切断する。すかさずブーツの靴底が男の鼻柱を潰した。
杏菜に立ち向かっていったうちのもう一人は、ナイフが切断される目の前の出来事に完全に戦意を喪失したようで、手から警棒を取り落として体を震わせていた。
その男は杏菜に髪をむんずと掴まれると床に顔面を叩きつけられた。床は赤く染まった。
杏菜の見つめる先にいるのは、個人投資家たちだった。お互いに助けを求めるように身をよせ合う姿は、まるで極地で越冬するニホンザルの群れを思わせた。
「さて」と杏菜。「あんたたちの罪を告白してもらおうか。あたしに力づくで言わされたくなきゃね」
身体中に刺青だらけの男たちは蒼白な顔で土下座すると口々に許してくださいと言った。杏菜は首を横に振る。
「そうじゃないだろ。あたしが言ったことなんだっけ?」
男たちは言葉に詰まった。きっと心当たりが多過ぎてどれから話していいのか分からないのだろう。
女たちは立ち上がった。そのうちのひとりが「泉区のこいつらの会社に私たちを撮ったビデオが置かれている!」と叫んだ。
「女の子に酷いことしてきたようだな、お前たち」
杏菜の視線は太陽ですら凍えさせるほど冷たい。
男たちは震えるばかりだ。
ふと凛音のすぐ目の前で動きがあった。顔を裂かれた男がのろりと起き上がったのだ。なかなかガッツがある。震える手で懐からナイフを取り出し、凛音に先っぽを向ける。
凛音は杏菜に目を向けた。――どうする?
「逃すんじゃないよ。ビビらせてやりな」
凛音はてくてくと近づいた。男は顔から流れた血で上半身を真っ赤に染めていた。顔の傷口は乾きはじめている。思ったより傷が浅かったので凛音は安心した。爪でナイフをはたき落とした。なけなしの気力を保っていた男の顔が悲しげに歪んだ。
ビビらせてやれって何をしたらいいんだろう⁉︎
やることに窮した凛音は、男の腕の刺青の肌を指先で掴んで引っ張った。皮膚と肉をはがすのにそんなに力は要らなかった。少なからず血があふれ出したのにはびっくりしたが。
部屋に絶叫が響き渡ったが、肝心の男よりも投資家たちの声の方が大きかった。
千切れた皮膚には黒人の顔が描かれていた。凛音の辞書の中にはジミ・ヘンドリックスが登録されていなかったので、誰なのかは知る由もなかった。
「すごいことするな、お前」
杏菜は苦笑いを浮かべていた。
「もしかして、やりすぎちゃった?」
「ブン殴るぐらいでいいんだよ」
『A子』を連れてくるよう取り計らったのか名乗り出ろ、杏菜は言った。
個人投資家たちがクモの子を散らすかのように逃げた。出入り口に向かおうとしてそこに凛音の姿をみとめて、個人投資家たちは途方にくれた。杏菜の目の前に男がひとり残った。跳ね上げた金髪に口髭の男だった。
「お前か」
男はこくこくと首を上下させた。
「ひょっ、お、女を連れてくるように命じた」
「誰に命じた」
「そうだ。俺のタレに言ったんだよ」
「お前のタレだあ?」
杏菜は眉根をよせた。
「詳しく話せ」
杏菜の鋭い爪先は男の喉にぴったり当てがわれている。少しでも動かせば深々と突き立てられるだろう。
「な……何を知りてえんだよォ……」
「そのタレの素性だよ」
男は話した。男の運営するキャバクラのキャストだった。男の共犯者だった。この場に何人もの女を連れてきたのだと言う。
「その女のことは分かった。じゃ、別の女のことだ。連れてきてどうするつもりだった」
「お、お、犯すつもりだった」
男は声を震わせた。杏菜の爪が男の右目に突き刺さった。部屋の壁という壁に絶叫が反響した。
「もし再犯したらもう片目ももらっていく。いつでも見られていると思えよ」
苦痛にのたうつ男を置き去りに、杏菜は立ちあがった。その後ろ姿を追って凛音もついていく。そして後ろを振り返った。血まみれの男たち、気絶して倒れる女たち。杏菜の目がすみれ色に光り輝く。
「お前らはすべての女についての記憶を失う。でもまた誰かを犯そうとすれば片目をエグりに来る奴がいるってことだけは絶対に忘れんなよ」
マンションを出るとドアマン氏が待っていた。杏菜の鉄拳を頬に叩きこまれ、男は通路の床に突っ伏した。
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