第28話 猫と眠れ(1)

「そろそろね。服を着て」

 杏菜あんなは腕時計を見た。カルティエの文字盤もバンドもごく小さいやつだ。

 今晩会うことの条件として、杏菜の『案件』に同行することになった。どうせ夜中寝なくてもすむ身体になってしまったのだ。付き合うことにした。

 凛音りんねは地面からレザーの上下を拾って身につけた。この前 山嶺やまみね篤志あつしから頂戴したやつだ。学校で習った裁縫さいほう技術をフルに使ってほつれをきれいにした。

 杏菜はミリタリージャケットにオリーヴ・グリーンの迷彩柄のショートパンツ。

 目元にはラテックス製のアイマスクをつけている。杏菜にとってこれは自分で自分の精神を高揚させるためのものなのだ。マスクをつけて我を忘れるという感じは凛音にも分からなくもない。アイマスクは凛音にも渡され、レザーの雰囲気とも調和して凛音は気に入った。

「 テ ィ リ エ ル ・ ア ゼ ル エ ル ・ ベ ル ゼ ブ ル 」

 杏菜が宙に体を浮かせ高く上昇する。凛音はその背中を追いかける。高いところから見渡す仙台の夜景はとてもきれいだった。

 夜闇にまぎれて市街地へと向かう。二人を見つめるのは雲間からあふれ出した星の光だけだ。

 ひっきりなしに車が行き交う車道を、ネオンの輝くビルディングを超えた。杏菜が降り立ったのはビルの屋上の空中庭園だった。凛音たちは床に敷かれた板張りの上に音もなく着地した。

 街のネオンの青白い光が照らし出すベンチの上に女の子が一人座っていた。

 年齢は杏菜より少し上くらい。茶色に染めた髪は長く、ウインドブレーカーの下はパンツスーツ姿で、いかにもオフィスから飛び出してきたようだ。

 杏菜は女に近づいた。女は幽霊でも見てしまったかのように驚愕の表情を浮かべた。

「まさか本当に来てくれるなんて」

 女は口元に手を当て目を見開いた。

「あなたが連絡をくれた方?」

 杏菜がきいた。

「そうです」

「前に教えてもらった内容を今ここでもう一度話してくれる?」

 女はうなずいた。つぶらな瞳。人の良さそうな丸顔。女は語った。自分の姉が巻き込まれた暴行事件のことを。


 女性の姉(仮にA子とする)は四月のある夜、親友の女性に招かれ個人投資家たちの主催するパーティに参加した。会場は市内にある高所得者向けマンションの一室だった。

 個人投資家というのは二十〜三十代程度の若い男たちだったが、若さとは不釣り合にグッチやアルマーニで身を固めていた。指を飾るドデカイ宝石。首元を彩る宝飾品。

 奴らは常にあざけるような視線でA子と向き合った。A子はすぐに帰りたくなったが、誘ってくれた親友の手前我慢した。

 やがて北京ダックやローストビーフといった豪華なディナー、シャンパン、アイリッシュ・ウイスキーなどの酒類がデリバリーされた。そこまではA子も楽しくないこともなかったという。

 その後まもなく、A子は強姦された。男たちに取り囲まれて腕に注射を打たれた。覚醒剤かくせいざいだ。暴れようとしたら顔を殴られたので抵抗するのをやめた。

 代わる代わる男たちに犯され、その様子をビデオに撮影された。男から『覚醒剤を打たれているからたとえ自分の意思じゃなくても犯罪になるぞ』と吹き込まれた。あまつさえ、ナイフをちらつかせて『パーティで性交したのは全て自分の意志であると言え』と強要された。

 気がついたら親友の姿が消えていた。狂った男たちに追従ついしょう笑いをしてきた親友はその時になって男たちとグルだったのだとA子は覚醒剤でにごった意識のなかで悟った。

 解放されたのは日が昇ってからだ。A子はトレンチコートを渡された。それを着て帰れというのだ。それと札束を渡された。『報酬』だと言われた。いくらもらったかA子は覚えていない。その後でゴミに捨ててしまったからだ。

 アパートに帰り、シャワールームの鏡に映るあざだらけの顔と身体を目にしてA子は泣き崩れた。

 ベッドに入り眠ろうとした。眠ろうとしたが男たちの顔がまぶたの裏によみがえってきて眠れなかった。顔、顔、顔。悪魔の顔。不眠症になった。会社を休んだ。

 連絡が取れず、心配になったA子の妹=つまり今回の依頼人は、姉の部屋を訪れた。鍵が閉まっていたので、合鍵で入り込んだ。ベッドに横たわるやつれ切って別人と化した姉に依頼人は驚愕を禁じ得なかった。

 姉が真相を語ったのはそれからしばらく経ってからだった。

 最初はなにも話してくれなかった。うつろな目で訳のわからないことをつぶやいていた。依頼人は涙をこらえながらA子の世話をした。流動食と呼べるくらいによく煮込んだおかゆを作って食べさせた。

 体力が戻ってきたA子は依頼人に真実を話し始めた。五月の半ばの頃だった。

「姉はまたとこにふすことになりました」

 依頼人は言った。

「奴らは姉に電話を掛けてきたんです。ビデオをネットに流されたくなかったら、またマンションに来い。そう言いつけました」

 A子はパニックになって床に倒れた半開きになった口の端から粘性の泡がゴボゴボと噴き出した。


 彼女の復讐をしたい。

 依頼人はある噂を思い出した。

 困ったときにとあるアカウントに依頼すれば必ず正義を執行してもらえると。

 誰が話していたかも覚えていないし、ただの噂話かもしれない。

 依頼人はワラにもすがる思いで例のアカウントにダイレクトメールを送った。


 @jupiter=beelzebub 姉を助けてください


 @jupiter=beelzebubからすぐに反応があった。


 @HelpGirl 詳しく聞かせて


 そして杏菜は依頼人と対面している。

「男たちの巣はどこ?」

 杏菜は目の前の女に、ベンチの上で泣きじゃくる女にたずねた。

 女は自分の正面を真っ直ぐ指さした。首を巡らせると、指差した先に赤々と輝くタワーマンションがあった。

「部屋は?」

 依頼人はスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。画面に描かれた無数の吹き出しのひとつに、


 今日こそぜってー連れてこいよ。603号室だ。


 とあった。

「さて、パーティ会場に乗り込まない?」

 杏菜が凛音に言った。アーモンド型の目にマンションの冷たい明かりが反射した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る